二十歳 その3
大西可奈子は彼のことをずっと避けていた。そのことに、今気づいた。
できればこの人には会いたくなかった、と思った。どうしてかはよく分からない。何か言われるに決まってる、と分かっていたのだから、それなりの覚悟はできたはずだった。
しかしいざ対面すると、可奈子は耐えられなくなる。
彼の視線は可奈子から離れない。何か言おうとしていた。
言葉が出てくる前に、彼女から話しかけた。
「久しぶり」
彼は無反応だった。口を半開きにしたまま、可奈子の顔から視線を逸さなかった。
可奈子は耐えられずうつむく。何をそんなに見てるの、と思う一方、それも不思議はないだろうと納得もした。
葉月と顔を合わせるのは何ヶ月ぶりだろう。一年は間違いなく経っているはずだ。
「久し、ぶり」
彼はようやく口を開いた。外国語を喋っているみたいな、妙な発音だった。
「可奈子——髪染めた?」
彼は力なく笑った。いつも通りのつもりなのかもしれない。彼は相変わらず、動揺を隠すのが下手くそだ。
「染めてみたんだ。どう?」
「うん、良いと思う。最初別人かと思ったわ」
「あら、そりゃあどうも」
どうも上手く、会話のペースが掴めない。ブランクから考えたら当たり前なのかもしれない。
「能勢ちゃん——最近どう?」
明るい声を出してみた。彼は困ったように笑う。
「元気にやってるよ。特に病気もないし」
それから先が続かない。葉月らしくもない。
少しくらいぶっ飛んだ話題を振ってみるのはどうだろう。弾みで元の感覚が戻ってくるかもしれない。
「能勢ちゃんもちょっと雰囲気変わったじゃん。彼女でもできた?」
彼はよほどびっくりしたのか、目をまん丸にしてビンタでもされたような顔をした。
しかし覚悟を決めるように目を伏せ、ストンとうなずく。
「あ、そうなの?ついに?」
「できたよ、ついに」
「おめでとう!同じ大学の子?」
「いや、バイト先の」
「バイト先で?いやあ能勢ちゃんも知らぬ間にできる男じゃん!」
「そんなんじゃねえよ」
「え、写真あるの?」
「あってもお前には見せない」
「なんでよ!良いじゃんそれくらいさ——」
「それより、お前はどうなんだよ」
葉月はやっと、可奈子と目を合わせた。
彼の目は変わらない。見た目と雰囲気が多少変わっても、きっと中身は同じだ。
「可奈子もそれ、彼氏できただろ」
それ、と言うのはどれを指すんだろうか。髪?服のセンス?
「私?」
一瞬どう答えたものか迷うが、相手は葉月だ。別に隠さなきゃならないことなどない。
「私は、彼氏、いたよ」
その過去形の意味には、さすがの葉月も敏感に気付いた。彼はぐっと自分のビールをあおり、音を立てて飲み込む。
「一年生の時、半年ぐらい」
「同級生?」
「ううん、一個上の先輩」
「なるほど」
それきり、彼はまた口をつぐんだ。何の沈黙なのか、可奈子には分からない。
彼がどんな人だったか想像しているのか。どんな言葉をかけるべきか探しているのか。
「でもねえ、それも過去の話ですよ。ねえ、能勢ちゃんは付き合ってどれくらい経つの?」
「ん?まあーそろそろ半年くらいになるかな——」
何だか歯切れが悪い。もしかすると、あまり話したくない話題なのかもしれない。
と、その時後ろの方から高い声が聞こえた。
「可奈子ー!来て来て、写真撮るよ!」
これはミカの声だ。ついさっきまで一緒に話していた。
「あ、うん!」
振り返って返事すると、ミカは少し視線をずらす。
そして「あっ」と何かに気づく。
「あー可奈子、やっぱりこっちはもうちょい後で良いから——」
「良いの良いの、行くから待ってて!」
可奈子は迷わずそう言った。葉月を見ると、「あー沢木美香」とかすかに微笑む。
「あいつもなんか懐かしいな」
「あの子全然変わんないよ」と言いながら、可奈子は半分体をミカの方に向ける。
「みんな元気そうで何よりだ」
「それじゃ——また後でね」
こんなにも簡単に言えるとは思わなかった。可奈子は学校で別れる時と同じように、教室の入り口でやっていたのと同じように、葉月に手を振った。
