Case1:≪記憶眼鏡≫

「なあリウ、今朝アサップでお願いしたやつってもうコンセンサス取れてんの?」

 昼休みが明ける五分前、デスクに突っ伏して仮眠をとっていたあたしの意識はタバコの匂いのする男の声に肩を揺すられて、現実へと浮上した。デスクの上に適当に置いていた野暮ったいことの上ない黒縁の眼鏡をかけ直すと、ぼやけていた視界に浅黒い肌の強面の中年男性の姿が映る。アサップはなる早、コンセンサスは合意とかそういう意味だった気がするが、急ぎで確認を取らねばならない案件などあたしの脳内では飽和状態である。あたしは起き抜けからげんなりとした気分になりながら、

「あーもう……何ですかカタンさん。今朝のってどれですか」

「ほら、どっかの馬鹿がジャストアイディアの段階でステークホルダーのアグリー得ないままゴーしちゃったやつ」

 意味のわからないカタカナだらけの言葉からは何のことだか特定できず、あたしはデスクの引き出しからは手作りの単語帳、脳内からは現在受けている全ての依頼状況を引っ張り出す。

 あたし――リウ・エトワールは星野梨羽二十八歳として平成の日本を生きていたはずが、ある日の深夜、この世の地獄のような社畜生活に絶望して飛び込み自殺を図り、電車に轢かれた。ぐちゃぐちゃの礫死体となって、人生と社畜生活を終えたはずのあたしは、目を覚ますと異世界にいた。これがラノベやアニメで最近流行りの異世界転生というやつかと思っていたら、ここは元の世界でも使わなかった量のカタカナのビジネス用語が日常的に飛び交うとんでもない世界だった。しかも、転生してなお社畜生活からは逃れられない運命だったようで、剣と魔法のこの世界で魔法アイテムの製造メーカー――レムーン王国の王都シーヴァにあるラーゼン社に勤務し、馬車馬のように働く羽目になっている。

 前世では社畜だった割には、意識高い系の人々が好んで使うカタカナのビジネス用語に明るくないあたしは、自分の字が書かれた単語帳をぺらぺら巻くって、どうにかカタンの言いたかったことを理解する。たぶん、カタンが言っているのは、まだただの思いつきの段階であったにもかかわらず、顧客のOKも得ずに話を進めてしまったあの件だ。

「あー……開発部が独断専行で勝手に動いちゃったやつですか……」

 げんなりしながら答えると、それそれと長身で強面のあたしの上司は頷き、

「いくらブルーオーシャン戦略取りたいからって、仕様のフィックス前に製造部動かすとか馬鹿馬鹿ばーか」

 五十路を超えているというのに、面白がるように子供じみた悪態をつくカタンをあたしは苦笑いで受け流す。ブルーオーシャンってなんだっけなと思いながら、あたしは手の中の単語帳のページを繰る。ブルーオーシャンとは未開拓の市場のこと――要は他の企業がまだやっていないようなことを思いつき、気持ちが逸るままに仕様すら固まっていないというのに製造部を動かす暴挙にでてしまった開発部に対しての罵倒をあたしの上司は口にしているのであった。あいつら本当にろくなことしないなと、午前中からこの件についてばたばたと駆けずり回る羽目になっていたあたしは胸中でカタンに全面的に同意しながら、

「その件ですけど、技術部だけまだです。アネッサさんが体調不良で午前休だとかで」

「えっ、あの仕事中毒の女ボスが体調不良? また朝まで飲んでたとかじゃなく?」

「……いや、知りませんけど」

 あたしが半眼で適当にあしらうと、カタンは面白そうにからからと笑う。この人楽しそうでいいなと思いつつ、「面倒なのでこれから直接技術部行ってきます」とあたしは席を立った。立ち上がった拍子にデスクの上にあった茶色い小瓶が倒れて転がる。

