十七歳 その3

『さて!何やかんや言うとりますけども』

『お前何も言ってないだろ』


 体育館に見事、笑いの波が起こる。割と早い段階から思っていたが、慎二のボケと翔太のツッコミは漫才でも一世を風靡できそうなレベルに達していた。


 残念ながら葉月は、即興で漫才をする才能までは持ち合わせていなかった。こういうMCの時は、キーボードの調整をしつつ二人の会話を聞く役に徹する。


 しかし実際、キーボードに調整すべきズレが一曲ずつ現れることもなく、葉月の目はやはり客席に向かっているのだった。


 もう二曲やった。あとは三曲目をやって、アンコールで終わりだ。


 しかし未だに見つからない。この広い体育館のどこかにいるはずの大西可奈子は、実は誰かの後ろに隠れているんじゃないかと思うくらい、全く見つからないのだ。

 正直、葉月は焦り始めていた。まさかこんなに探して分からないのは予想外だった。


『——ってなわけで、そろそろ最後の曲に行こうかな』

 ええー、と残念がる声はまさに、体育館全体の総意のようだった。

『ありがとうございますありがとうございます。そういうの嬉しいんで、もう一回やります』

 と言い、本当に翔太はもう一度同じ下りを繰り返した。


『もう次で最後の曲になるんですけどー!』

 えええーー!と叫ぶような会場の反応は、ざっとさっきの三倍ほど大きい。ここまで観客の心を掴めるとは、つくづくスター気質の男だ。


『はい、最後はみんなも歌えるやついきます』

 ギュッ、と慎二のギターが音を立てる。ミュートしながらピックと弦が擦れた音だ。

 翔太がマイクをセットする、そのノイズさえも、会場を一気に鎮まらせるには十分な役割を担った。


 それから三曲目のタイトルを、翔太は呟く。一瞬の間の後、体育館はまたしても熱狂的な盛り上がりを見せた。

 次はラストらしく、短くてアップテンポな曲だ。暗譜はしているが、なかなか複雑なコードなので鍵盤から目を離せない。


 だから始まる直前まで、一列ずつ観客の顔を見ていた。知り合いはいくらでもいたが、それでも可奈子は見当たらなかった。

 仕方ない、あいつ後で会ってしばいてやる。


 沙耶香のドラムが始まる。この曲はまず、観客の手拍子を煽るところから始まるのだ。

 それから葉月は少しずつ、ドラムにメロディを乗せていく。

「あいつ」がどんな顔をして聞いているのか。そんなことは今更見なくても、葉月には分かっていた。




 まさかこんな顔して走っているとは、能勢ちゃんは思いもしないだろう。


 可奈子は妙に冷静にそう思った。人でごった返す廊下を走り抜け、階段をいくつも下り、駐輪場に出たところでもうへとへとになっていた。


 教室を出る前から熱中症になりそうだったのだ。これでもよく頑張った方だと思う。

 ようやく体育館の建物が見えてきた。駐輪場の階段を大股で下り、その先の体育館の入り口に目を向ける。


 そこでいきなり、「げっ」と足が止まった。


 普段閉まっているはずの入り口の引き戸は、今開けっぱなしになっていた。

 なぜなら、その辺りまで人が溢れ返っていたからだ。


 しかしもうわずかに漏れた音が、可奈子の立っている所からも聞こえてきていた。

『もう次で最後の曲になるんですけどー!』

 はっきり聞き取れた。まずい、予定よりちょっと前倒しになっているのかもしれない、と焦りが募る。


「ええーーーっ!」

 体育館自身が放ったような、会場の叫び声。

 よほど盛り上がっているらしい。早く自分も加わりたいと思う。


 可奈子は、覚悟を決めることにした。再び足を踏み出し、階段を駆け下り始めた。

「遅れてごめん」と呟く。体育館へぐんぐん近づく。




「許さんぞ」と呟く。もっと目立つ帽子とかかぶって来いよ、みんな同じ制服着てんだから。

 今は鍵盤と楽譜を往復することしかできない。この曲のキーボードは難しい上に、ミスると目立つのだ。


 ただし三曲目にもなると十分手が温まっている。本番テンションも手伝って、何とか手の動きは追いつきそうだ。

 この感じなら、次の曲も大丈夫だろう。

 三曲目が終わった後、葉月たちはアンコールに応えて本当の最後の一曲を披露する。


 アンコールは『See you again!』という、十年くらい前の曲だった。きっとバンドをやったことがある人なら誰でも知っているような名曲だ。

 そして曲中には、ピアノソロがある。歌が終わった後の後奏で、ピアノだけが主旋律を弾くという、結構目立つソロパートだ。


 実は、葉月はこのソロに全てを賭ける、くらいの覚悟で練習してきた。ひょっとすると、練習時間の半分はここに費やしたかもしれない。


 三曲目の最後のサビが近づいてきた。爽やかに締めて、一礼して、すぐに退場する。その動きまで頭の中でシミュレーションしていた。

 翔太の歌は練習の時以上に盛り上がっている。沙耶香のドラムプレイも派手だった。

 曲の終わりはもうすぐだ。




 体育館の中まではもうすぐだ。

 しかし人が多すぎる。入り口付近で溢れている人混みをかき分けねばならない。

「すいませーん」

 何度も入り口から行こうとしたが、どうしても押し返されてしまう。音が聞こえても彼らの姿は見えないのだ。


 他に方法はないか?

