第197話「読経」

なんとかして仏の教えの正しい道に適いたいものだ。たとえ、千年の中のたった一日であるとしても。そのように思うからこそ、この私も今朝方から、この部屋の中で一心不乱に読経したのだ。しかし残念ながら、どうにもこうにも私の腹がおさまらない。だからといって私が腹を切るというわけにもいかないだろうし、かといって私の性分は簡単に治るというものでもない。それならばいっそ私はこの部屋に籠り続けようと思う。そうすればいつか誰かがその扉を開いてくれるにちがいないと信ずるからである。

というふうにして三日目を迎えたが、やはりまだ誰も来る気配がない。もうこのまま誰にも見つからず餓死してしまうのではないかと不安になってくる。だが私はそれでもいいと思っている。なぜならば、これは私にとって必要な修行なのだから。

そして四日目の朝が来た。

「おーい! だれかいるかあ!」

と、外から声が聞こえた。

私は部屋の片隅で息をひそめていた。

「おおい! だれかいねえのか?」

外の声はもう一度そう言った。私は急いで机の下に潜り込んだ。

「……いないようだな」

男の足音が遠ざかっていく。私はホッとした。だが、なぜ男はこんなところにまでやって来たのだろうか? 私は机の下から這い出て考えた。……そういえば昨日も同じようなことがあったではないか。あのときは確か男が二人いて、一人が「こっちだ!」と叫びながら走り去ったのだ。その後を追うようにしてもう一人がやってきた。するともう一人のほうは、まるで猫でも捕まえるようにして男を縛り上げてしまったのだ。そしてそのままどこかへ連れていってしまった。私はその一部始終を見て呆然としていたのだが、そのときの男たちの言葉を聞いてハッとした。

「おい、ここに若い坊主がいるぞ!」

「よし、これで二人目だ」

と、彼らは言っていたような気がする。ということは、彼らもまた僧侶であり、しかも私を探しているということなのか? そうだとすれば大変である。早くここから逃げ出さなければ……。

そこで私は思い切って扉を押し開けてみた。

「あっ!」

と、声を上げたのは私ではなく、外で見張りをしていたはずの二人の男だった。彼らは私の姿を見て驚いた表情を浮かべたが、すぐに気を取り直したらしく、

「お前は何者だ!?」

と訊ねてきた。

「わたくしはこの寺の住職ですが……」

「何だと?……ではお前があの大僧正様か?」

「はい、左様にございます」

「なるほど、それは失礼をした。……ところで、あなたはここで何をなさっておられたのですかな?」

「実は、先程申しましたように、ここ数日の間ずっと読経をしておりまして……」

「ほう、それで?」

「はい。読経しているうちに、ふと思ったことがあります。果たして自分は本当にこの仏法が正しいものであるかどうかということを真剣に考え始めたのです。すると、今までは気にならなかったことが急に気になってきたり、あるいは自分がいかに愚かであるかということもわかってきたりしたのです。そうしたら、どうしても自分の過ちを悔い改めずにはいられなくなりまして、こうして読経をしている次第です」

「…………」

「つまり、自分にはまだまだ未熟なところがあるのだということを痛感させられたということです。そのようなことに気づいていなかったというところからも考えてみても、やっぱり自分はまだ修行不足であったのだということを感じています。だからといって簡単に許してもらうわけにはいきませんが、どうか少しでも仏の教えに近づくことができるよう努力したいと思います」

私がそう言い終わると、二人の僧侶たちはしばらく黙ったまま顔を見合わせていたが、その場を立ち去った。

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