「またそれ飲んでんの?」

「この前、上のフロア行ったら調査部の人が箱でくれたので。激マズですけど寝ないで仕事しても大丈夫になるんでありがたくいただいてます」

 現代日本でいうところのエナドリにあたるが、どうにも仕組みは違っていて、一時的な身体能力強化のために法規定ぎりぎりの量の火の魔力が入っていると聞いた。まだ開発中の商品で、≪限界突破薬≫リミット・ブレイカーなどという安直過ぎる仮名称がついているらしい。薬が切れた後の反動が凄まじいようで、あたしにこれをくれた調査部にはゾンビのごとき生ける屍の山ができていた。死屍累々とはまさにああいうことを言うのだろう。

 効果が切れて動けなくなる前にそろそろ追加で飲まないとなどと思いながら、あたしは魔力認証でドアを開け、執務室を離れた。


 上のフロアに行き、あたしは出社してきていたアネッサと話をした。たぶんあたしのせいではないというのに一方的に色々と聞かれまくってへろへろになりながら、企画部の横を通って部屋の外に出ようとしていると、男の声に名前を呼ばれる。

「カイさん」

 今朝、爽やかに問題事を持ち込んできた男があたしに向かって手招きをしている。仕方なく、カイのところに寄っていくことにしたあたしは、

「何ですか? まさかとは思いますけど、また何か面倒な話じゃないですよね」

「今朝の件は申し訳ないと思ってるよ。それであれ、どう? 今、リウちゃんボール持ってたよね? クライアントからプッシュされててさ」

 開発部が無茶苦茶なことをしているのが顧客に露見し、早急に確認をするようプッシュ――急かされていたため、後付けとはいえ、どうにか社内の関係部署の間だけでも認識と口裏を合わせるために、つい先程まで奔走させられていたのはあたしだ。はあ、とあたしは深々とため息をつくと、

「さっきアネッサさんにも確認してもらったんで、うちの内部的には大丈夫ですよ。もう本当、こんなことやめてくださいね金輪際」

 開発部にもよーく言っておいてくださいとあたしが半眼で言うと、カイは苦笑した。

「わかった、ありがとう。それはそうと、お詫びと言ったらなんだけど、新デザインの≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスの試作品が開発部から上がってきたんだけど、試してみない?」

 目の悪いあたしが、この世界への転生直後、とりあえず眼鏡を欲しがったところ、上司のカタンがどこからか余っていたという≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスを一つ調達してきてくれたのだが、デザインが滅茶苦茶にダサいことの上ない。太い黒縁にぐるぐるとした牛乳瓶の底のような、前世の世界ではアニメや漫画以外ではお目にかかったことのない強烈なビジュアルだ。デザイン面について、あたしがカタン相手に色々とぶうたれたところ、いつの間にか企画部や開発部に話が伝わり、若い女性をターゲットにするため、カラー展開を増やして追加で発売することになったらしい。商売というのはどこにきっかけが転がっているかわからないものなのだなあとあたしは思う。

「あっ、今回は前よりはかわいい感じなんですね」

 というか随分対応早いんですねと感心しながら、あたしは差し出された≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスをカイから受け取る。赤いフレームにピンクのチェック柄のテンプル。レンズもぐるぐる瓶底ではなくちゃんと常識的な範囲の厚さだ。デザインが少々子供っぽい感は否めないが、前よりは格段にいい。この会社の商品は開発が早く、商品のバリエーションも多岐にわたる代わりに、絶妙に垢抜けなかったり安っぽいデザインのものが多い。それを考えれば、これはかなりいいほうだ。

「まあ、うちのアセットはオポチュニティを逃さず、アジャイル開発できるところだからね。バジェット案出したときはこれでペイできるのかって上に渋られたけど、こうしてブラッシュアップできたのはリウちゃんのおかげだし、これならコモディティ化が進んでいる現状に一石を投じることができそうだよ。だけど、レンズに関してはうちのラインじゃ無理だったから、他社にOEMの依頼したんだけど。そうそう、この商品のアンバザダーには社交界のインフルエンサーとして有名な伯爵令嬢をアサインする予定だよ。なんてったってこの商品のペルソナはリウちゃんみたいな若い女の子だし」

