第80話「滞言滞句」
「言葉や文句にとらわれるな。自分の思い通りに行動しろ」
そう言って、彼はまた歩き出した。その背中に、思わず問いかける。
「……それって、どうやったらできるの?」
彼は振り向いた。そして答えた。
「自分を信じろ」
「……自分を信じる」
「そうだ。お前はもう知っているはずだぞ」
それは、私がいつも自分に言い聞かせている言葉だ。私は私を信じる。だから私は大丈夫。
「じゃあな」
そう言って、彼は再び歩き出す。彼の姿はすぐに人ごみの中に消えてしまった。私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
ふと気付くと、手の中にあったはずの紙袋がなくなっていた。慌てて辺りを見回すと、少し離れたところで女の子が一人、こちらに向かって手を振っている。彼女は駆け寄ってくると、「これ落としたよー」と言って紙袋を差し出してきた。礼を言いながら受け取る。
「ありがとう」
「いえいえ。お姉さんも大変だねー」
彼女は笑顔で言う。何のことだろうと思っていると、彼女はさらに続けた。
「でもまあ、頑張って」
そうして彼女は踵を返すと、軽い足取りで走り去って行った。
その後姿を見送りながら、さっきの言葉を思い出す。
『お前はもう知っているはずだぞ』……ああ、確かに知っていた。
私はもう分かっているのだ。あの時も今も、私の胸の中には同じ言葉がある。私は、私を信じる。
その日の夜。私は、父の部屋を訪ねていた。父は机の前に座り、本を読んでいるところだった。
ノックの音に気付いた父が顔を上げ、「どうしたんだい?」と言う。私は彼に近づいて言った。
「お父さん。話したいことがあるんだけど」
すると父は本を閉じ、微笑んでこう言った。
「なんだい? そんな改まって」
私は深呼吸してから言う。
「私ね、決めたの。この家を出るわ」
「えっ!?」
驚いた表情になる父。予想通りの反応に、私は笑みを浮かべそうになる。だがすぐに真顔になり、真剣な口調で言う。
「前から考えてたことだけど、今日ようやく決心がついたの。それで、まずは父さんに相談しようと思って……駄目かな?」
「そ、それは構わないけど……どうして急に?」
「別に理由なんてないよ。ただ、いつまでもここにいるわけにはいかないなって思っただけ」
「…………」
父は黙り込んでしまった。私は続ける。
「もちろん、ずっとここに住むつもりはないから安心して。仕事を見つけたらちゃんと出て行くし、それにほら、家賃とかいろいろあるじゃない? そういうお金の問題もあるしさ」
「いや、そのことなら心配はいらないよ」
「へ?」
予想外の返事だったので変な声が出た。父は落ち着いた様子で話す。
「実は最近、ちょっとまとまった収入があってね。そのおかげで、今月いっぱいは余裕を持って暮らせるはずさ」
「そうなんだ……。ごめんなさい、全然知らなかった」
「気にすることはないよ。まだ誰にも言っていないことだからね」
「……」
「それにしても、本当に突然だね。何かあったのかい?」
「ううん、特に理由はないよ。強いて言えば、自立しようと思ったっていうか」
「自立?」
「そう。このままだと甘えてばかりだし、それに私ももう子供じゃないもの。いつまでも親と一緒に暮らすことはできないでしょう?」
自分で言っていて違和感を覚えた。まるで大人ぶった子供の台詞みたいだ。でも他に言いようがない。
「そうかもしれないね」
父も同じことを思ったのか、苦笑いしながらそう答える。それから彼は腕組みをして、少し考えるような仕草をした。
「分かった。じゃあ来月から一人暮らしを始めるといい。ただし条件がある」
「条件?」
「ここから通える範囲の仕事を探すこと。それと、必ず週に一度は帰ってくるようにすること」
「えー!」
思わず不満の声を上げる。が、よく考えれば当たり前の条件だ。私はため息をつく。
「やっぱりそれぐらいはしないと駄目だよね」
「当然だよ」
父は真面目な顔をしている。
「お前はもう少し、自分の立場というものを考えるべきだ。もし何か困ったことがあったとしても、一人で対処できるとは思わない方がいい。誰かが助けてくれるとは限らないんだぞ」
「……」
「お前が家を出た後のことは心配しないでいい。今まで通りやっていけるはずだからね。それより今はお前自身のことを考えなさい」「……はい」
私は小さく肩を落とした。父は立ち上がり、私の頭を撫でた。
「大丈夫。お前はしっかり者だから、きっとうまくやれるさ」
「そうね。頑張ってみる」
私は無理矢理笑顔を作った。
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