十九歳 その3
「懐かしい懐かしい!誰よこれ入れたの?」
ナナ先輩の感覚はもっともだ。
最近、サザンクロスの新曲は出ていない。ピーク時と比べてテレビに出る回数も格段に減ったようだ。
いやそうなる以前に、葉月は彼らの曲をほぼ聞かなくなっていた。
最後に聞いたのはいつだろう?
「能勢ちゃん!ほら能勢ちゃん!」
向かいの席から、なぜかマイクを渡された。
違う、オレはこんなの入れてない。
入れるわけがない。
「お、オレ違うよ、この曲入れてないよ」
「でもサザンクロスっつったら能勢ちゃんだろ?」
名前も知らない、多分同級生がそう言った。癇に障る金縁メガネ野郎だ。
「いや入れたやつが歌わんかい」
「誰入れたか分かんねえしさ」
多分こいつなんじゃないか、と金縁メガネを見ながら思った。まあ真相は分からない。
そうこうしているうちに、イントロは終わってしまう。歌い出しはすぐそこに迫っていた。
歌うか?歌わないか?
歌いたくない。葉月の体全体の細胞は、凄まじい勢いでマイクを拒否した。
そのまま、テーブルの上にマイクを置いた。
ゴン、とエコーのかかったノイズと、ボーカル抜きの間抜けな伴奏だけがその場に残る。
部屋全体の空気が、一瞬でしらけた。
歌わないのかよ、と責めるような視線が、なぜか葉月に集まった。
葉月はこれでも、人付き合いの面では「ノリ」を大切にしてきたつもりだ。こんな事態は多少の犠牲を厭わず避けてきた。
しかし、これだけは別だ。
葉月は「なんだよ」と視線を跳ね返すように、残りのウーロンハイを一気飲みした。
もう遅い。聞いてしまった。久しぶりに。
イントロを聞いただけで、鮮明に蘇ってきてしまう。抑えようとしてもこういうのは無駄だ。葉月はすでに熟知していた。
できることはもう、まともに思い出して、傷口に塩水をたらして、痛がることくらいだ。
まだ誰も「演奏中止」のボタンを押さないので、ずっと伴奏が流れ続けている。
『Take the Moon Night Train』、サザンクロスの代表曲の一つ。
それは、あいつが最初に気に入ったサザンクロスの曲でもあった。
確か、高校一年生の時だ。今でも覚えている。放課後の廊下で、先に聞いてきたのはあいつだった。
「ねえ能勢ちゃん、サザンクロスってあるじゃん」
「お、ついにお前も手を出し始めたか?」
「いやまだよく分かんなくて。でも何か一曲ぐらいはちゃんと聞きたいと思ってるんだけど」
「はっ?どういうこと?」
「最近ずっと優くんがそのこと語ってるからさ、私も話題についていきたいなあと思って。知りたいんだよね、サザンクロスの魅力?みたいなものを」
「お前——」
「言いたいことは分かる。でも私もファンになりたい気持ちがあるのよ。だからさ、私の気に入りそうな曲、何か教えてくれない?」
「ええ?そんなの彼氏に聞けよ」
「そんなの聞きづらいよ、あんなに夢中にサザンクロスのこと語ってるんだもん、実はまだハマってないなんて言えないでしょ」
「何だよそれ。一人で探せばいい話じゃ——」
「でもさあ、私の好み大体分かるでしょ?」
「うーん、いや、分かんないね」
「意地悪だなあ」
「本当にファンになりたかったら曲を片っ端から聴くとか色々あるだろ」
「どっから聴いたらいいか分かんなくて」
「面倒だなあ——それじゃあさ、最新曲から聴いてみたらいいんじゃない?」
「最新曲?」
「ちょうど来週出るのがあるから。動画でMVの一部がもう公開されてて、とにかく良い曲なのよ」
「なんて曲?」
『Take the Moon Night Train』は結局、記録的な売り上げを叩き出し、最も有名な曲になった。
当然葉月も何度も聴いていた頃がある。長いブランクがあっても、イントロを聴くだけですぐその先の展開が思い出せる。
そしてその曲の記憶はもう、他の記憶とも結びつけられているのだ。
あの時の夏の空気、可奈子抜きでパーカスのメンバーと行った花火大会の火薬っぽい匂いまで、鮮明に蘇ってくる。
ぐらつく頭を振った。
耳障りだ。確かに良い曲だけど、今は何よりも聞きたくないイントロだ。