 誰かとよっぽどこの件の話がしたかったのか、つらつらと謎のカタカナを口から紡ぎだすカイにあたしは頭痛を覚える。単語帳を自席に置いてきてしまったので、何を言っているのか全然理解できない。あたしのうろ覚えの知識でどうにかカイの言葉を翻訳すると、「社内の上層部には予算的に渋られたもののあたしの意見が新しい商売のチャンスを生み、他社との差別化が図れそう」という意味になるだろうか。そして、この商品を社交界で影響力のある伯爵令嬢に宣伝してもらうつもりというようなことを言っていたようにも思える。

 あたしは新しいデザインの≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスを持ってとりあえずさっさと退散しようと、

「あの……カイさん、仕事あるのでそろそろ失礼しますね」

「あ、ちょっと待って」

「……まだ何か」

「開発部が古い≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスについて、リウちゃんから直接フィードバックしてほしいって言ってたんだけど」

「嫌ですよ、仕事あるって言ったじゃないですか」

 引き止められたあたしは、カイの言葉に露骨に嫌そうな顔をすると、彼はあたしの反応を予測していたのか、だよねえと頷く。じゃあさ、と彼はあたしの顔を手で示すと、

「その古い方の≪記憶眼鏡≫メモリー・グラス預かっていいかな? 開発部もそれ使って自分たちでデータマイニングくらいはやるだろうし」

「はあ……どうぞ……」

 データマイニングって一体何だろうと思いながら、≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスを新しいものに付け替え、あたしは古い≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスをそのままカイへと手渡す。積み上がった業務で忙しいし、よくわからないけれどカイがこう言うのだから、あたしが開発部に顔を出さずとも適当にいい感じにやってくれるのだろう。詳しく聞くのも面倒だし、もう何でもいいから好きにしてくれ、とあたしはすっかり投げやりな気分になっていた。


 ≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスとはただの眼鏡ではなく、名前の通り見たものを記憶しておける機能を持つ魔法アイテムである。土の魔力を応用して、眼鏡の記憶領域に内容を記録しているらしいが、現代日本であまり流行らなかった某眼鏡型ウェアラブルデバイスの機能限定版みたいなものかとあたしは解釈している。

 この世界に転生してきて、最初は文字すらわからなかったあたしは一般常識から業務内容に至るまで、いろいろな書物や資料の内容をこのアイテムを駆使して記録しまくり、日々をどうにか凌いでいた。

 しかし、この記憶眼鏡が原因で事件が起こるとは、あたしは予想だにしていなかった。

 新しい≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスを手にしてから数日が経ったある日、あたしはいつも通りに仕事をしていた。左隣の席に座るカタンが鼻歌交じりにデスクの上に置かれた無限にお菓子が湧き続ける魔法アイテム――≪無限菓子壺≫スウィート・スプリングに惰性的に手を伸ばしながら、雑誌をぺらぺらとめくっているのもいつも通りだ。雑誌の表紙には『週末、愛犬と行く! 王都の公園特集BEST5』と書かれており、フルーヴという名の愛犬をまるで自分の息子であるかのように溺愛しているカタンらしいといえばカタンらしい。というか仕事しろ。

 雑誌に一通り目を通し終わったのか、カタンは席を立った。あたしがちらりと時計を確認すると、十五時半を指していた。

 カタンが席を立ってから十分ほど経ったとき、主が不在の左隣のデスクの上で巻き貝の形をした魔法アイテム――≪星信貝≫スター・シェルから某林檎印の有名なスマホを彷彿とさせる軽快な音楽が流れ始めた。

 ≪星信貝≫スター・シェルは光の魔力と風の魔力を空に浮かぶ星々を経由させることで相手に自分の声を届けることができる魔法アイテムであり、要するに電話である。値段の張る貴重品であるため、うちの会社ではあたしのような下っ端社員は持っておらず、役職者にのみ与えられているのだが、どうにもあたしの上司は席を立つときにこれを恣意的にデスクに置いていっているふしがある。

 仕方なく仕事の手を止めて、カタンのデスクに放置されている≪星信貝≫スター・シェルをあたしはトランシーバーのように手に取り、

「あ、もしもし」

「あれ、リウちゃん? カタンさんは?」

 ≪星信貝≫スター・シェルの中から聞こえてきたのは技術部のアネッサの声だった。カタン率いるこの支援部は彼女の部署との関わりが深い――彼女の部署の人手が足りないときに便利に使われることがやたらと多いため、割と頻繁に彼女から連絡がある。

