第4話 理想の世界
話は冒頭に遡る。
「返してくれは、しまいか」
数十年ぶりになるだろうか。
誰もいなくなった村の奥、久方ぶりに見る門は、変わらずそこに佇立していた。
あれから阿里は各地の遺跡を巡った。門を止めるという彼の目的は、いつしかもう一度、門の先に消えた人々に会うことへと変わっていった。その研究は遺跡に関わる人々に広く知られるようになり、数多くの技術革新につながった。思い返せば不思議な話だ。ずっと遺跡のことを研究しているのに、そのきっかけとなった門は長いこと訪れずにいた。つらい記憶を思い出さないよう、知らず知らず、避けていたのかもしれないな、と阿里は思った。
阿里の寿命は、もう長くないと言われていた。内臓の病だそうだ。調子が悪いと感じたときには、もう遅かったらしい。いつ倒れてもおかしくは無いから好きに過ごしなさい、とは、天院でもっとも医術に長けた学者のお墨付きももらっている。
好きに過ごせと言われても、これまで忙しくしてきたせいで何をしたものか思いつかなかった。最後に思い立ったのが、この場所だった。
節だった手を門に触れて、阿里はかつてのことを思い出していた。そこに村があったこと。家族と村人を、もう一度見つけられればよいと願ったこと。式水という、友人がいたことを。
思えば遠くに来たものだ。
「門よ」
門は何も答えてはくれなかった。繰り返す。
「門よ」
答えは返ってこなかった。
感慨もひとしきり去っていき、そうすると今度は怒りがこみ上げてきた。
熾火のように、燻っていた心が乱れた。ああ、だからここには来たくなかったのだ、と冷静な頭が思う一方で、老いた体には怒りをあたりにぶつけられるほどの、体力が残っていなかった。誰もいない草原で、阿里はかすれるような声で叫んだ。
「返してくれ。」
いや、それはもう叶わないのかもしれない。だとしても、どうして、
「どうして、僕には何も見せてくれないんだ!」
叫んでも、門は答えない。
阿里には見えなかった。これだけ多くを犠牲に頑張ってきたのに、皆が見たという理想の世界を垣間見ることすらかなわなかった。
人々がそこに行きたいと願ったであろう場所が。阿里を置いて進んだ場所が。
門の起動停止ができないことには早い段階で辿り着いていた。
遺跡自体への干渉は今の人の技術では不可能だ。それなら、一部の機能だけでも再現できないだろうか。
宮殿の内部が多重結界構造になっていることを実証し、地層が似通った場所であれば、基逓項を計算していくつかの門の先へ人工的に接続する手法を確立したのも、阿里が初めてだった。行けないならば、せめて近づく方法を。
寝食を捧げたなんてものじゃなかった。
そう、頑張ったんだ。阿里は思った。それでも、憬慕の宮殿への接続は未だ果たせなかった。そして時間はどんどん過ぎ、もうすぐ、自分の命も尽きるらしい。
数十年ぶりの門を前にして、ずっと考えてこないようにしていた気持ちがあふれ出していた。僕はずっと、頑張ってきた。門の先に行くために、努力を惜しまなかった。どう考えても過酷な日々だった。
それだけやっても夢の世界には届かない。どうして、見えない。
もう一度門にむかって呪詛を吐こうと息を吸い込んだ瞬間、ふいに、思い浮かんだ。
──それがお前の、理想だったんじゃないのか?
「は?」
一瞬の思考停止があり、直後に吐き気が、こみ上げた。
──お前は、皆が消えることを望んでいたんじゃないのか?
脳天を何か、鋭いもので刺されたような痛みが走った。思い浮かんだ考えは鮮明で、否定しようとするとまた別の、同じような言葉が思い浮かんだ。ぐらぐらと脳が揺れる。まっすぐに立っていられなくて、しゃがみ込む。頭に響くキーーンという音が、耳鳴りだと気づくのに数十秒かかった。
「そんなはず、ないだろ」
唇から血の味がした。嚙み締めたのは、なぜかわからなかった。いや、わかっていた。返す言葉もなく、にじむ血の味は、直視できなかった事実が、まぎれもなく正しいことを告げていた。
”おまえは、おまえが休まずに努力していると思える状況に、いたかっただけなんじゃないのか?”
まだ昼過ぎだというのに、体中が凍るように寒かった。
息を吸って、吐く。隣で聞こえる苦しそうな音は、自分の口から出ていた。
お前のやらなきゃならないことって、なんだ?
どこかで聞いた声がした。
自分のやらなければいけないこと。式水は最初から知っていた。
「そんなものは、」
あの日式水の前では確かにあると信じていたもの。自分でないといけない理由。
「そんなものは、無かったってことか……?」
視界がかすむ。そして、完全に暗転した。
気づくと阿里は天院にいた。正確には阿里自身を見下ろしていた。身体が小さい。まだ、14,5歳のころだろうか。喋ろうとしたが体は思うように動かなかった。自分の意志と関係なく、目の前の阿里はずんずんと廊下を進み、ほかの子供たちのいる部屋に入っていく。周囲を俯瞰しながら、これは僕の記憶だ、と思った。随分と昔の記憶で、自分でもよく思い出せないけれど、この光景があったのはおぼろげに覚えていた。走馬灯というやつだろうか。夢の中の出来事のように、不思議とすんなりと受け入れられた。
部屋の前にいる大人が、子供たち一人一人に聞いていた。
君の将来の夢は、何だい?
