十七歳 その1

「何だ、今更緊張してんのかあ?」

 こんな時にまで、こいつの喋り方は間延びしていやがる。葉月は舌打ちしながら、キーボードの主電源を入れた。


「オレがするわけないだろうが」

「じゃ電源つけるの忘れんなよって」

 実はしている。この上なく緊張している。

 だが牧野慎二にそれを見抜かれるのは何よりも癪だった。鍵盤を叩き、アンプの音量を微調整する。

「これで万事解決だね」


 ベース兼ボーカル・石神翔太いしがみしょうたはよしと頷き、マイクを持ち直す。

 その後ろ姿は凛として頼もしい。

「おう、悪い悪い」

「リラックスしてこう」

 咳払いすら良い声だ。


 この男は、慎二が連れてきたボーカリストだった。一言で表すならスターだ。

 めちゃくちゃに歌がうまい。カラオケに何度か行ったが、翔太の声はどんな曲にもマッチしていた。ロック、バラード、ヒップホップまで何でも来いだった。


 部活は水泳部で、それらしく肩幅が広い。背もすらっと高く、もうルックスは圧倒的に恵まれている。

 クラスは違ったが、彼の女子からの人気ぶりは十分知れていた。まるでアイドルだった。


「翔ちゃんがいれば、このバンド勝ったも同然よ〜」と、慎二はそう断言した。バンドに勝ち負けがあるもんか、とその時は思ったが、確かに彼を採用しない手はない、と葉月も考えた。


 高校二年のうちに、文化祭でバンドをやろう、と言い出したのは葉月だった。だからメンバー選出の最終決定権も、葉月が握っていた。


 まず慎二を最初に誘わねばならなかったのは残念だった。しかし周りでエレキギターのできるやつが、他にいなかったのだ。

 彼は誘いを即受け入れ、「面白そうじゃ〜ん。やろうぜ」とガッツポーズを見せた。彼はドラムをやりたがったが、そこは無理やりギターで押し通した。


 バンド名もまだ決めていなかった。でも絶対成功させようという熱意は誰にも負けないつもりだった。

「じゃあ……あとはボーカルとベースとドラムになるかなあ、どーする?」

「誰か——知り合いとか、いない?歌うまいやつとか、ベースいける人とかさ」

「あ〜、二つ同時にできそうなのはいるかなあ」


 そして慎二は、翔太を紹介してきたのだった。紹介などしなくても彼は有名人だったが、何でも彼らは中学のクラスメイトだったのだという。

 この二人が同じ中学だとは、世の中不可解なことだらけだ。


「で?ドラムは?お前がやんの?」

 葉月は首を振った。

「オレはキーボードをやる。ドラムならもっとうまいやつが身近にいるだろ」

「おおーなるほど?」

 ということで、ドラムとして誘ったのは高岸沙耶香だった。


「沙耶香さん、時間あとどれくらいある?」

 翔太が尋ねると、すでに準備万端の沙耶香がいつものポーカーフェイスで答えた。

「あと三分くらいだね」


 沙耶香のドラム歴が、同学年のパーカスの中で最長だということは分かっていた。しかし吹奏楽のドラムとロックバンドのそれは似て非なるもの。使う楽器が同じだとしても、やることは全くの別物だ。

 だから彼女がバンドにここまで馴染むとは、正直思っていなかった。


 今沙耶香は白いTシャツに紺のジャケットを羽織り、ブルーのジーンズをはいていた。

 そんな服持ってたの?