 見回すと、一つだけ他に体育館に入れるルートがあることに気づいた。


 岳南高校の体育館は、二つある。今ライブをしている第一体育館の隣に、少し小さめの第二体育館が建っているのだ。

 二つの体育館は階段と通路で繋がっていて、今第二体育館では何のイベントも開催されていない。


 そちらの入り口なら行けるのではないか。可奈子は進路を変え、第一体育館の横を通り、第二体育館の入り口に向かった。

 左からは、楽器の演奏と歌と歓声が聞こえる。




 正面から歓声が押し寄せる。三曲目最後のコードを、全員とアイコンタクトしつつ鳴らしたところだ。

 完璧なエンディングだった。結果はノーミスだったし、何より観客の盛り上がりがここまでの成功を裏付けていた。


『ありがとう!』

 翔太は叫ぶ。葉月と沙耶香は椅子から立ち上がった。

 それから四人は前に出て、揃って深く頭を下げた。しばらく下げっぱなしでいる。

 拍手と歓声は、なかなか鳴り止まない。




 拍手と歓声は、なかなか鳴り止まない。

 可奈子は外靴を手に持って、靴下のまま体育館の入り口に立っていた。右に行けば第二体育館、左に行けば第一体育館への連絡通路。

 窓がなく光が遮断されて、暗いところに非常灯の緑だけがぼんやり光っている。


 しかし左の扉の奥からは、破れんばかりの拍手がまだ続いていた。

 まさかもう終わってしまったのか?だとしても葉月たちの姿はまだ見られるはずだ。

 くぐもった声が、ドアの向こうで反響した。

『ありがとう!』

 この声は、石神翔太のものらしい。


 まだみんなはステージ上にいる。きっとアンコールがまだあるのだ。

 可奈子は迷わず、ドアノブに手を伸ばした。




 鼓膜が麻痺しそうなくらい、体育館中が反響する拍手だった。

 これくらいの長さなら、もうアンコールとみなせる。葉月は念のため、頭を下げたまま横のメンバーをちらりと見る。

 みんなお互いを見ていた。

「よし、そろそろ行こう」と、三人それぞれの視線が言っていた。

 葉月たちはゆっくり顔を上げる。視線は、それに合わせて客席に向かう。




 ドアの先は、第一体育館のステージ側。

 第一体育館から第二体育館通路へのドアは、ステージ脇にあった。だから可奈子が現れたのはステージの真横、つまり葉月たちのすぐ近くだった。


 最前列の観客がこちら側を見ている。それに気づいた可奈子は、すぐ右側に顔を向けた。

 キーボードは置いてあるのに、そこに彼は座っていなかった。

 その姿を認めるより先に、声が出ていた。

「能勢ちゃあぁぁん!」




 ——ああ、そんなとこにいたのか。

 ——ああ、そんなとこにいたんだ。




 顔を上げた途端、彼女の声が聞こえた。いや聞こえたというより、身体中に響くくらいの大音量だった。


 だがもしかすると、そういう風に聞こえたのは葉月だけだったのかもしれない。本当に葉月に聞こえた通りの音量なら、今頃観客は驚きで静まり返っているはずだ。


『それじゃあ』

 彼女の声にも気づかなかったらしい翔太が、マイクのスイッチを再び入れていた。

『アンコール、行きますかっ?』

 わぁぁー、とさらに会場が湧く。


 葉月はすぐ左側にいた可奈子の姿を、ステージの上から見ていた。遠くばかり探して、こんな場所にいるとは思いもしなかった。


 彼女はなぜか息を切らしたように方を上下させ、髪がごちゃっと乱れているのも気にせず、葉月をじっと見ていた。その表情には「安心」が見て取れた。

 葉月も安心していた。やっぱりあいつの姿も確認できずに、次の曲に行くのは厳しかったのだ。


「よし、聞いてろよ」

 口の動きだけで、そう伝えた。


『最後にお送りする曲は何ですか〜?』

 慎二もやはり、葉月の視線にさえ気づいていない。まるで葉月と可奈子以外は、ビニールシートにでも区切られた別の空間にいるかのようだった。

『See you again!』


 翔太の号令に従い、四人は走ってそれぞれの持ち場に戻った。戻ってからものの数秒で、慎二と沙耶香は同時に最初の音を出す。

 葉月が座ると、可奈子がいるのはその背中側になった。


 まあそれくらいがちょうど良い。緊張し過ぎずにすむかもしれない。

 ——と思っていたのに、葉月は自分の楽譜が始まる前に、一瞬だけ振り返ってしまったのだ。


「頑張って」

 可奈子の目が、そう語っているように見えた。もちろん錯覚に過ぎなかったのかもしれないし、本当に彼女の思うことが超能力的に伝わって来たのかもしれない。


 そのどちらでも良い。これで心置きなくソロができる。

 葉月はすぐに前を向き、鍵盤に指を配置した。

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