──ああ、言うな。
皆が学者としての研究内容や、薬者としての心構えを語る中、阿里はひとり答える。
「誰よりも頑張って、人のためになれるような人になりたいです」
そんなことを言うな。止めたくても声は届かない。たとえそれが本当に本心ではなかったとしても、それは確かにお前を縛るんだ。
阿里は目を背けようとした。すると、部屋の隅のほうで、小さな阿里に視線を向けている少年がいることに気づいた。面白がっているような、眩しいものを見るような目で阿里を見ている少年の面影は、どこか式水に似ていた。
思い出した。そっか、あいつは前にも──。
次の瞬間、真っ暗闇の空間を、阿里は漂っていた。
沈没する身体は鉛のように重く、まるで水中にいるかのように重苦しかった。
どうした、お前が願った世界だろう。
お前は本当に生き生きしていた。きっと、家族よりも、友人よりも、研究が大切だった。いや、研究は結果に過ぎない。その過程、努力をしているという状態のために、努力をしているのがお前だった。あの式水というのは本当に、お前をよく見ていたんだ。そしてあいつはお前を見限った。
声はきっと、自分の声だろう。
ああ、そうかもしれない。確かに、僕は自分自身のことを何もわかっていなかった。目の前の問題にとにかく必死に取り組むことばかり考えていた。
胸が痛む。
何が人のため、村のためだ。死ねよ偽善者。
ああ、自分は気づいていた。気づかないように、必死に自分を追い込んでいた。その間は、自分を肯定していられるから。
確かに僕は偽善者だ。
だけど。
「だけど、式水は見限ってなんかいない。」
それだけは、はっきりと言えることだった。
あのとき式水は、阿里の夢を笑わなかった。
遠い昔の日に、式水と話したことは覚えている。
「──わかんないけどさ、もしかしたら本当にやりたいことって、簡単に頑張れることじゃないことだって、あるかもしれないと思うんだ。」
当時はあまりわかっていなかったかもしれない。でもその後の言葉はずっと覚えている。
式水は門の機能を知ったとき、おそらくは真相に気づいていたのだろう。阿里は門を、そのようにしか使えなかったし、式水には式水の夢があり、理想があった。門を起動させた式水が、去るのは仕方のないことだった。もとより、遺跡の力は強制的なものだ。一度起動したら、範囲内の人間が消えるのは、時間の問題だった。
だけど式水は、最後まで阿里のことを見ていて、それでいいと言ってくれた。十分だった。
「僕がどんなに愚かで、勘違いを繰り返していたとしてもさ」
口は自由に動いた。いつしか、重苦しい感覚は無くなっていた。
「僕だけは、僕を救わなくっちゃいけないんだ」
浮遊する身体は自由で、夢は終わりに近づいていた。
意識を、かき集める。
目を開けると、仰向けに地面に倒れていた。身体は重い。夢の中とは違って、自分がもう年老いていることを思い出させられた。門は変わらずそこにあった。あたりはすっかり暗く、いつもなら気にもならない門の光が目についた。門の、光?
慌てて目を開く。
門が白く、光っていた。
瞬きをすると、そこには妻の香苗が映った。立ち上がると幼き日の天院が、近づこうと一歩踏み出すと式水が笑う姿が浮かんだ。閃くように門はその景色を変えた。
一歩近づく。少し立ち止まる。
そして阿里は、門の中に飛び込んだ。
門をくぐるその瞬間、阿里の視界ははじけ、あらゆる情報が押し寄せた。脳が情報を処理しきれなくなったのか、時間が随分とゆっくりに感じられた。瞬間は永遠のように引き延ばされ、見たことのない景色が、聞いたことのない音が、嗅いだことのない匂いが、味が、感触が、身体を叩くように通り抜けた。
それは世界の蜃気楼だった。
背の高くなった小絵が、誰かに手を振っていた。
次の瞬間には透き通るような青い空が輝いた。
すべてを飲み込むように真っ黒な海が見えた。
遠くの山で、灼熱の炎が燃え滾るのが見えた。
信じられないほど巨大な塔が砂塵の中に立っていた。
瀑布の向こうで瑠璃色の太陽が輝いた。
幾千の星々を駆け抜けて、空を進む船があった。
門の向こうに、阿里が経験しないすべての幸せと、可能性があった。
ああ、このすべてを、"選ばない"ことを選んだのだ。
阿里は理解していた。
波が引くように、次の瞬間には全ては元に戻っていた。
門を潜り抜けると、何も変わらない草原に阿里は立っていた。振り返っても、もう門は光っていなかった。門は何も返してはくれなかった。あるがまま、そこにあるだけの存在だ。
ここが自分の理想の果てで、もう、どこにも行けはしないのだ。
なのに心は晴れやかだった。
自分のしてきたことは無駄ではなかったのだと、そう思えた。その道程が間違いやエゴにまみれていて、後悔や苦悩を抱えるのだとしても、確かに自分はやりたいことをやってきたのだと、そう思えた。
思い出すのは、遠い記憶。
「──わかんないけどさ、もしかしたら本当にやりたいことって、簡単に頑張れることじゃないことだって、あるかもしれないと思うんだ。」
記憶の中の少年は、笑っていた。
「でも頑張らないより、頑張ったほうがいい。」
「そしたらきっと誰かが見てるし、そしたらいつか一人でも、前を向けるさ。」
だから、阿里は前を向いた。門を背にして、大きく息を吸い込んだ。
そして歩きだした。
この理想の世界で、理想の自分であるために。阿里はいま、最初の一歩を踏み出した。
未だ門あれかし かたなり @katanaru
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