「急にどうしちゃったんだよ、おい、葉月」
何も知らないで金縁メガネが言う。機嫌が良さそうなのが癪だった。
「なんかこの曲にトラウマでもあるの?」
これはナナ先輩だ。
「トラウマとかじゃないです」
「そのトーンは何かあったなあ?」
「うるせえな」
今オレはナナ先輩と話してるんだ。他のやつは黙ってろ。
「ほおん」
目を丸くして、ナナ先輩はうなずいた。
「もしかして——あんまり触れられたくない系のやつかな?」
「まあ——まあそういうことです」
「失恋だな?」
「違うわ!」
また横入りしてきた金縁メガネは、予想以上に驚いた。それから「おいおい」と呆れるように笑い出す。
「ムキになったら逆に怪しいぜ?」
「メガネ、お前はちょっとうるさいな」
「ひどい扱いだなあ」
笑い方も気に食わない。葉月は金縁メガネを、視界から徹底的に排除することに決めた。
とにかく曲を止めよう。
「それ、取ってください」
ナナ先輩は心配そうな顔をしてタッチパネルを回してきた。
「能勢ちゃん——」
葉月は先輩に何も言わせずひったくり、ようやく「演奏中止」のボタンを押した。
音楽がフェードアウトし、息苦しいメロディから解放された。
そして何事もなかったように次の曲がかかり、金縁メガネも何も言ってこなくなった。
葉月はしかし、もはやこの飲み会には参加していなかった。誰とも話さずぼんやりしていた。
ずっと心の奥深くに封印しようとしていた思い出が、思わぬ形で掘り起こされる。冷静でなんていられなかった。
またウーロンハイを注文して、半分ほど一気飲みした。このフラフラする感覚を利用して、また彼女のことを記憶の外に投げ出したかった。
「ペースアップしたね、能勢ちゃん」
ナナ先輩の声も、次に話しかけられた時には霞んで聞こえた。
「そうですよ」
「ねえ、私は余計なところに首突っ込むつもりないけど」
葉月は彼女の言葉を、どれくらい理解できていただろうか。何せその辺りから上手く思い出せないのだ。
しかしこう言われた事だけは、はっきり覚えている。
「失恋の痛みを癒す唯一の薬は、やっぱり次の恋だよ」
なぜ覚えているかというと、その後葉月は全力で「だから違いますよ!」と叫んだからだ。そして自分で叫んだのが効いてきて、吐き気が止まらない妙な感覚が始まったからだ。
何回かトイレに行って、しかしなぜか吐くこともできずに、生き地獄を味わうことになった。
何を飲んでもほとんど味がしなくなっていた。ウーロンハイだって、水を飲んでいるようだった。
それはもはや、そっくりあの時の、一年半くらい前のアイスティーの味と一緒だった。
パン屋の二階。
向かいに座る彼女。
あれだけ味のしないアイスティーは後にも先にもないだろう。
あれだけ大きな失敗も、もうないかもしれないと思っている。
『人生の失敗ベストファイブ』の中でも上位に違いない、この上なくバカな判断だった。
どうして「そうしよう」って言えなかったんだ。
どうして訳の分からない理由で逃げたんだ。
どうして自分に正直にならなかったんだ。
自分を責めても責めきれない、深く根をはった後悔が葉月の心の奥ではくすぶり続けていた。
もしもあの時、と考えても無駄なのは、十分すぎるほど分かっていた。だから余計に心が痛い。
それでも思わずにはいられないのだ。
「だからもしあの時、正直に答えてれば——」
「なるほど、なるほどね」
ぽんぽん、と肩に手を置かれ、葉月は意識を取り戻した。
いや意識は最初からあったらしい。喉が、ずっと喋り続けた乾き方をしている。
葉月はどうやら、バス停のベンチに腰掛けていた。葉月にとっては通学路の途中のバス停だ。
時間感覚が吹っ飛んでいた。二、三時間経ったのか五分くらいしか経っていないのか、よく分からない。
ただ、まだ辺りは真っ暗だから、そう長くは経っていないだろう。
少しずつ、状況が分かってきた。
そしてようやく隣の、清瀬先輩の存在を思い出した。彼は葉月の視線に気づくと、咳払いをした。
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