冬の腕
冬の君は歩き続けた。
雪は変わらず降り続き、目に映る大地は白く、見上げる空は灰白か。重苦しい灰色。或いは夜の黒。
けれどもそれだけでないこともあった。
常盤木は白を纏いながらも緑を生やし、その中に一等映える椿は赤。多くが眠る中でも色彩は確かに存在し、そこに息づいているものがあることを教えてくれた。
小川の近くに冬はいた。
長い旅路。一度休息を取ることになり、木の陰にある倒木に腰掛けていた。
鴉は先を少し見てくると翔んでいった。
ふと立ち上がり、小川を覗き込む。
透き通った水はさらさらと流れていく。底は深くはなく、水草が流れのままに揺れていた。せせらぎが静寂の中に響く。
膝を折り、袖が濡れないようにしながら指先を水につける。
冷たい流れが指先を撫でていく。心地好い感触に知らずと唇は笑みを象っていく。
音がした。さくり、と音というにはあまり大きくはない。けれども重さのあるもの。
顔を上げて、音の先を追い掛ける。
向こう岸。木々の隙間から影がゆらりと現れた。
人だった。冬の装いをした細身で小さい子ども。
子どもは冬を認めると大きく目を見開いた。次いでくしゃりと顔を崩した。
「お父ちゃんを助けて!」
甲高い少年の声が響く。
冬は首を傾げる。
「あっち!早く!」
指差す先は木々の奥。事情を話すこともなく、叫ぶようなそれに冬は立ち上がる。
対岸までは五歩程度の川幅で渡る為のものはない。
裾を少し上げて、川の中に素足を入れた。浅い川底は足首を越えていく。滑らないように気を付けながら渡り、対岸の雪を踏んだ。
「こっち!」
少年は雪の中を駆け出した。
冬も慌てその背を追い掛ける。
大輪の雪が降りを増すなかで雪を踏む音がいやに響く。
幾らかの木々を抜けた先は急な斜面だった。降り積もった雪が奇妙に凹み、土が覗く。その下に雪の山があった。歪な山は白だけでなく、椿の色も含んでいる。
「お父ちゃん!」
少年がそう呼びながら雪の山に近付く。斜面から滑落したのだろう。父親らしき形は小さく身動ぎした。
「お父ちゃん!人呼んできたよ!助けてもらえるよ!」
少年は呼び掛けながら冬を指し示す。
雪に埋もれた父親は示す先をゆっくりと追い掛け、やおら顔を歪めた。
「それは……人じゃ……ない」
掠れた、息が通り抜けるような声で父親は言う。
「何言って」
「見逃して……くれ」
父親は冬を見る。
「まだ、小さい……村には、母親がいるから……まだ……連れて」
途切れ途切れの声。無理に話しているせいで呼吸は荒くなる。
腹に深々と突き刺さる枝と頭部の怪我。長くはない。
冬は困惑した面持ちのままに親子を見つめていた。
「なんでだよ。お父ちゃんを助けてくれよ!」
少年は振り返る。泣きそうなのを堪えているようで失敗したくしゃくしゃの顔だった。
雪が降る。冷たい風が吹いていく。
冬は一歩前に出た。
父親は何も言わず。否、言うこともできなくなり、瞼を持ち上げることすらもできなくなっていた。
一歩。また近付く。
少年の身体が震える。
一歩。
歯が鳴る。
一歩。
膝を折った冬はそっと少年を抱き締めた。
雪が降る。冷たい風が吹く。
動かない少年を抱き上げた。重いが抱えられないほどではない。
「村は、どちらでしょうか」
雪崩れた斜面に目をやるが、上ではない。来た道に村はなかった。ならば、川下の方だろうか。あるいはこの木々の先だろか。
思案の最中。羽を打つ音がした。そちらに顔を向ければ、木の枝に鴉が止まっていた。
「村を見かけませんでしたか?」
安堵の息を吐き、問い掛ける。
しかし、鴉は何も答えない。黒曜石の瞳はじっと冬を見つめている。
違う。冬ではない。冬の抱く子どもに向けられている。
気付いて腕の中に視線を落とす。
黒い髪に雪が積もり出していた。見える肌は真っ白で。出会った時の赤みはない。
肩越しに父親を見やる。白い雪に椿色は添えられている。動く様子はない。目も口も開くことはない。子どもと同じように見える。
鴉を見返す。
「助けて。と、請われました」
冬は告げた。
「村に母がいると。教えられました」
鴉はそれを聞いていた。
「村に帰してあげたいのです」
小さな身体を抱く腕に力が籠る。
鴉は小さく嘆息した。
「それはもう起きません」
しゃがれた声はそう言った。
どういう意味か。唐突な言葉に眉をひそめる。
「その子どもも。後ろの男も。二度と起きることはありません」
重ねて告げる鴉に今度は小さく首を傾げた。
無言の問い掛けに声が返る。
「生き物は命の炎を持ち得ます。その炎の熱を寒さは弱らせてしまう」
それは以前教えられたことだった。
「その腕の子どもに熱はない。命の炎は消えています」
数度瞬き、子どもを見下ろす。頬に落ちる雪は溶けることなく重なっていく。
再び、何故?と言葉なく問い掛ける。
「……分かりませんか?」
鴉は投げ帰す。
頬に落ちる雪。身体を抱く白い手にも同じように雪は降っている。その雪は溶けることはなく冬と少年に折り重なる。
溶けることなく。
灰白の瞳は凍り付く。微かに戦慄く唇が開く。
「眠らせて……しまった?」
震える声が静かに雪に溶けていく。
鴉は首肯するだけだった。
冬は休息をもたらす。安らかな眠りを与える。それは必要なこと。けれど、それは永遠の眠りすらももたらしてしまうもの。それを冬の君は理解していなかった。
永遠になればもう起きることはない。
「ああ……」
揺らいだ瞳は薄く膜をはり、玉を作れば頬を伝い降りていく。やがて雫は冬を離れて少年の衣に落ち、吸われて色を濃くさせた。
嗚咽が雪の中に紛れていく。
鴉は哀れむような視線を向けていた。
雪が降る。白い花が咲き乱れる。枯れた椿色に染まる男と熱を失った少年を染め上げていく。
「男の元に戻してあげなさい」
幾らかの後にしゃがれた声は言う。
「村の者が探しにくるか。見つけられなくとも春には雪は溶け、土に還りましょう。それが世の理」
静かに涙を溢していた冬は鴉を見つめて、小さく頷いた。
村には帰してあげたい。けれど、それは熱を持つ少年でなければならない。冬に抱かれ、目覚めぬ少年ではない。
振り返り、男の横に少年を横たえた。そこに新たな雪が折り重なる。
いずれ二人の体は雪の下に眠るだろう。そして、春の訪れと共に冬の寒さを吹き払い、雪を溶かしていく。決して起きることのない身体は春の温もりの下に緩やかに土に還る。
冬の残酷な眠りの次にはあたたかな春が訪れる。
手を伸ばすと雪が手のひらに舞い降り、溶けることなく降り積もる。
冬の君は雪を纏う。冬を運ぶ。休息をもたらす。
その先は?
足下に並ぶ二つの身体に小さな問いを抱く。
「参りましょう。冬の君」
呼び掛けに伸ばした手を降ろした。
「南の彼の地はもうすぐです」
ゆったりとした動きで冬は鴉を省みる。頬には涙の跡がまだ残っていた。
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