十七歳 その2
その時、大西可奈子は会場にいなかった。
彼女は校舎内の三階、二年一組の教室にいた。「岳南祭」二日目のクラスの出し物として決まっていた、ドーナツ屋の店番をしていた。
大体一、二年生の中でも三分の一くらいのクラスが、文化祭の二日目に模擬店を出すのだった。
「ありがとうございましたー!」
チョコレートドーナツを一つ渡すと、やっと客の列が途切れる。昼時のこの時間帯は、予想以上に人で混み合っていた。
教室内は高湿度の空気で充満し、可奈子は汗だくになっていた。
「助かったよ、大西さん」
もう一人シフトに入っていた男子が、汗を拭いながらドーナツの商品棚を整理する。
「いやいや、ちょうど私も暇だったからね」
「俺一人でこの時間やってたら、今頃ぶっ倒れてた」
「お役に立てて何より」
実はこの時間帯には他の人が入っていたのだが、その人に急用ができたため、急遽シフトを交換することになったのだった。
それは全部、二十分前くらいの話である。
「文化祭、舐めてたな」
「去年は出店やらなかったの?」
「もっと暇な時間に入れてサボれるだけサボってたよね」
「え、枡田くんってそんな感じの人なの」
クラスメイトの
「いや基本は真面目だよ、でも時にはそういうのも必要だろ」
彼は二年生になって初めて同じ組になったが、今の今まで話したこともない人だった。
話してみると全然悪い人ではなさそうで、ちょっと安心する。高身長な雰囲気があるけど、実際並んでみるとそうでもなかった。むしろ低め——?
「まさかこうも休みなしに働きっぱなしとはな。もうお給料欲しいよな」
「確かにね」
「ていうかこの時間帯だけさ、シフトは三十分ずつにしたって良いんじゃないかな」
「でも、そうすると他に入ってくれる人がいるかな?クラスの人数ぴったりに組んでるはずだし」
うーん、と彼は周りを見渡し、すっと一点を指差す。
「ああいうのとか」
彼の指の先には、教室の隅に並んで置かれたパイプ椅子があった。一番出入り口に近い一つに、女の子が座ってスマホをいじっていた。
「あの子——知り合い?」
「そんなところだよ。他の組にも、ああやって暇人みたいのがいるはずなんだよね」
「暇人とは限らないんじゃない?」
「あいつもう、二十分はあそこにいる」
「ずっと見てたの?」
「知り合いがいたら、見ちゃうじゃんね」
などと話していると、また教室内に入ってくる人がいる。多分お客さんだ。
「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませー」
「あっ」
と彼が声を上げるので、可奈子はもう一度今来た人に視線を戻す。
「あ、赤嶺先生」
黒いスーツに朱色のネクタイ、右手にはどこかの売店で買ってきたコーヒーの紙コップ。全て二年一組の担任、本校一の温厚で有名な赤嶺先生のトレードマークだった。
「どう、順調にやってる?」
「いやもう順調すぎて困っちゃいますよ」
枡田聖也が陽気に答えた。
「良いじゃん良いじゃん。もしかして夕方には売り切れるかな?」
のそのそと、先生は売り場に近づいてきた。
先生の実年齢は知らないが、その話し方は多分他の同年代より軽快だ。見た目はそれなりに落ち着いているだけに、そのズレから生まれるアンバランスが何だか不思議である。
「これは可能性ありますね。ていうか多分そうなりますね」
と言いつつ、彼はトングで棚の中のドーナツを指す。
「どうですか、今のうちに」
棚はガラスになっていて、先生からも品物が見える。彼が指したのは苺のチョコがかかったオーソドックスなドーナツだ。
「うーんどうしようかな、今お腹がいっぱいで」と腹をさする姿は、どこか説得力がある。
「でもせっかくコーヒー持ってるじゃないですか」
「今のうち食べないと、なくなっちゃいますよ。特にこれ人気商品です」
枡田聖也と可奈子の後押しは、それなりに効果を発揮した。赤嶺先生は商品棚と手元のコーヒーを見比べ、諦めたように溜め息をつく。
「分かったよ、買いましょう」
「ありがとうございます!」
「おいくら?」
枡田聖也が代金を受け取り、可奈子は持ち歩き用の袋にドーナツを入れる。
それを渡す時、先生は教室内の時計をちらりと見た。
「あ、始まっちゃってるな」
完全に独り言のボリュームだったが、可奈子には聞き取れた。聞き取れたからには内容が気になる。
「先生、この後何か予定があるんですか?」