「アネッサさんですか、お疲れさまです。カタンさんは多分、時間的に煙草だと思いますよ。そのうち戻ってくると思いますけど、どうかされたんですか?」

 カタンは毎日ほぼ決まった時間に煙草を吸いに席を立つ。大抵は十時半、十三時半、十五時半、十七時半の四回だ。定時で帰る日は最後の十七時半はない場合もある。

「うーん、そっか。ちょっと、インシデント発生してるんだよね。何か開発部が無断で情報持ち出しちゃったらしくって」

「え、そうなんですか」

 他所の部署の話に過ぎないので、あたしは大変だな、と半ば他人事のように思いながらアネッサの話に相槌を打つ。カタン曰く社内の大半を実質的に掌握している真のボスというだけはあって、彼女はこういった情報をやたらと早く掴んでくる。

「もしかしたら、情報流出してるかもってことで、今いろいろ確認取ってるところで、こっちのフロアは今かなりばたばたしてるんだけど。ところでさ」

「おい、リウ」

 アネッサが何かあたしに切り出そうとしたところで、男の低い声があたしの背後からかけられた。機嫌が悪いのか何なのか、ただでさえ強面なのに人相の悪さが百倍増しだ。

「あっ、カタンさん。アネッサさん、カタンさん戻ってきたので代わりますね」

 カタンはあたしから≪星信貝≫スター・シェルを受け取ると、顎をあたしのほうをしゃくって、

「リウ、お前、その≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスいつ変えたんだっけ?」

「え……先週、企画部に寄ったとき、ですけど……?」

「お前の前の≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスから、情報漏れたかもしれないらしいぞ」

「え……?」

 戸惑うあたしをよそに、カタンは≪星信貝≫スター・シェルでアネッサと話をし始める。

 アネッサは開発部が無断で情報を持ち出したのだと言った。そして、カタンはあたしの古い≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスから情報が流出しているかもしれないと言った。つまり、それは開発部があたしの使っていた≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスを無断で持ち出したことによって、情報流出が発生したかも知れないということを意味している。自分が思いっきりこの件の渦中にいることを悟り、あたしの思考は真っ白になる。

 どうしよう。この世界に来て最初のころに手当り次第に記憶した一般常識レベルのことが大半とはいえ、あの中には業務情報だって入っていた。よくわからないけど大丈夫だろうと手間を惜しんで、重要な内容を消さずにそのままカイに≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスを渡してしまったのはあたしだ。

 もしかして、この一件が原因でクビになるのではないか。ここという働き口を失ってしまったら、この世界で一人、あたしはどうやって生きていけばいいんだろう。あたしの中で悪い方向に想像が膨らんでいく。目に熱いものが込み上げてきて、あたしは唇を噛む。

「おい、リウ。おい」

 アネッサとの話が終わったらしいカタンがあたしの名前を呼んでいた。はい、とあたしは力なく返事をする。

「まず、一旦カイのところに行くぞ。と、その前に、お前ちょっと外行って俺のコーヒー買ってこい」

「は……?」

 あたしは思わず目を瞬いた。せり上がってきていた涙がほんの少しだけ引っ込んだ。あのな、と苦笑まじりにカタンは言う。恐る恐る見上げたその顔は思いがけず優しかった。

「よく覚えておけよ。この件でお前に非があったとして、そもそもお前に責任が取れるなんて端から俺は思ってない。責任を取るのは、俺みたいなおじさんの仕事なんだよ。上司っていうのはそのためにいるんだ」

「カタンさん……」

 悪いと思うんなら一番でかいやつ買ってきてくれたらそれでチャラだ、とカタンは片目を閉じる。とても下手くそで五十歳という年齢には不相応なウィンクだったが、空気を必要以上に重くさせまいとするその心遣いがありがたかった。

 一度引っ込んだはずの涙がまた溢れてきて、あたしは慌てて俯く。≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスのレンズに水滴が落ちる。

