第148話「目が早い」
素早く気がついて、そちらに関心を向ける。また、すぐに見抜く。目が早い。これは──。あの時の男だ。この女といっしょにいた、あの男だ。女は、自分の手を引いて歩いていた男のほうを振り返った。男は少し離れた場所に立っていた。女が振り返ると、それに気づいたように歩み寄ってくる。何か話し掛けているようだった。女も答えているようだ。女は首を振っている。男の言葉にうなずいている。だが、その表情には困惑の色がありありとしている。そして、やがて女の視線が自分の方に向けられた時、わたしはその瞳の中に、はっきりした恐怖の影を見たような気がした。男が、何か言っている。女がこちらを見る。わたしは、二人の会話の内容を想像してみる。女が答える。男が言う。女が首を振る。男が言う。女が首を振る。男が言う。わたしは、男の唇の動きを読んでみる。何と言っているのかわからない。しかし、どうやら女は、男の言葉をはっきりと拒絶しているらしい。わたしは、さらに二人の様子を凝視しつづける。二人は、そのまましばらく話をしていた。それから女は、ゆっくりと歩き出した。わたしはあとをつける。女は自分の部屋へ戻って行く。わたしもその部屋の中まで入って行ったわけではない。玄関の前で引き返して、そこで様子を窺っていただけだ。だから、女の部屋の中で二人がどんなふうにして別れたかは知らない。ただ、男がひどく落胆した表情で帰って行く姿だけが印象に残っている。
翌日、昼近くになって、わたしは再びあのアパートを訪ねた。昨日と同じ時刻に行ってみたのだ。ところが、そこにはもう誰もいなかった。管理人の老人が出てきて言った。
「昨日の夕方遅くに、出て行きましたよ。お知り合いですか? いや、そういうわけじゃないんですけどね……」
女の姿はなかった。
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