十三歳 その2
「確かに能勢ちゃんはね、声がでかい」
「お前まじで言ってる?」
「自覚はないのね」
「ほんとか?オレって声でかいの?」
可奈子は答える代わりに鍵盤をいくつか鳴らす。軽やかな音が音楽室に広がった。
「伴奏弾いてあげるから、歌ってみて」
と、可奈子はホームルームの時と全く同じように伴奏の最初の方を弾き始めた。
葉月の頭の中は急に、戸惑いでいっぱいになった。
「あ、ちょ、ちょっと待てよ、俺ここで歌うの?」
彼の声がかすかに聞こえ、可奈子は手を止めた。内容までは分からず、「ん?」と丸い目をして葉月を見た。
「なんて?」
「オレ一人で、歌うの?」
「そりゃあそうだよ、能勢ちゃんのための練習なんだから」
「な、なんでオレが可奈子の前で一人で歌わなきゃいけないんだ」
「ええ?」
恥ずかしい、と単純に言葉にできるような感情でもなくて、どう表現すべきかが分からなかった。
可奈子は少し大げさに溜め息をついた。しょうがないな。
彼女の手は、再び鍵盤の上に置かれた。葉月の戸惑いを無視して、また伴奏が滑らかに始まった。
次も歌ってたまるか、と思った。だが歌の部分が始まると、ピアノ以外の音が聞こえてきた。葉月は彼女からそらしていた目線を慌てて戻す。
間違いない、可奈子が歌っているのだった。
ピアノを弾きながら楽譜を見つつ、主旋律になるところを、パートの枠を超えて歌っていた。
唖然としてしまい、葉月には何のリアクションをとる余裕もなかった。まさか自分で弾き語りをするとは思わなかった意外さもあるが、それ以上に葉月を驚かせたものは他にあった。
可奈子の歌声だ。
どう形容すればいいのか、歌手のように声量があるわけでも、カラオケで点数が取れるような技巧が入っているわけでもなかったが、葉月にはその声が誰のものより透明感があって、心に響くように感じられた。
歌がこんなにうまいとは知らなかった。
どうしてこの人はピアノなんかやってるんだろう。もったいなく思えるほどの綺麗な声だった。
そこでまた伴奏が途切れる。
葉月は目が覚めたように瞬きを繰り返した。
「何してんの、せっかく歌ってあげてるんだから歌ってよ」
字面は責めているようだったが、声の調子は全く険しくなかったし、表情にもそんな気配はなかった。
本当になぜ葉月が歌い出さなかったのかを不思議に思っているような、きょとんとした顔だった。
何だこいつ、変なやつ。
「お前——ピアノ、ほんとにやりたかったの?」
ふと湧き上がってきた疑問は、頭を介さず口に出た。可奈子は両脚とも葉月側に揃え、口だけにこりと笑って言った。
「私、ピアノやりたいとは言ってないんだけどね」
その言い方で、大方察することができた。
今思えば、ホームルームでピアノ担当を決める時、確かに可奈子は立候補ではなかった。周りの人たちが「大西さんピアノ得意じゃなかった?」と推薦したのだ。
本人の意思については、誰も聞かなかった。
「歌いたかったのか」
「いや、でもここもなかなか悪くないよ?」
どうやらその言葉に、気遣いや躊躇いの色はないようだった。なんてことないや、という風にけろっとしているのが、葉月には不思議だった。
「クラスで一人だからね、こんな機会もなかなかないし」
「そう、なのか」
それでも何だか、この声を今まで誰にも聞かれずに来たのだと思うと、後頭部がむず痒くなるような、何とも言えない気持ちになるのだった。
「次は歌う側になれたら良いな」
深くは考えずにそう言った。
可奈子は葉月の想定以上にはっきりと反応した。両眉をぐっと上げ、口を力なく開けたまま何秒か固まってしまう。
沈黙の気まずさもあり、葉月は慌てて付け足す。
「あのーそうだ、あのー来年も同じクラスになったらさ、今度はオレがピアノやるよ」
「ふん」
「おい鼻で笑うなよ」
「ごめんごめん、能勢ちゃんって親切の方向ときどき変だよね」
「そんなことないだろ」
「同じクラスになったらって、うちクラス六個もあるんだよ?それピアノやろうとしてるのかしてないのかよく分かんないよ」
困惑していながら、可奈子はなぜかげらげら笑っていた。
ますます理解できないやつだ。
「何だよ、文句あるかよ」
「ないない。でも弾けるの?」
「オレも実は弾けるんだよ、知らなかったろ」
「じゃあもし同じクラスになったら、お願いね」
「おう任せろ」
「それじゃあ早速、伴奏弾くから歌って」
「なんだそれはやるのかよ」
可奈子は両脚の位置を戻し、謎に嬉々として指を鍵盤に置いた。
「可奈子も、歌いたいよね」
「もちろん私も歌うから」
彼女が言い終わる頃には、伴奏が始まっていた。
仕方ない、これはもうやるしかなさそうだ。
歌い出しのピアノをよく聞いて、リズムを確認して、葉月は全力をかけて歌い出した。
可奈子は、お世辞にも楽譜通りと言えない彼の声を聞きながら、自分も歌いたいように歌った。
——私は歌うのが好きなのだ。可奈子はこの時、久しぶりに思い出したのだった。
「うわあヘタクソだね!」
「え何か言った?」
「これ録音してあげる、後で聞いてびっくりすると思うよ」
音楽室には正確なピアノの音と、明らかに合唱にはそぐわない大きな声と、透き通った優しい声が一緒に響いていた。
これほどまでにいびつなアンサンブルが、未だかつてあったかどうか。少なくとも葉月と可奈子にとっては、本番の発表に勝るとも劣らない印象が、それぞれの記憶に残されたことは確かである。
放課後特有の鋭い夕日が、音楽室に差し込んできた。葉月は床に反射した光の眩しさに手をかざす。
可奈子の指は木製タイルの床でも、鍵盤の影の上で楽しそうに踊っていた。
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