 あたしはたまらなくなって、デスクの上に置いていた財布をひっつかむと駆け出した。


 会社の建物の向かいにある公園のベンチに座り、あたしは溜息をついていた。目の粘膜が少しヒリヒリしている。鏡を見ていないのでわからないが、恐らく今、あたしの白目は真っ赤になっている。こんな顔のままじゃ仕事に戻れない。

 社会人失格だな、とあたしは思う。イレギュラーな出来事にめっぽう弱いあたしがあの状態では使い物にならないと判断し、本来ならそんな場合じゃないはずなのに適当な口実を作って、落ち着くための時間をカタンは与えてくれた。それなのにあたしは泣いてあの場を逃げ出してきてしまった。あたしは最低だ。あたしは背中を丸め、手に顔を埋める。

前世のあたしもこうだったな、と思う。ありえない日程を組まれたスケジュールに納期、やってもやっても終わらずに心折れるほどの作業量。村八分どころか、必要な連絡すら回してもらえないようなあの場所で孤立してしまっていたあたしは、いつだって一人で全部を抱え込んで耐えるしかなかった。誰にも相談できないままじわじわと追い詰められた心と体が限界を迎え、どうにもこうにもにっちもさっちもいかなくなって、ある日の夜、終電ぎりぎりの駅のホームで死にたいなと思いながらぼんやりとあたしは暗い線路を見つめていた。もう全部終わりにしよう、どこか冷めきった思考でそんなことを考えたあたしはちょうどホームに滑り込んできていた電車の前に体を躍らせたのだった。パァンという耳をつんざくようなあの警笛の音は生々しい記憶として今でもまだ覚えている。

 頭を過ぎった嫌な記憶に心臓の鼓動がどくどくと早くなる。あたしが今いるここは日本じゃない、そう自分に言い聞かせる。ここは前世とは異なる剣と魔法の世界――レムーン王国の王都シーヴァだ。今のあたしはあのころとは違う。

 あたしの今の職場――魔法アイテムの製造メーカーであるラーゼン社はお世辞にもホワイトな職場だとはいえない。それでも、今あたしの周りにいる人々――カタンさんたちは文字すら読めなかった転生直後のあたしに手を差し伸べて、受け入れてくれた。あたしの言葉に耳を傾けてくれた。周りの人々のこのあたたかさは、前世のあたしが生きていた場所にはなかった得難いものだった。

 いつの間にか、この会社はあたしにとって大切な居場所になっていた。いつだって業務はカツカツでろくなところじゃないけれど、それでも今のあたしはあの場所が好きだった。まだあたしはここにいたい――追い詰められてはいるけれど、それでも前世のあたしと違って今のあたしは死にたいとは思ってはいなかった。ゆっくりと顔を上げると、視線の先で会社の建物が西日に赤々と照らされていた。

 ほんの少し視線を下へ向けると、公園の入口の広場にカフェが出ているのが目に入った。ここのコーヒーを気に入っているのか、カタンが時々朝買ってきていることをあたしは知っている。

 さっきから恐らく三十分くらいは経っている。そろそろ戻らないとじきに日が暮れてしまう。あたしの顔面はともかくとして、気持ちは多少落ち着いた。カタンはたぶん咎めはしないだろうが、いい加減戻らないといけない。あたしは意を決して立ち上がる。今のあたしに必要なものは勇気と誠意とアイスコーヒーだ。こんなところでへこんでうじうじする時間じゃない。

「すみません、コーヒーください。一番大きいやつをアイスで、ミルクたっぷりで。持ち帰りでお願いします」

 カフェへと立ち寄り、あたしは若い女性の店員へと注文を伝える。はーい、と明るい声が応じ、あたしの注文を繰り返した。カタンはいかにも男は黙ってブラックだと言わんばかりの顔をしているが、コーヒーはばりばりミルクを入れる派だ。ちなみにどうやら紅茶にはレモン派のようだ。

 カウンターの上に置かれたかごにチョコレートバーが盛られているのが目に入った。泣く子は黙るどころかもっと泣きそうな強面のくせに、あたしの上司は結構な甘党だ。こんなものでお詫びになるとは微塵も思っていないが、これも買っていこう。