自分で言いながら、「後」なんて本当にあるのだろうか、と考えてしまう。もしかしてこれ以降、彼とまともに話す機会なんて来ないんじゃないか。
——下手したら、これからずっと。
一瞬だけそんな考えが頭をかすめたが、首を振って追い払う。
こういうことは、考え出したらキリがない。「またね」っていうのは、おまじないみたいなものだ。これを言うことで、きっとまた会えるようになる。
それに相手は葉月だ。これで今生の別れだとはどうしても思えない。
「うん、また後で」
彼も何のことはないように手を振った。本当に放課後がこの場に蘇ったようだった。
「——可奈子」
一歩目を踏んだ時、葉月は彼女の名前を呼んだ。
思わず出てしまったかのような、真剣な響きのある声だった。
「何?」
「お前変な男に捕まるなよ?」
冗談めかしたトーンだったけど、彼の言い方は、あたかも今日可奈子と話すことはもうないだろう、と予感しているようだった。
可奈子と同じように、彼も考えているのかもしれない。
「私のことなめてもらっちゃ困るな」
「一応だよ」
「ありがとうね」
「あと!」
また動こうとした可奈子の背中に、さっきより少し大きめの声がぶつかる。
振り返ると、葉月はまっすぐな目で可奈子を見ていた。
すっきりした表情だった。いつかのバンドで、一曲弾き終わった後の彼を思い出した。
「言い忘れてたけど——マフラーありがとう」
心の奥底で、いつだか抱いていた、色々な感情の気配がした。でもそれを抑え込むのには苦労しなかった。
時間が経つというのは、こういうことなのかもしれない。記憶はそのうち風化して、ちゃんと過去のものになる。それとも自分がそれなりに大人になって、感情のコントロールが多少はできるようになったということなのか。
「うん。良かった」
可奈子は短くうなずいて、改めて手を振った。自然と笑顔になった。
今度こそ本当に、その場から離れた。振り返ることはせずに、ミカの元まで一直線で向かった。
きっと彼の視線はもう、可奈子の方を向いていないだろう。何となくそれは分かった。
これで良い。
この距離感が、私にとっては一番落ち着く。
腐れ縁というやつだ。こうして時々何かをきっかけに会っては当たり障りのない話をして、また数年後くらいにばったり会うのを待っている。
それがベストだ。いろいろ迷ってきたけど、それが葉月との、一番収まりのいい関係なのだ。
「ほんとなのか〜っ?」
突然飛んできた素っ頓狂な大声に、どきりとする。これはミカの声ではない。
「嘘はよくないなあ。ねえ!」
「ほんとだって、これも——こういうお酒なんだから」
しばらく呆然としてしまう。
声の主は、ミカの隣にいた。しかしそれがあの秋元晴海だと気づくのには時間がかかった。
だってついさっきまで、みんなの前でハキハキ喋っていたはずだ。
今の彼女はまるで別人だった。顔を真っ赤にして、髪型は乱れて、二本足で立つことさえ厳しいらしく、ミカの肩に寄りかかっている。
「晴海ちゃん、お酒何杯目?」
「え?六杯かな」
「どうしてそんなに」
「と、とりあえず水飲んでよ、ほら」
「ほら!やっぱり水なんじゃん〜」
周りの女子たちが介抱している。可奈子はあまりの衝撃に、一言も発することができずにいる。
「あー可奈子、やっと来た!写真撮るよ、写真!」
ミカが最初に可奈子を見つけた。周りの子たちもなぜか、可奈子を見てホッとした表情になる。
「お待たせ!えっと——秋元さんは大丈夫?」
「こんな酔ったとこ見たことないよ、可奈子も水飲ませるの手伝ってよ」
ミカが小声で言いながら、顎で秋元晴海の方を指す。何だかこっちは大変そうだ。
「だいじょうぶ、大丈夫よ!心配はね、ないから」
彼女は全然呂律の回らない口調でそんなことを言っていたが、もちろん説得力の欠片もない。
——まさかあの生徒会長が、こんなことになるとはね。
可奈子はミカが渡してきた水のコップを背中に隠し持ち、秋元さんの座る椅子の前でかがんだ。
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