中学校編
十三歳 その1
合唱の発表が近づいていた。
校舎のどこにも落ち葉があふれ返り、乾燥した空気を含むひんやりした風が足元を通り過ぎる、そういう季節だった。
この中学校では、合唱は近くの文化会館を借りて行う一大行事だった。クラスごとに一ヶ月以上前から練習を始め、その成果を発表する場には全生徒が注目する。それは体育祭や修学旅行と並ぶ本格的なイベントだった。
合唱の発表は、二人とも今回が初めてだった。それぞれの小学校には、そうした機会がなかった。
葉月は静電気に怯えながら、音楽室の分厚いドアを開ける。
天井が高く、小さな穴が無数に空いた防音仕様の壁がぐるりと四方を囲む音楽室は、いつ来ても緊張感を煽る空間だ。
しかも今回はほとんど空っぽだった。本来ならクラスメイトでいっぱいになるはずの席には今、誰も座っていない。
放課後、みんなは部活動に向かっている時間だ。葉月は一応バドミントン部に入っていたが、いわゆる幽霊部員だったので練習に行かないことも多かった。今日も練習はサボり、まっすぐ家に帰れるはずだった。
しかしホームルームの時間に厄介なことが起こった。
合唱のリーダー役は、指揮者の生徒だ。この中学では「自治」の教育方針が強調されていて、担任はほとんどこうしたイベントで直接的な指導をしない。
合唱でどの曲を選ぶか、どのような見せ方をするかは全て生徒に委ねられる。つまりそれぞれの組の合唱については、指揮者が実質的な最高責任者となるわけだ。
この日のホームルームでは、音楽室を借りて全体練習を行った。曲は決まり、パートも決まり、ついに本格的に歌の練習に入った。
葉月本人としては“普通に”歌ったはずだった。みんなと声を合わせ、与えられたテノールの楽譜を見ながら、堂々と。自分としてはどこに欠点があるのか、よく分からなかった。
しかし、だ。
そもそも指揮者だった
いつも少し上から目線で話してくるところが鼻についた。指揮者になったからって、そんなに偉そうにする権利はないだろ、と思っていた。
そこで練習中に名指しで指摘されたのだから、葉月には耐えられなかった。
「——能勢くん?もう少しさ、音量下げてくれる?」
もう少し穏やかな言い方だったら、少なくとも穏便には済ませられたのかもしれない。
だが葉月は、いちいち相手のペースに合わせて大人しく対応する柔軟さは持ち合わせていない。一気に怒りの沸点に達しそうになり、いらつく気持ちを必死に抑えながら低い声で言った。
「ああ、はい」
その返事が、秋元晴海の神経を逆撫でしたらしかった。
「前から思ってたんだけどさ——」
この時点でクラス全体の雰囲気が一気に凍りついたことは、言うまでもない。
「能勢くん、やる気ある?」
「は?」
「いっつもだらんとしてさ、歌う時も周り見てる?」
さすがにここまで言われては、葉月も我慢がし切れなかった。
「え、文句ある?」
「はっきり言うと、あるよ。大体能勢くんさあ——」
何も言い終わる前に、葉月は段を降り、大股でぐいと秋元の方に近づこうとした。
——こいつ一発殴ってやる。
しかし段を全て降り床に足をつけた時点で、ピアノ側から声がかかった。
「あーまあまあまあ!」
ピアノの演奏担当。
大西可奈子だった。
彼女は六歳の頃からピアノを習っていて、この頃にはかなりの腕前にまで上達していた。一年一組の中ではダントツで大西さんだろう、ということで意見が一致して、スムーズに彼女はピアノ奏者の大役を任されていた。
可奈子は席を立ち、ある提案を始めた。葉月は眉をひそめて、秋元晴海は真顔で、その提案を黙って聞いた。周りの空気がどことなく和らいでいくのが、誰にでも感じられた。
それから、今に至る。
「あ、やっと来たね、遅刻だよ」
約束どおりピアノ椅子には、可奈子が座っていた。
「一分ぐらいだろ」
「三分」
「はいはいすいませんすいません」
葉月は後ろ手にドアを閉め、もう用意されていたらしい木の椅子にどかっと座る。
「大体ねえ、そういう能勢ちゃんの態度が元凶なんだよ」
「いや、あれはどう考えてもハルミだろ。あんな言い方されたら黙ってられるわけないじゃんか」
この時から、葉月は男女に関わらず「能勢ちゃん」というあだ名で呼ばれていた。
「可奈子だって聞いただろ、あいつオレのことピンポイントで嫌ってんだよ」
そして葉月は基本的に、女子のことは下の名前で呼び捨てすることにしていた。呼び方のせいで変に距離感が生まれることを、無意識に避けていたのかもしれない。
「まあその節はなくもないだろうけど——」
「その節だ、その節百パーセントだ」
可奈子は呆れたようにピアノのカバーを開けて、楽譜を置き直した。
彼女が喋らなくなったので、葉月は追い討ちをかけるように続ける。
「だってさ、俺の声そんなに邪魔か?あいつ俺が歌い出すとこっちばっかり見てきてさ——」
「正直、能勢ちゃんにも多少の責任はあるよ」
「へ?」
「だから、今私がわざわざ時間割いてあげてるの。自分の歌声ちゃんと聞いたことある?」
可奈子の提案、それは「放課後に個人練習」という思いもよらないものだった。
「オレはお前には頼んでないぞ」
「でも私が必要を感じたんです」
可奈子が「個人練習ってどうかな」などと言わなければ、彼女だってここにいずに済んだはずなのだ。何だってわざわざ、こんな面倒なことをしようとするのか。
葉月には、その辺りのことが全く理解できなかった。
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