 あたしは支払いを済ませ、コーヒーとチョコレートバーを手にすると頭上に聳える会社の建物へと戻っていった。


「あのっ……大変申し訳ございませんでした!」

 開口一番にそう言ってがばっと頭を下げたあたしに、カタンはようやく戻ってきたかと朗らかに笑う。

「ま、カフェが混んでたんなら仕方ねえよな。お前にコーヒー頼んだの俺だし」

「えっと、そういうわけじゃ……」

 否定しようとするあたしに対し、まあそういうことにしとけとカタンはにやりと口元を歪めた。

 カタンはあたしからコーヒーを受け取り、口をつけながら、

「さっき、カイのところに行って話を聞いてきた。何でも、昨日の夜、開発部の若いヤツが家で作業しようと思って、お前が使ってた≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスを申請なしに持ち出したんだと。それで、その馬鹿が帰りに酒場に寄って泥酔しちまって、≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスの入ったかばんを忘れてきたらしい」

「それで……≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスは出てきたんですか?」

 あたしが恐る恐る聞くと、カタンはおう、と頷く。

「酒場のマスターが朝早くに王国軍の詰所に届けてくれていたらしくてな。本人からエスカレがあってから、念のために軍に問い合わせてみたら届いてるってことで、本人とあそこの上司のラヴァンとで取りに行ってきたってよ」

 あたしは平たい胸を撫で下ろした。ようやく少し生きた心地がした。コーヒーを一気に飲み干し、空になった容器をあたしへと突き返すとカタンは言葉を続ける。

「それで今、アネッサが子分どもを総動員して、中のデータに不正アクセスした形跡がないか調べてるってさ」

「アネッサさんの子分って……ケルンさんとかエメットさんとかですか……?」

 あいつら今夜は帰してもらえねえぞ、とカタンは笑う。その一因たるあたしは一体どんな顔をすればいいかわからない。

「まあ、さっきカイのところ行った帰りにアネッサのところに寄ってきたけど、今のところは大丈夫そうだって言ってたぞ。お前、古い≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスをカイに渡す前にデータも消さなかったけど、プロテクトの解除もしてなかっただろ?」

「あ……」

 言われてみればそうだった。あたしは忙しさと面倒臭さから本当に何もせずに、古い≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスをカイにそのまま渡していた。

 ≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスの中にあるデータを他人が見ようと思ったら、基本的には持ち主にプロテクトを解除してもらうか、メンテナンス用の権限を使って無理矢理こじ開けるかの二択だ。あたしがカイに渡したときの状態のまま、開発部の人が≪記憶眼鏡≫メモリー・グラスを持ち出したのであれば、業務情報が流出している可能性は恐らく低い。

「よかった……」

 あたしはへなへなと床に座り込んだ。しかし、カタンはそんなあたしに釘を差すことだけは忘れない。

「わかってるだろうけど、絶対にこれを『よかった』で済ますんじゃねえぞ。一歩間違ったら、うちの会社の信用ガタ落ちの大事故になるところだったんだからな。よーく肝に銘じとけ」

 はい、とあたしは頷いた。すると、カタンは手早くデスクの上の資料を片付け始め、

「じゃ、俺は帰るわ。さっさと帰って犬の散歩行かないと、うちの嫁さんこえーから」

 それじゃおつかれー、とひらひらと手を振りながら、カタンが颯爽と退社していくさまをあたしは呆気にとられながら見送った。時計は定時から五分が過ぎた十八時五分を指していた。


 あれから三日が経った夕方、この件で緊急の全社MTGが行なわれた。

 このMTGまでの間、あたしはカタンの監督の元、再発防止のためのなぜなぜ分析をひたすらにやらされた。なぜ、なぜと問題を深堀りしていくと、気がつけば何故か毎度謎のループに陥っているあれである。前世の世界でも一部にこの手法をやたらと好む人間がいたが、まさか転生してきた先の異世界にもこれが存在しているとは思ってもいなかった。

 あたしとカタンは、このMTGの様子を近くの会議室に設置された≪映写鏡≫イリュージョン・ミラー――≪星信貝≫スター・シェルに似た仕組みでできたテレビのような魔法アイテムを通じて見た。ちなみにこの魔法アイテムは、前世の世界で日曜日の朝に放送されていた某女児向けアニメのアイテムを彷彿とする見た目をしており、いつものことながらどうしてこの安っぽいビジュアルで売れると思ったのか謎の一品である。

