第3話 嫌ってくださいお願いします

 朝目覚めると、これは夢だったのではないかと思う。

 私は大学生で、友達と遊んだり程よく勉強したりして毎日を過ごしている。

 家にはお母さんとお父さんがいて、かわいい義弟がいて、笑いが絶えない家庭の中。

 受験以来何かと連絡をとるようになった従兄とメッセージを交わし大学生活を報告して、たまに会ってお茶を飲みながら話をする。

 そんな、ありふれていて平穏な日々が待っている、はずだった。

 大学卒業の日、拓海と久しぶりに食事に行くまでは。

「いおり! 起きなさい!」

「んぅ……」

「もう八時よ、遅刻しちゃう」

「はぁい……」

 ゴシゴシと目をこすりなんとか頭を覚醒させる。ぼーっとする頭をぶんぶんと横に振り眠気を払う。

 ふわぁ、とどデカいあくびをしながら階段をノロノロと降り、洗面台に立つ。

 鏡に映る私は、七歳の小さな姿だった。

 夢じゃないんだよな、と毎朝再確認する。二度目の人生が始まってから二年が経つけど、未だに夢を見ているようなふわふわとした感覚に包まれているような気分だ。

 ボサボサの髪の毛をくしで梳かし、歯ブラシを口に突っ込んでシャカシャカと磨く。

 肩のあたりで好き勝手に跳ねている髪の毛をゴムでひとまとめにして、うさぎの顔がついたヘアゴムで縛る。

 子どもってこういうヘアゴム好きだよね……となんとも言えない顔で鏡に映る顔をまじまじと眺める。

 中身二十三歳がうさぎのヘアゴムをつけるのはなん言うかこう、心にしんどいものがある。

 しかし、お母さんが用意してくれるのがうさぎの顔だったりくまの顔だったりしかないので仕方ないのだ。

 お母さんはああ見えてかわいいものが好きだったりする。

 子どもの頃は私もお母さんに感化されてそういうものが好きだったような気がするけど、大人になるにつれてぬいぐるみや人形からは卒業していった。


「ほら、早く食べちゃって」

「はぁい」

 大人の感覚でパンを口に詰め込むと、子どもの口には入り切らなかったりする。地味に不便なところだ。

 子どもの口は思っている以上に小さいらしい。大人だったら一口で入るしあとは牛乳で流し込めばいいけど、子どもの小さな口ではちまちまとかじって食べるしかないのだ。

 トースターにジャムをたっぷりと塗り、ガジガジかじって口に入れ牛乳で流し込む。

「行ってきます!」

「はい、行ってらっしゃい」

 お母さんに手を振り返し、重たいランドセルを背負って走り出す。 

 胃の中でさっき食べたトースターと牛乳がかき混ぜられる。ついでにランドセルの中身もガッチャガッチャと音を立ててかき混ぜられる。

 子どもの小さな体にランドセルは大きすぎる気がするんだよなぁ。なんて、子どもの頃には思いもしなかったことを考えながら学校への道を走る。


「おはよう」

「お、いおり。まにあったな」

「なんとかね」

 ふー、と息を吐き出して乱れた呼吸を整える。

 学校にいるときは隣の席の拓海としか話さないけど、今日の私は覚悟が違うのだ。

「あの、おはよう!」

 前の席に座る女の子に、思い切って挨拶をしてみる。

 女の子は一人で本を読んでいるおとなしい子で、友達とワイワイ騒ぐようなタイプではないように見える。

 普段話さない相手に声をかけた恥ずかしさから頬に熱が集まっていくのを感じた。

 やばい、超ハズい。慣れない相手に話しかけるの、心臓痛い。

 挨拶したはいいけど返してもらえなかったらどうしようとか、何だコイツって思われないかなとか、いろんな不安が数秒で頭の中を駆け巡る。

「おはよう」

 ドキドキと激しく脈打つ心臓の音がうるさくて、うっかり聞き逃すところだった。

 初めて拓海以外から返してもらった「おはよう」は、私にとって確かな一歩となった。

 女の子は本から視線を外すことなく、平坦な声で挨拶を返してくれた。

 めちゃくちゃ心理的距離を感じるけど、挨拶を返してくれたってことはワンチャンあるよね!?

