針と鉛筆の曲線

すずき

「初対面」編

五歳

 能勢葉月のせはづき大西可奈子おおにしかなこが初めて出会った場所は、二人とも入学式の日の中学校だと記憶している。


 しかしながら、それは実のところ、彼らの思い込みに過ぎない。二人は同じ中学校に入るはるか前、お互いが五歳の頃に一度顔を合わせているのだ。本人たちが、それを認識していないだけである。


 本人も覚えていないことをここに書き記す必要があるのか、と疑問に思われる方もいるだろう。しかしそうした意見に対しては、ある個人的な見解をもって反論させていただきたい。


 それはすなわち、ある人の人生において何が重要かをあらかじめ決めることは、どこの誰にもできない、ということである。


 もしも、これから始まる物語に最後まで目を通そうとしてくれるのであれば、是非ともこの考え方を忘れないでいただきたい。


 さて、前置きはこの辺にして、二人の初対面の話をしよう。

 先にその場にいたのは能勢葉月の方だった。二人の共通の故郷である地方都市の、中心地にある公園。季節は春も真っ只中、県内有数の桜の名所として知れているだけあり、この時は満開の桜がそこかしこに咲き乱れていた。


 彼は、両親と家族三人で花見をするため、芝生の広場にいた。赤と白のチェック柄のレジャーシートを端で押さえつつ、葉月は一番手前の桜の木をぼんやりと眺めていた。


 何も考えてはいなかった。風が強くシートがめくれては困る、と母が言っていたので、ただシートの端に座って、落ちてくる花びらを目で追っていた。


 ちなみに葉月の記憶の中で、最も古い「桜の景色」はこの日のものである。特に印象に残っているのは、花がふんわりとついた木そのものではなく、風に舞う無数の花びらの映像だ。


 当時の彼にはそれが、空から降ってくるように見えた。雪も見たことがなかったが「雪みたいだ」とはしゃいでいたことだけは、その後何年にも渡って思い出すことになる。


「もうお腹いっぱいなの?」

 母の声が後ろでした。葉月は「うーん」と曖昧な返事をした。実際は母の少し作り過ぎたお弁当を完食し、満腹になっていた。


 心地よい眠気が迫っていた。風が強くさえなければ、昼寝には完璧な環境が整っていた。

「ごみ、捨ててきちゃうね」

 母はそう言うと、おにぎりを包んでいたサランラップやジュースの紙パックを持って、公園のゴミ箱の方へと歩いて行った。


 父は返事をしつつも、昼間から飲み慣れもしないのに二缶も空けたビールが効いてきて、うとうとし始めていた。起きてはいても、半分は寝ているようなもので、母が行った方向にとろんとした目を固定したまま、じっと動かなくなった。


 葉月の視線はそれとは逆方向、相変わらず右斜め前の巨大な桜の木に釘付けだった。なぜそうしているのかと聞かれても、彼は答えられなかっただろう。それは説明のつかない見えざる力、などという大袈裟なものですらなかった。


 大西可奈子が現れたのは、まさにその桜の木の、向こう側からだった。


 彼女はシロツメクサを集めて、冠を作ろうとしている最中だった。ただし足元を見てしゃがみながら歩いており、葉月は完全に視界の外だった。


 お互い、実は一メートル足らずの距離にいることは当然ながら意識していなかった。

 可奈子は一歩ずつ、冠に使えそうな素材を探すうちに、葉月の方へ近づいていた。


 彼女の家族はというと、同じ芝生の広場でも能勢一家とは反対側であり、木々に阻まれて見えないほど遠くに場所をとっていた。


 今、彼女の両親は必死に可奈子の居所を探している。

 二人が新しく買った三脚の扱いに気を取られていた一瞬で、可奈子は地面の草花に目を奪われていた。この短い時間に両親の視界から消えてしまうのも、彼女の足の速さなら難しいことではなかった。


 まだ可奈子は、自分が迷子であることにも気づかず、一心にシロツメクサを見つけては摘んでいる。


 ぼんやりと動きもしない桜の木に意識を向けていた葉月は、ようやく自分の方に向かってくる人影に気づく。自分と同い年くらいの、ピンクのシャツを着た女の子が、足元の草を摘み取りながらじりじりと移動していた。

「何、してるの?」

 それは何の他意もない、きわめて純粋な質問だった。葉月は植物で冠が作れることを知らなかった。


 可奈子はその声が自分に向けられていると気づき、初めて前を向いた。

 二人の目が合った。

 お互い、知らない子だと思った。葉月はあまりにも気軽に話しかけてしまったことを、少し後悔する。怖がらせてしまったかもしれない。


 結局可奈子は何も答えなかった。ふいと目線を外し、また黙々と冠作りに戻る。

 それを葉月も特段何とも思わず、以降彼女に話しかけるのはやめようと思った。


 ただ、これだけだった。二人は会話すらしていなかった。しかし二人がここで一度目を合わせたことは、紛れもない事実なのだ。


 間もなく可奈子の両親が彼女を見つけ、「カナちゃん!勝手にどっか行っちゃダメでしょ!」とすごい勢いで走ってきた。それに驚いた葉月は慌ててシートの内側に体の向きを変え、眠っている父にフォーカスを移した。


 お気付きの通り、ここでは後々まで記憶されるような大事件も、周りの誰かが語り継ぐようなことも起こっていない。彼らが「真の」初対面を思い出すことも、おそらくないだろう。しかしながら私は、次に中学校の出来事について語る前に、あえてこの場面に触れておきかった。


 いかに本人たちも認識していない偶然が彼らの人生に影響するのか、またはしないのか。私は皆さんに、できる限りその全てをご覧いただきたいのである。


 ではそろそろ私見を述べるのはやめにして、早速彼らの「記憶にある限りでの」初対面の話に移ろう。

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