 ≪映写鏡≫イリュージョン・ミラーに三十代後半くらいと思われるボブカットの塩顔美人――アネッサの姿が映り、言葉を発した。

「来週に大型の新商品のローンチを控えていますが、皆様もご存知の通り、先日、インシデントが発生しました」

 確か、インシデントとは事故とはならなかった事件――要は大事には至らなかった事件を指す言葉のはずだ。アネッサは滔々と先日の記憶眼鏡の件についての経緯と対応内容を述べていく。

「今回は大事には至りませんでしたが、以前にこのような経験をされたことがある方が皆様の中にもいらっしゃるかと思います。そうした皆様のヒヤリハットをノウハウとして蓄積し、更にはインシデント発生時の早急なエスカレーションの徹底、コンティンジェンシープランの再検討が喫緊のビッグイシューかと思います」

 彼女は一息にそこまで話すと一度言葉を切る。どうやらアネッサは、トラブルが起きたときの対応についての問題提起をしているようだとあたしは乏しい語彙力でどうにか理解した。すう、と画面の向こうのアネッサは息を吸うと、

「さて、今回の件は、バジェットのショートに伴う直近のコストリダクションにより、バッファの確保が難しく、タイトスケジュールが続いていたことに端を発しています。そのため、組織としてドラスティックな改革が必要だと考えております。具体的にはアウトソーシングを積極的に取り入れダイバーシティの実現を図ることで、同時に社内のリソースを……」

 ≪映写鏡≫イリュージョン・ミラーに映るアネッサが一体何を言っているのか、相変わらずあたしはさっぱりわからなくて目を白黒させる。こんなに謎のカタカナを連発されては全然話についていけない。

「カタンさん、アネッサさんは一体何をいっているんですか?」

 隣に座るカタンの服の袖をあたしが引っ張ると、カタンは面倒くさそうな顔で、

「要は人件費不足でスケジュールがかつかつになりがちなのを外部から安い人材を調達してきてどうにかしようって話だよ。わかったら黙って聞いとけ」

 解説してくれたカタンに礼を述べると、あたしは口を噤んで、相変わらず意味不明なアネッサの話に耳を傾ける。あたしがこの世界でまともにやっていけるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだった。


 それから更に二週間が過ぎた。一週間前の大型商品の発売を無事に乗り越え、社内は徐々に落ち着きを取り戻してきていた。

「なあ、リウ、前に一回ペンディングしてたあの件、もう一回動かすことになったじゃん? あれって結局誰がドライブするんだっけ? 俺はてっきりアネッサの奴がイニシアチブ取ってるもんだと思ってたんだけど」

 カタンの言葉にイニシアチブってなんだっけ、と思いながらあたしはデスクの引き出しにしまっていた単語帳を繰る。イニシアチブは主導権だ。ドライブは進めるという意味だが、カタンの言う通り、大抵のことは社内のいろいろなことに首を突っ込みがちなアネッサが進めている印象がある。

 違うんですか、とあたしがカタンに問うと、カタンは肩をすくめ、

「それが、アネッサが言うにはリウマターで進めることでオーソライズ済みだとよ」

 オーソライズってなんだっけと再び単語帳をめくる。オーソタイズは了承、マターは担当という意味のようだが、知らないうちにあたしが担当者に決まっているのは何かがおかしくないだろうか。

「あたしそんなの聞いてないですよ!」

 あたしが一拍遅れて憤慨すると、

「諦めろ、アネッサの言うことは絶対だ。あいつが黒って言ったら白いものも黒くなるのがうちの会社だ。俺だってあいつには逆らえねえ」

「そんなあ……」

 あれからも、あたしは相変わらずこんなふうに謎のカタカナに翻弄されながら日々を過ごしている。

 ままならないことも多いけれど、あたしは今日もここで生きている。

 あたしは自分のよりよい明日を守るために、この一件についてアネッサに一言物申そうと心に決め、席を立った。

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