十五歳 その2
今思い出してもドキドキしてくる。
修学旅行先は、京都・奈良だった。二泊した場所は京都にある、なかなか趣深い、というか古びた感じの旅館。
夕食が終わるまで、何かが起こる予兆などなかった。少なくとも可奈子には感じられなかった。
学年全員が収まる大広間、座布団が十五個くらい置けそうな長さの長テーブルがずらり。
足が痺れるのを我慢して正座した。ポン酢で湯豆腐を食べたり、京野菜の天ぷらが出たり、隣の男子にエビ天を取られたりもした。予定通りの修学旅行は、途中まで順調に進んでいたのだ。
いきなりことが動き出したのは、夕食の場が解散になった後。就寝の十時までは自由時間とされていた。
ごちそうさまでしたを終え、自分の班の部屋に戻った。鍵を持っていた班長のミカをはじめ、可奈子以外のみんながもう部屋にいて、テレビを見ていた。
「あれ、テレビ見てる」
「おお可奈子!ちょうどサザンクロス出てるよ、見よ!」
サザンクロスというのは、この時期人気沸騰中だった四人組バンドグループだ。ミカは音楽番組が始まる八時に合わせ、慌ててテレビをつけたらしかった。
正直可奈子はあまり詳しくなかったが、ミカがよく口にしていたバンド名だったので見ることにした。
「——なんか、深い歌詞だね」
疾走感のあるサビまで聞いて、まず出てきた感想はそれだった。テレビの真ん前であぐらをかいていたミカは、一瞬だけ振り向く。なぜか怪訝な表情だ。
口を開け、何か言おうとした。
しかし邪魔が入った。
「ねえ大西さんいる?」
みんながばっと振り向く。
この声はと思って見ると、やはり秋元晴海だった。
合唱の指揮者だけにとどまらず、この二年ちょっとで生徒会長にまで成り上がった彼女は、三年生にもなると一言ずつの語調が強い。ちょっと聞けば秋元さんだ、と分かる個性が完成していた。
「はい、ここにいるよ?」
「秋元さん、片付けの係だったよね?」
「そうだけど?」
確かに可奈子はご飯の後、食器類をまとめて床に落ちたゴミは捨て、落し物をチェックする係だった。
しかし秋元さんがわざわざ呼びに来るようなこと、何かしただろうか。
「ちゃんとチェックシート書いた?」
チェックシート?あの、一番後ろのテーブルに置いてあったやつだよね。
「丸つければ良いんだよね、四組の欄に」
「うん。でもついてなかった」
「えっ?」
可奈子には、鉛筆で丸をつけた覚えがあった。食器、ゴミ、落し物と全部の項目を確認したはずなのだ。
「えっと——やったはずだけど」
「でも書いてないからさ。あれだと仕事しなかったことになるから、今つけてきてくれない?」
「今?」
「先生に呼ばれてさ、私も大西さんならちゃんとやったと思うって言ったけどとにかく本人が丸つけなきゃいけないらしいんだよ」
早口の説明を懸命に聞き取る。そして「いやつけたんだけどなあ」と溜め息をつきそうになるのを我慢する。もしかすると、別のクラスの欄に間違えてつけてしまったのかもしれない。
「分かった」
「よろしくね」
とそれだけ言うと、秋元晴海はくるりと体の向きを変えてどこかに消えた。
何か生徒のミスがあれば、こうやって伝えに来なきゃいけない。生徒会長というのも大変な仕事だ。
廊下で一人になってから、やっと頬を膨らまして溜め息を発散した。ふーっと勢いよく息を吐けば、溜め息にならずにセーフ、になる気がしていた。
いや、何がどうセーフなのかは説明できないが。
大広間に戻ると、数人の先生たちだけがテーブルに残っていた。
「あのすみません、四組のチェック記入がまだって聞いたんですけど——」
ああ、と四組の担任の先生が反応した。それからチェックシートと鉛筆を出してくれた。
秋元さんの言った通り、四組は空欄だった。やっぱり別の、一個上の欄にでもチェックしてしまったのだろう。また丸をつけるだけで済むなら、もう先生がやってくれても良いのにな、とひそかに思った。
結局広間にいたのは、三十秒くらいだった。早く部屋に戻ってさっきの音楽番組を見ないと。
足早に廊下を渡っていた時、その声がした。
「あ、あの、大西さん?」
さっきの秋元さんとは百八十度違った、自信のなさそうな声。しかし可奈子はそれが誰のものか分からなかった。
ぱっと振り向くと、今年初めて同じクラスになった男子がいた。
背が高くてひょろっとした、将棋部で勉強のできそうな男子。