へ、と思わぬ質問をされたように目を丸くした後、赤嶺先生は普段の顔に戻って答えた。
「ああ、そろそろバンドが始まった頃だと思って。余裕があったら行こうとしてたけど、もう間に合わないかな」
「バンド……?」
その時、可奈子の脳内の導火線に火がついた。
やっとのことである。可奈子の性格上、普段忘れ物がひどいということはなくとも、一度何かを忘れるとなかなか思い出すのに時間がかかるのだった。
しかもその決定的なきっかけがない限り、永遠に思い出さないままであることもしばしばである。
幸運にも今回は、赤嶺先生がその「火付け石」としての役割を担った、というわけだ。
「バンドっていうのは——」
「ほら、あの能勢くんとか石神くんとかの——」
「TSエリオット!」
導火線は燃え尽き、封じ込められていた記憶の倉庫が爆発する。
ああ、そうだ。私こんなことしてる場合じゃない。
「え——?」
枡田くんが困惑している。
「『T.S.Eliot』。バンド名なんだよ、能勢ちゃんのバンドの。ああなんで忘れてたんだろう」
相手に伝えようという意思は微塵も感じられない早口だった。
「ああ、そんな名前でしたね」
赤嶺先生はいつでも冷静だ。
「もしかして、大西さんも見る予定だったんですか?」
「予定どころか——約束したんです、能勢ちゃんと」
昨日も、スマホにメッセージが来た。『明日のライブ絶対来てくれよ』『約束だぞ』と、極めて身勝手に約束させられたのだ。でもそんなことを言われなくても、元々行くつもりだった。
彼らがバンドをやることは、ずっと前から知っていた。なぜなら、可奈子自身が一番最初に誘われていたからだ。
能勢ちゃんに「バンドのボーカル、どう?」と言われ、あまりにも予想外で急な提案だったから、思わず「いや私はいいよ」と反射的に答えたのだ。実際、大勢の人前で歌うのは得意でない自覚があった。
しかし能勢葉月がやるバンドがどんな風になるのか、そこには並々ならぬ興味があった。
「時間被ってるの、全然気づかなかった!」
「あーそれじゃあ仕方ないね」
カラッとした口調で、枡田聖也は言った。
「まあ……直前とはいえ、シフト代わっても良いよって言ったの私だもんね」
と言うと、彼はきょとんとした表情で動きを止めた。
「え、そのライブ行かないの?」
「そりゃあ行きたいけど——仕事は仕事だからね。今私抜けちゃったら店番困るでしょ?」
「いや、困らない。早く見に行きなよ、そのノセちゃん?のライブ」
あまりの即答に、一瞬可奈子の思考は停止した。
説明を求めて枡田聖也の顔を凝視する。彼はすっと目をそらし、その目は教室の隅に向けられる。
「おい、ユキナー!」
「はん!」
よほどびっくりしたのか、教室中に響く変な声を上げながら、さっきまでパイプ椅子に座っていた彼女は立ち上がった。物差しで背中でも叩かれたような素早さだった。
「ちょっとこっち来て。暇でしょ」
「ひ、暇とは失礼な!私はきみのシフトが終わるのを——」
「はいはい!ちょっと仕事手伝ってくれない?」
「へ?なんで——」
「とりあえずやってみよう。やってみたら楽しいと思うよ」
「いや、やれと言われたらやるけど——」
彼はユキナと呼ばれた彼女に向けるのとは随分違う眼差しで、可奈子に向き直った。
「と、いうことです。行ってきなよ、ね」
呆然としているうちに、彼女は意外にも迷いない足取りでカウンターの前、可奈子の正面まで来た。
「代わるよ」
にこっと、初対面とは思えない柔らかな笑顔が、可奈子の不安を拭い去った。
「ほ、本当に良いの?」
「ん?良いよ」
良くないわけないじゃん、とまで聞こえてくる言い方だった。
「ありがとう、ほんとに——」
「お礼は良いから、ライブ急ぎな」
「って聖也が言うかな」
と華麗に突っ込んだ後、ユキナは可奈子に力強くうなずく。
「まあよく分かんないけど、行ってらっしゃい」
「えっと——ユキナちゃん?ほんとありがとう」
両手を合わせてお礼を言いながら、可奈子はつけていたエプロンを外した。
ユキナは素早くそれを受け取り、それから可奈子に小さく手を振る。隣の枡田くんも一緒に振ってくれた。
じゃあね、とほとんど後ろ向きになりながら可奈子も手を振り、教室から猛スピードで駆け出した。
赤嶺先生を置き去りにした若干の罪悪感は、廊下を走っているうちに綺麗さっぱり忘れていた。
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