 嬉しさと興奮でごちゃ混ぜになった私は、隣に座る拓海がどんな顔をしているのか気づいていなかった。 

 休み時間、私は拓海に話しかけるより先に前の席の女の子に話しかけた。

「ねぇねぇ、何の本読んでるの?」

「……まんがだけど」

 そっけなく返してくるけど、私はめげずに話しかける。

「私も漫画好き! 教えて」

「……これ」

 女の子は、漫画の表紙をチラリと見せてくれた。それは私が普段読んでいる雑誌に載っている漫画でよく知っているものだった。

「それ私も読んでる! おもしろいよね」

「ホント? わたし、しゅじんこうがすきでさ」

「わかる! カッコいいよね」

 まさかこんな近くに同士がいるとは思わず、興奮して思わず声が大きくなってしまう。

 女の子の名前は高橋紗妃と言い、私と同じく漫画やアニメが好きなオタクだった。

「あのシーンカッコよかったよね」

「二巻のバトルもよかったよね」

 キャアキャアと盛り上がっている間にHRの時間になってしまい、名残惜しく感じながらも会話を終えた。

 前の席だし、これからもっとたくさん話ができたらいいなぁ。

 勇気を出して挨拶をしてみてよかった、そう心から思った。


「ねぇ紗妃――」

「いおり! きのうのゲームのつづきだけど」

 紗妃ちゃんに話しかけようとしたら、先に拓海に話しかけられてしまった。

 その顔はなんだか不機嫌そうで、私なんかやったっけと心のなかで首をかしげた。

「ゲーム? ああ、また今度やるって話でしょ」

「ちがう。けりってどうやって出すんだっけ」

「蹴り? 蹴りはねぇ」

 なんで突然蹴りの話なんて出るんだろう。昨日負けたことがよほど悔しかったのかもしれない。

 私は親切に拓海にゲームで蹴りを出す方法を教えてやった。

「じゃあパンチは?」

「パンチは――」

 ゲームの話をしていたら休み時間が終わってしまい、紗妃ちゃんと漫画の話ができなかった。

 少しだけ残念な気持ちで授業を受けた。 

 帰り道、せっかくなら紗妃ちゃんも誘ってみようかな。道が反対だったら無理かもしれないけど、一緒の方向なら途中まで帰れるかもしれないし、また漫画の話もしたい。

 思い立ったが吉日である。私は授業が終わるなり一番に紗妃ちゃんに話しかけた。

「紗妃ちゃん! 今日よかったら一緒に帰ろ」

「うん、いいけど……やじまくんはいいの?」

「は? おい、なんでソイツさそうんだよ」

 私の初めてのオタク友達をソイツ呼ばわりとは失礼な幼なじみだ。

「私、紗妃ちゃんと帰りたいから今日はゲームなしね」

「なんでだよ! おれとのやくそくが先だっただろ!」

 拓海は声を大きくして私に抗議してくる。

 困った、拓海がゴネたら紗妃ちゃんがやっぱり無理、となってしまうかもしれない。私の貴重なオタク友達なのに!

「拓海くんといてもゲーム楽しくないもん」

 私の放った一言に、拓海の動きがピタリと止まった。

 握りしめた拳をぶるぶると震わせ、うつむいたかと思うと「そーかよ!」とランドセルを乱暴に掴んで教室を出て行った。

 ……少し、言い過ぎてしまったかもしれない。

 そう、なぜなら相手はまだお子様なのだ。憎まれ口ばかり叩いていた中学生の拓海とは違う。

 わかっていても、これがキッカケで拓海が私を避けるようになったらいいな、なんて思ってしまうのだから私は最低だ。

 大切な幼なじみだったからこそ、突き放さなければいけない。

 一度目の人生と同じ末路をたどるのは絶対にご免だ。だから、申し訳ないけど離れてもらうしかない。

「よかったの?」

「うん、いいの。帰ろう」

 ホッとした反面落ち込んでいる部分もある。

 自分の面倒くさい性格にため息をつきたくなってしまう。しかし、帰り道は紗妃ちゃんと漫画の話で大いに盛り上がったので良しとする。

 しかし、問題は家に帰ってからだった。

 お母さんが怖い顔で待っていた。


「いおり、拓海くんに酷いこと言ったんでしょう」

 ……相手が幼なじみだと、親に伝わるパターンがあったか!

 どうしよう、結構厄介かもしれない。家が隣同士ってだけでもう避けられないのに、親の繋がりがあっては逃げられない。

 しかし簡単に認めてしまっては突き放した意味がない。

 私はふるふると首を横に振った。

「言ってないよ」

「じゃあどうして今日は一緒に帰ってこなかったの? 拓海くん、すっごく落ち込んでるって聞いたのよ」

「知らない。今日は紗妃ちゃんと帰ってきたから拓海くんとは帰れないって言っただけだよ」

「冷たい言い方しなかった?」

「してないよ。普通に一緒に帰れないって言っただけ」

 私の言い分をとりあえずは信じてくれたらしいお母さんは、ひとまず引き下がってくれた。

 納得のいかない顔はしていたから拓海からお母さんに話がいってしまったら終わりなんだけど、長年の付き合いから拓海は言わないと信じている。

 アイツは意外とカッコつけたがりだから、自分が弱くて負け続けたゲームを楽しくないと言われたなんてとても口に出さないだろう。

 これで安心、かな。

 明日から拓海と一緒に登校することもなくなるだろう。

 そう思って、油断していた。


 翌日、玄関の前にあまり迫力のない仁王立ちした拓海がいた。

「よう」

「……なんで?」

「おれ、ゲームれんしゅうするから。まけるのがへったら、またあそんでくれるだろ?」

 昨日泣いたのか、赤く腫れた目で見つめられ、私は何も言えなくなってしまう。

 ここで「絶っ対イヤだ!」と断ったら私が完全に悪役になってしまう。

「……わかった、負けるのが減ったらね」

 遊んであげる、とまで言わなかったのはせめてもの意地だった。

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