⑨クトゥルーVS信介

 クトゥルーの笑い声だけが響く。

 ただ真っ暗な意識の中、信介は何もできないでいた。


 クトゥルーの魅せた幻覚から解放されはしたものの、いまだ肉体の自由を取り戻せてはいない。

 例えクトゥルーの生み出した幻の世界を抜け出ても、決してクトゥルーの支配からは逃れることができないのだ。


――あぁぁおぉぉぉぉっ!


 幾度となく信介は雄叫びを上げようとするが、それで覚醒することもない。自分の叫び声すら聞こえてこなかった。

 必死で目覚めようと足掻くが起きることはできない。このまま、丹沢が崩れるのと同時に、自分たちも死にゆくのだ。


――何か方法はないか、考えなくては!


 手は動くか?

 信介は手を動かそうとするが、手そのものの感覚がないように、何をどうすればいいかわからない。

 足は? 頭は? 口は? 目は?

 そのどれもが自分から存在しなくなったようで、身体を動かす感覚を忘れてしまったようだ。


 それでも、残っている感覚はないか、動かせる器官はないか、必死で神経を働かせる。

 あった。

 信介の細胞の中に小さく蠢く、次元生物ミシファイカイリーの細胞だ。房総で怪異に巻き込まれた際、どさくさに紛れて信介の体内に入り込み、信介に悪夢と直感を与えていた存在である。

 それは信介の一部でありながらも、信介そのものではない。そのため、クトゥルーの束縛から逃れたのだろう。


――ミシファイカイリーよ、力を貸せよ。


 信介の神経がミシファイカイリーを駆り立てた。

 ミシファイカイリーの細胞が活性化し、未来に過去に、ほかのミシファイカイリーとも意識を共有しつつ、悪夢のような光景を信介に見せる。

 それはミシファイカイリーが寄生した生物に起きた悲劇であり、ミシファイカイリーに寄生された人間の絶望の記憶であった。


 クトゥルー復活が迫り、その欠片が眠る丹沢に怪異が集まる。ミシファイカイリーもまた、そうして呼び寄せられた怪異の一つであった。

 その本体に寄生された生物は過去と未来を脈絡なく感知して気を狂わせ、その細胞に寄生された人々は悪夢に悩まされる。悪夢は一部の人々を丹沢に駆り立てた。そうして現れる人々はクトゥルーの生贄となるに相応しい強靭な精神を持つものたちだ。


――俺たちはクトゥルーに呼び寄せられていたというのか。


 信介はそのことに衝撃を受ける。


――だが、思い通りになる気はない。


 信介はミシファイカイリーとともに悪夢を見る。

 チャウグナー=フォーンに血を吸われ力を失う感覚、ショゴスに飲み込まれ溶けていく感覚、イタカに連れ去られ落下する感覚、そのどれもが衝撃的で、絶望的だった。

 皮肉なことに、死の感覚を味わうことで、肉体は活性化され、信介の神経にも身体の感覚が甦ってくる。


――動く。動かせる。


「あぁぁおぉぉぉぉっ!」


 その絶叫とともに、声が響いた。信介の耳からも音が聞こえる。

 信介の肉体が目覚めつつあった。


――素晴らしい精神のエネルギー。驚くべき精神の強靭さ。

  その精神の強さを解き明かすことこそ、我が復活の贄となろう。

  人間の言葉で何と言ったか。士は己を知るもののために死す、これ真の友とす。

  シンスケ、我がお前を知るためにお前は死ね。お前は我が友達だ。


 脳の中に響くおぞましい声に、信介は気づいていただろうか。

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