 今日初めて、彼女の本当のファッションセンスを目の当たりにした気がする。


 ずっと前から技術的にも、沙耶香は驚くべき対応力を見せていた。セットリストが決まり楽譜が配られてから、一週間もしないうちに全て暗譜してきたのだ。


「それって三十二小節目?」とか聞かれて、まだ楽譜も読み切れていない他のメンバーがあたふたしながら楽譜をめくる、というのが練習開始の時期の定番だった。


 しかし最も意外だったのは、このバンドの名前さえも、沙耶香が決めるきっかけになったことだ。

 それは文化祭本番を二週間後に控えた、作戦会議でのこと。


 放課後の教室を使って、体育館でできる具体的な演出と正式なバンド名を決めるのが目的だった。

 葉月にネーミングセンスがないことは自他ともに認めていたが、かと言って誰かが積極的にアイデアを出してくれるわけでもなかった。

 そこでポツリと、沙耶香が言った。


「何か能勢ちゃんが好きな言葉とか、ないの?バンド名とかって、程よくいい加減なほうがかっこいいと思うよ」

「好きな言葉?」

 そんなものは用意していなかった。予想外の問いに困り、視線を色々なところに巡らせる。

 最終的に目が向いたのは、沙耶香の机の上だった。


「それは?」

 彼女の机には、古びた文庫本が置いてあった。何周も読んだようなくたびれ方だった。

「こ、これ?」

 沙耶香は戸惑いを隠せないようだったし、慎二と翔太もそうだった。


「これは、私の好きな詩人で」

 彼女はどこか、恥ずかしそうにうつむく。

「それで行こうぜ」

「へっ?」

 葉月はチョークのかけらで、黒板に大きく書いてみる。


「うん、ほらなかなか悪くないだろ」

 最初はその行き当たりばったりに驚かれたようだが、次第にメンバーたちは「まあなくはないか」と賛成し始めた。


 それが結局は、本当にバンド名になってしまった。

「——よし、大体いいかー?」

 翔太が少し大きめの声で呼びかける。

 もう、観客のざわめきが高まり始めていたからだ。


「良いぞ!」

「おっけい〜」

「良いよ」

 口の端だけで、翔太はにっと笑った。観客の方に背を向け、ステージ中央に立つ。


 みんなに目配せする、必要すらなかった。ごく自然に葉月たちは立ち上がり、翔太の近くに集まる。

 翔太が手を出すと、みんながその上に手を重ねた。

 葉月は最後に手を置いた。

 ここは翔太が、気合を入れてくれると思っていた。葉月は完全に油断していた。


 しかし当の本人が、明らかに待ちの姿勢で葉月の方を見ていた。

「えっオレ?」

「ここは能勢ちゃんに頼むよ。そもそもこのバンドは、君が始めたんだ」

 翔太にそう言われては、仕方がない。

「じゃあ、こういうの苦手だけど」

 小声で言いつつ、葉月は呼吸を整える。会場の期待に膨らむ熱気を肌で感じる。


「まあ——」

 みんなの顔を見ると、かえって言葉が浮かんでこない。それが分かっていたから、葉月は自分の手元に集中したのだ。


「いつも通り、やろう」

「……えー終わり?」

「シンプルイズベストだろ」

 顔は見えなかったが、慎二も翔太も沙耶香も今、にっこりと笑った気配を感じた。


「なんか物足りないねえ〜」

「だから苦手なんだ、許してくれよ」

「そこが能勢ちゃんクオリティだもんね」

「沙耶香さんはこの期に及んでもクールだね」

「ああーとにかくとにかく!」


 葉月は叫ぶ。まだ何も始まっていないのに、汗が玉になって頬を流れた。

 もう間もなく開始だ。体中の全細胞がブルブル震え、今にも暴れ回ろうとしている。


 これが「本番前」ってやつなのか。人間にできるどんな運動をしても発散し切れないようなエネルギーが、内側から無限に湧き出てくる感じがした。

「今日は今日できることを出し切るまで!やるぞっ!」

「おう!」

 なんと全員の声が揃った。こんなにぴったり揃うとは意外だ。


『それでは皆さんお待たせしました。スタンバイはオッケーですか?』


 さっきから何かしゃべっていたMCがこちらを向く。葉月は椅子に戻り、沙耶香はスティックを握り、慎二はピックを手にし、そして翔太がマイクスタンドに手をかける。


 四人は同時に、頭の上で丸を作った。


 途端に強いライトが視界を照らす。葉月は眩しさに手をかざし、明るくなった客席に目を凝らした。

 いつもの体育館とは思えない光景だ。人という人が、スペースというスペースを埋め尽くしている。


 全員の好奇心に満ちた目が、葉月たちに向いた。その顔の一つ一つを、下手に目が合わないように見ていくのは難しいことだった。


 でも演奏中に見るのはもっと難しい。

「お前これ、どこにいんだよ」

 葉月は呟く。まさか、こうも多くの人がごった返しているとは思わなかった。


 ——可奈子ならどこら辺を選ぶだろう?

 これはどうやら、勘と想像力の勝負になりそうだ。沙耶香のカウントを聞きつつ、葉月はそんなことを考えていた。

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