十二歳

 入学式の日は清々しい晴れで、陽の光が暖かく、爆発的に花粉が飛んでいた。


 可奈子にとって、それは致命的な状況だった。彼女の花粉症は小学三年生の時に発覚し、それから毎年春は戦いの季節となっていた。

 目のかゆみや鼻のつまりに加え、風邪を引いたときのように頭がぼんやりとしてくるのが毎年の症状だった。


 この年は、特にひどかった。朝起きた時から十分にきつかったが、中学校の体育館に着いてからは一層どうしようもなくなっていた。ティッシュなしでは一分も持たなかった。

 一箇所にじっと立っていることすらままならない状態なのに、すました顔で式を耐え抜くことなど、できるはずもなかったのだ。


 ポケットティッシュは早々に尽き、箱ティッシュは教室に置いてきた。

 だから入学式は、始まって数分で持ち場を離れざるを得なかった。


 ずっとマスクをしてうつむき、苦しそうに肩を上下している女子生徒。そんなの第一印象としては最悪だ。私の中学校デビューはこれで終わりだ、と泣きそうになりながら、可奈子は新入生の列から泣く泣く外れたのだった。


 体育館のステージでは、おそらく学校の偉い人の話が始まっていた。皆はちょうど立ち上がりながら、先生の話に集中していた。


「すいません」「ごめんなさい」と鼻声でつぶやきながら、自分と同じ新入生の列を横切るのはいたたまれない気持ちになる。みんな、なるべく見ないで、と心の中で呟く。


 並びは出席番号順で、名字が「お」で始まるから隅は隅だったが、可奈子が振り分けられた一年一組は最初に体育館に入場したため、出入り口から一番遠かった。


 彼女の中学校は一学年で百五十人程度で、その人数が等間隔に並んでいる体育館を横断するのは、長い道のりに思われた。


 できるだけ目立ちたくなかったので、大急ぎで走り抜け、出口を過ぎるまでは振り返らなかった。


 一人で体育館の外の渡り廊下を歩くのは、心細かった。そもそも教室までの道も正確に分かっていないのに、このタイミングで体育館を出なければならないことが恨めしかった。花粉症、急に治んないだろうか。


 幸い、方向感覚は鋭い方だった。さっき一度通った教室の位置を、可奈子はわずかな記憶力と勘で探り当てた。


 当然ながら一年一組の教室には誰の姿も見えず、開いた窓から吹き込む強めの風が、閉めっぱなしだったカーテンを見たことがないほど膨らませていた。


 引き戸をガラッと開けると、カーテンのおかげでだいぶ和らいだ風が、可奈子の頬にも届いた。この空間には自分一人しかいないんだ、という気がしていた。


 しかし、実際は違ったのである。


 この教室の真ん中にはもう一人、別の新入生がしゃがんでいた。たまたま姿勢が低かったために、ドアの位置からは死角になっていただけだった。


 可奈子はまだそれに気づかない。ついさっき荷物だけ置きに来た教室の、出席番号順に割り振られた窓側の席に一直線に向かった。

 先に人の気配に気づいたのは、彼の方だった。


 その時、能勢葉月は忘れ物を回収するため教室にいた。忘れ物とはすなわち体育館用のシューズのことで、新学期用に買ってリュックに入れたところまでは良かったが、体育館に行く時に教室へ置き忘れたのだ。

 他のクラスメイトとは、ちょうど出発の時一人でトイレに行ったためはぐれてしまい、みんながシューズ袋をぶら下げていたことは体育館に着いてから気づいた。


 やっとリュックの中身を手で探り、感触でツルツルしたシューズ袋を取り出した。中身を色々と入れすぎたことが裏目に出て、探るだけでは見つからず、一度は全部出してみようかとも悩みながら、結局何分も費やしてしまった。でもこれでやっと入学式に参加できる。


 しゃがんでいた姿勢から一気に立ち上がろうとして、まずは腰を上げた、その時だった。

 明らかな人の気配を後ろに感じた。ここにいるはずのない「誰か」の存在に驚き、彼は思い切り立ち上がりながら振り向いた。


 そこで驚きのリアクションが大きかったのは、可奈子の方だった。

 大股で自分の席への一歩目を踏み込んでいた彼女は、いきなり床から現れた人間に腰を抜かした。右足の着地に失敗し、足首を見事にぐねらせてくじいた。

 そのままバランスを崩し、今までに体験したことのない角度で地面に肘を打った。そのまま床に倒れこむ。


 その一部始終を見ていた葉月は、数秒間どうして良いか分からず立ち尽くしていた。自分が立ち上がったことで、目前の女子生徒が訳の分からない姿勢で崩れ落ちた、という状況の把握がなかなかできなかった。


 やっと頭が働き始めると、彼は真っ先に相手を心配することを選んだ。

「だ、大丈夫?」


 可奈子は大丈夫だった。しかしこんな無様な姿を人に見られた、という恥ずかしさが勝り、何も言えなかった。せめてマスクをしていて良かったと思った。


 黙ってすっと立ち上がると、可奈子は自分を驚かせた相手を初めてまともに捉えた。

 身長は女子の平均くらいの彼女よりわずかに低く、新しい学ランはぶかぶかだ。顔つきも他の同い年の男子に比べて幼いし、声も高めだし、小学生が中学校の制服を着ているように見える。

 いきなり出てきたから飛び上がりはしたが、よく見ればそこまで怖がる相手ではなかった。


「な、なんかすごい勢いで転ばなかった?ケガしてない?」

 やっと呼吸が落ち着いてきた。可奈子はなるべく冷静に答える。

「大丈夫。大丈夫」

「ひじとかすごい音したけど——」

「大丈夫です」

 自分の鼻声を聞いているうちに、可奈子は自分の目的を思い出した。相手の反応を待たず、すぐに自分の席まで走って行く。


 箱ティッシュは机の上にあった。こんなこともあろうかと、あらかじめ置いておいたのだ。

 人に見られていることを、気にする余裕はなかった。マスクを外し、ティッシュを何枚も使ってはゴミ箱に投げていく。


「あ、花粉症」

 納得したような声が聞こえる。

 鼻をかんだティッシュを捨てながら、可奈子は振り向いた。


 彼はまだこちらを見ていたが、可奈子と目が合うとしばらくきょとんとした顔になる。

「そ、そうだけど」

 声を出してみてやっと気づく。あ、顔をばっちり見られてしまった。


 慌てて目をそらしうつむく。恥ずかしさで顔が火照ってくるのを悟られたくなくて、そそくさと教室を出て行こうとした。早足で出口のドアに向かう。

 彼は可奈子から目を離さず、「花粉症、大変だよね」とためらいがちにつぶやいていたが、可奈子の態度を見てそれ以上話すのを諦めた。


 葉月は彼女が教室を出てしまってから、そういえばここに荷物があるということは、彼女はクラスメイトなのか、という発想に至った。入学式が終わればまた後で会うことになる。


 彼は、一度見た顔は忘れない。図らずも一番最初に覚えてしまったクラスメイトの顔を、葉月は頭の中に思い浮かべた。

 ——名前を聞く間もなかったな。

 葉月は体育館シューズを持ち、ようやくダラダラと廊下を歩き始めた。

 さっきの女子はもう見当たらなかった。

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