佳央以外に、わたしはのぞみに転校することを話した。それは打ち明けたいというよりは、たまたまタイミングがあったということにつきる。


 のぞみは週一の部活にさえ出ないこともあり、会うことは稀だった。だからといって幽霊部員というわけでもないらしく、どうやら自由活動の日に出ていることが多いらしかった。


 のぞみに会ったその日は全体活動の日ではなく、たまたま自由参加の日に部活に行っただけだった。ぽつぽつといる部員の中に、のぞみもいた。


 部活でのぞみに遭遇したときは、だいたいのぞみの隣で作業をして、途中まで一緒に帰る流れになっていた。


 わたしの噂を知っているのかいないのか、のぞみの態度は最初と少しも変わらず、話題にすることもなかった。様子を窺うような素振りもないおおらかさが心地よかった。


「もしクラス替えで同じクラスになったら、もう教科書借りられないね」


 同じクラスになれたらいいね、ではないのがのぞみらしい。たしかにこれくらいの距離感がちょうどよいのかもしれない。


「一緒のクラスにはなれないけど、教科書も貸してあげられないなあ。わたし、転校するんだ」


 自然に言葉がでた。のぞみは目をぱちぱちさせた。


「そうなの? いつ?」


「終業式終わったら。お父さんはもう、先に行ってて。二年生からは新しい学校なんだ」


「知らなかった。みんな知ってたの?」


「ううん、先生は知ってるけど、クラスには黙っててもらってて。佳央ちゃんには話したけど。ほかに話したの、太田さんが初めて」


 のぞみは自転車の鍵を開けると、すでに薄暗い空を見上げた。


「残念だなあ。私、ゆきのんの描く絵、好きだったんだよね。淡い色づかいでさ。前に描いてた空の絵、淡い色あいと雲のかんじ、実はめっちゃいいなあって思って見てたんだ」


 以前部活中に描いていた空の水彩画は、自分でも気にいっている作品だった。今みたいな薄暗い灰色の空ではなく、薄い綿菓子のような雲が浮かんだ、秋晴れの空の絵だった。


 自分の絵か、おしゃべりかといったかんじののぞみが、わたしの作品を見ていたことは驚きだったが、純粋に嬉しかった。


「そうだ、メアド教えてよ」


 言葉を噛みしめて黙ったままのわたしに構うことなく、のぞみは唐突に言う。自転車のカゴの中からがさがさと紙とペンを出してサドルを台代わりに書きつけると、それをわたしにさしだしてきた。


「これ私の番号とメアド。あとでメールちょうだい」


 渡されたメモ帳はかわいいとも言えなくもない、変な河童の柄で、独特のセンスがのぞみらしい。わたしは頷いてそれを受けとった。


 携帯を持っていなかった佳央には言っていなかったが、ひと月くらい前に携帯を持たされたばかりだった。


 のぞみはここで唯一、連絡先を交換した相手になった。


 佳央はきっと知りたがったと思うけど、わたしは結局言わなかった。単純に、佳央が携帯を持っていないからではなく、どこかわたしは避けていたのかもしれない。


 でも、もし教えていたとしても、案外連絡は来なかったのではないかとも思う。年賀状以外の手紙が佳央から届くこともなかったから。


 最後の日も、特別なことは何もなかった。


 わたしと佳央は揃って自転車置き場に向かい、少しだけ名残惜しい雰囲気の中、お別れの言葉を告げて別れた。


 明日が変わらず続いていきそうな、変わりのないバイバイの後、自転車をこぎだした。一度も振り返ることなく。


 佳央はわたしのことを見ていて、振り返るのを待っているような気がした。だから後ろを見れなかった。佳央がすがるような目をしていたら、たえられない気がした。


 佳央に伝えた気持ちに嘘はなくて、あの日声をかけてくれたこと、わたしの話を目を輝かせて聴いてくれたこと、かけがえのない思い出としてずっと忘れないと思った。


 このコミュニティに残る佳央が、誰かとまた関係を築いていけるのか、心配にならないわけがない。佳央を置いていくような後ろめたさもあったけれど、わたしにはどうすることもできなかった。


 だから、振り返ることなく別れた。



   *   *   *



 わたしは新しい環境に慣れていくことに必死だった。なんとか友だちもできたけれど、知らない土地や人に馴染んでいくことは簡単ではない。


 過去を絶ち切るつもりはないけれど、振り返る暇はなかった。佳央から手紙がくることはなく、わたしからも送らなかった。最初の年には送りあった年賀状も、喪中を境に途絶えた。それ以来、佳央とは連絡をとっていなかった。


 佳央のことを知ったのは、本当に偶然だった。


 大学を卒業して就職した会社はブラックとまでは言わないけれど、常にピリピリしていた。わたしと同僚は、代わる代わるトイレに行ってはこっそり泣いたことも少なくなかった。


 同僚は先に転職し、残されたわたしは、逃げるのが得意な後輩に仕事を押しつけられながら堪える日々だった。


 つきあっていた彼にプロポーズされて結婚することになったとき、会社を辞めようと思っていた。結婚しても仕事は続ける方向で考えてはいたけれど、この会社で働けば生活が破綻するのは目に見えていた。


 つきあっていた当時からわたしの様子を見ていた彼も、会社を辞めた上でゆっくり次を探せばいいと言ってくれていた。だけど、仕事は辞められなかった。


 退職の意向を上司に伝えても、のらりくらりとかわされ、うやむやにされ、ときには新しい人が入るまでと言い含められた。そもそも社員を補充する気など、ないように見えた。


 会社の意向を聞く必要などない、と決意をした矢先のことだった。わたしが倒れたのは。

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