あまりよく覚えていないのだけど、わたしは激痛の中、意識を失った。次に目を覚ましたとき、わたしは病院のベッドの上だった。


 具体的な病名については触れないけれど、わたしは何日も意識不明で、死んでいてもおかしくなかったことを知った。全快するまでには長い時間がかかることも聞かされた。


 わたしは仕事を辞めた。辞めさせられたといったほうが正しいかもしれない。散々わたしの退職を阻みながら、働けないなるや簡単に切り捨てられた。


 それでもあの会社と縁を切れたのは、よかったのだと思う。夫は好きなことでもしながらゆっくりしたらいいと言ってくれた。わたしが童話作家の夢を捨てきれずに、少しずつ書き続けているのを知ってくれていた。


 入院生活を経て、夫の言葉通り自宅でゆっくりと過ごしているときだった。のぞみから連絡がきたのは。


 のぞみは昔から唐突に連絡をしてきた。最初は大学の頃、明日旅行でそっちに行くから会えない?というものだった。わたしは大学で上京していたのでそこにはいないと断った。


 そんな調子でたまに声をかけられたり、一方的に近況を報告されたりしていた。お互いに往復を求めないやりとりは気楽だった。結局会えたためしはなかったけど、おかげで今でもやりとりは続いていた。


 社畜から解放されたわたしは、のぞみからの突然の誘いにも乗ることができた。久しぶりに会ったのぞみは相変わらず笑顔が明るく、あまり化粧っ気はなかった。


 のぞみがアルバイトをしては海外に行くような生活をしていたのは知っていた。だからむしろ今、日本にいることも、実家に戻っていたことも意外だった。


「タイで一年くらい暮らしてたんだけどさ、実家戻ったら甥っ子産まれてて。とりあえず顔も見れたし、今度は四国あたりに住もうかなと思ってて」


 健康的な日焼けをしたのぞみは、あっけらかんと言う。


「見てよ、このふくふくした顔」


 差し出された写真にはおいしそうな料理が写っていて、首を傾げると、間違えたといってぷにぷにした赤ちゃんの写真に切り替えた。


「かわいいね、ぷくぷく。でもごはんもおいしそう」


 わたしが笑うと、当時の記憶でも辿れるようなざっくりとした場所と、お店の名前を教えてくれた。家族みんなで行ったらしい。赤ちゃん連れでも、すごく感じよく対応してくれたと言う。


「ゆきのん入院してたなんて聞いたからびっくりしたけど、姿みたら安心したよ。だんなさんもすごくいい人そう」


「うん。ほんとわたしにはもったいないくらい。夫のおかげだなって思う」


「もう、のろけて! 今度だんなさんと旅行でもしてのんびりしてみたら? のんびりにおすすめのとこ教えるからさ」


 のぞみとの時間は、純粋に楽しかった。気楽で、それでいて元気をわけてもらえた。後日、熱のこもった旅のおすすめリストを本当に送ってきたのもおかしかった。


 のぞみのおすすめレポートを眺めながら、ふとのぞみが行ったお店を検索してみた。懐かしさや感傷というほどのものではなかったと思う。


 そのお店のホームページを見ていて、思わず声が漏れた。


 スタッフが仲よさそうに並んでいた写真が、記憶の面影と重なった。


 十五年分大人びて、髪もショートになっていたけれど、すぐに佳央だと思った。どこがと言われると答えられないけれど、直感的に佳央だと感じた。


 次の瞬間、佳央に会いたいという強い衝動が生まれていた。会わなければいけないと思った。


 自宅でゆっくりと過ごしていたわたしは、小さな物語を紡いで過ごしていた。書いた小説を賞に応募し始めたが、結果は芳しくなかった。


 投稿を繰り返しながら、誰に向けて書いているのか、何を伝えたいのか、わからなくなっていた。賞のために、受けがよいものを選んで掬っているような感覚すらあった。


 だから佳央を見つけた瞬間、あのきらきらした瞳が、楽しそうに耳を傾けてくれる顔がよみがえって、会いたいと思った。会ったら何か変わる気がした。


 夫はわたしが病気になってから過保護になった。当たり前といえばそうなのだけど、近所への買い物や散歩ですら、わたしが一人で行こうとするととても心配する。


 近県で日帰りで行ける距離だとしても、わたしが一人で出かけることを許してくれるとは思えなかった。佳央に会いたい理由もうまく説明できないし、会った後のこともうまく話せる気がしなかった。


 ちょうど夫が出張で二日留守にする日があったので、その日に出かけることにした。


 夫が出かけた後にいそいそと準備をして出かけた。最寄りの駅で降りた後のルートを何度も見直して緊張をごまかしていた。


 久しぶりに降り立った地には、そこまでの感慨もなく、十五年前と比べられるほどの記憶ももちあわせていなかった。


 ただこれから佳央に会うのかと思うと、緊張で手が震えた。あくまで偶然を装うつもりだけど、うまくできるか不安だった。


 お店に入って佳央を見つけたとき、言いようのない懐かしさがこみあげた。


 すらりと背が高く、中性的な雰囲気は変わっていなかった。昔ポニーテールだった髪はショートカットになっていたけれど、それがかえって女性らしくてきれいだった。


 白いシャツに黒いパンツというシンプルな格好がよく似合っていて、フロアを颯爽と動き回る姿は昔と雰囲気が違って見えた。


 少女だった佳央の少年ぽさにも憧れていたけれど、大人になった佳央の美しさもうらやましかった。


 わたしは佳央の様子をこっそりとうかがいながら、声をかけるタイミングをはかっていた。当たり前だけど、佳央がわたしに気づく様子はなく、忙しそうに動き回っていた。

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