「あ、長谷部くんだ。どうしたの?」
彼はえらく緊張しているように見えた。その真剣な表情を見ていると、途端に可奈子まで呼吸ができなくなるような気がした。
「ちょっと、いい?」
良いのか悪いのかは正直言って、答えづらかった。だって要件が分からないのだ。
「一分だけ。話したいことが、あって」
彼は人差し指を立て、可奈子がいる前ではなくあさっての方向に目を向けている。
長谷部くんって実は変な人なのかな、と思った。だけど一分話をするくらいならまあ、ダメってこともないか。
「うん」
可奈子が頷くと、長谷部優はこわばった顔つきのまま手で廊下の先を指した。ついて来て、ということらしかった。
それから気づけば、可奈子は旅館の正面玄関横の、ちょっとした応接間のような空間にたどり着いていた。夜になると誰もいないし、昨日ここを通ってチェックインした時とは全く印象が違った。
二人くらい座れそうなソファが二つ、丸テーブルを挟んで向かい合っている。しかし彼は、どちらにも座らなかった。ただテーブルの脇に立っていた。
周りに誰もいないのは確かだった。建物の造り上、トイレやお風呂に向かうときはここを通らない。人の気配など一切なかった。
ぼんやり灯るランプがテーブル上にあったが、それより奥にある自動販売機の光がやけに白く強かった。
しんとした所で、長谷部優は咳き込むように咳払いをした。もしかすると逆だったかもしれない。
そして、可奈子の目をじっと見たのだ。切れ長だけど微動だにしない堂々とした目つきで、まっすぐ。
誰も何も言わないまま過ぎた時間は、数分にも及ぶ気がした。
そこで初めて、可奈子の中にざわざわと胸騒ぎめいたものが現れる。
あれ、この人はなぜ私をこんな所に...?
疑問が輪郭を持ちはっきりし始めた頃、ついに彼は口を開いた。
「ずっと前から気になっていました、付き合ってください——って」
一瞬ビニールシートがガサ、と音を立てる以外に何も聞こえない、みんながきょとんとするだけの時間があった。
「それは——長谷部くんが言ったの?」
「うん。旅館で、夕食の後ね」
「いきなり?二人きりになって?」
「そりゃそうだけど——」
ミカの目がビー玉のように大きく見開かれた。そしてまず出た声は——。
「おいおいおいー!」
「ちょっとちょっとー」
「長谷部くん案外アツい男なのかあ?」
ああ、これだけのことでも充分盛り上がってしまった。
「やめてよそんな騒ぐことじゃないし!」
言いながら可奈子は耳を塞ぎ、目をつぶる。手のひらに触れる耳が熱い。
全身がくすぐったくて逃れられないという、新しい拷問にかけられている感じがした。でも一番不思議だったのは、自分の口角が気づいた時には上がっていたことだ。
体育座りになって膝に顔を埋め、その表情も頑張って隠した。
「いいねえ、私も彼氏欲しいなあ〜」
日焼け止めとサングラスの子が、夢見るような声で言った。
「リンコちゃんなんてさあー、すぐできるじゃんよ」
ミカが羨ましげに言う。ああそうだ、あの子リンコちゃんって名前だった。
「私?私はそうでもないんだな」
「いやいやどうかなあ」
——パァン!
ミカの溜め息まじりの声がまるで合図だったかのように、グラウンドでピストルの音がした。
「ほら、カレシ走ってるよ!見ないの?」
ここで見ては思うつぼの気がしたが、実際優くんの走りは気になったので、渋々顔を上げる。
千五百メートル走は他の陸上競技と違い、全校の参加者七十二人を二グループに分け、先発組と後発組の二回で全員の記録を取る。
先発組に優くんはいるのだろうか。目を凝らし、三十六人の顔や走り方をじっと見る。
「あれ?」
思わず声を上げてしまい、ミカやリンコにどうした、と聞かれる。
「いや——あれって」
すごい速さでスタートダッシュを切った集団。しかしトラックを半分も走れば人がばらけてきた。
だから見つけることができた。集団の中について行けてはいるけど、一人だけもうフォームが苦しそうな男子。
こんながっつり体育会系の人しか参加しない所に、彼がいるはずはなかった。けれどあの疲れ切った走り方、そして周りの男子との体格の差、どれを見てもやっぱり彼なのだ。
——能勢ちゃん、何でそんなところにいるの?
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