それでね、祈るところに移動したんだけど、それは最初に入らなかった左側の扉だったの。扉を開けると教会みたいなかんじで。


 天井が高くて、ステンドグラスになっているみたいだった。綺麗だったけど、色彩があったらどんなに綺麗だったんだろうって思った。


 祭壇みたいなところの中央には、女性の像があって、信仰の対象らしくて。ステンドグラスからの光が、ちょうど部屋の中央あたりに当たっていて、おじいさんは『ここで祈りを捧げてください』って。


『我々は祈りの場にいることは許されませんので、外におります。時間になりましたら、また参りますので』


 そう言って深く一礼してから、出てってしまったの。


 ぽつんと一人残されてどうしたらいいかわからなかったけど、この場所があの人たちにはすごく神聖なところだっていうことはすごく感じて。


 祈り方なんて知らないけど、やってみようって。どうかこの世界を救ってくださいってお願いしようって思って。こう、両手を胸の前で合わせて、目を閉じたの。


 すーって頭の中が清らかになっていくかんじがしたんだ」


 昔みたいにおっとりとした口調で話していた雪乃は、ふうと息をついて紅茶を一口飲んだ。ふわふわした心地で話を聞いていた私も、ひと呼吸して雪乃の話の続きを待った。


 だけど雪乃は今度はパクリとケーキを一口。その後も続きを話し始める様子がない。


「雪乃ちゃん? 続きは? 祈りを捧げて世界を浄化できたの?」


 待ちきれなくて、ついつい前のめりに訊いてしまう。私はすでに、雪乃の甘い魔法にかかっている。


「実はね、わからないんだ」

 雪乃は微苦笑した。


「すーってなったとき、なんかね体が浮くようなかんじがしてね、そのまま目が覚めたんだ。だから、あの世界がどうなったかわからないの」


 異世界に転生したと言いながらも、雪乃は目が覚めたと言った。それが夢だったということは、雪乃も認識しているらしい。


 きゅっと眉根を寄せる雪乃には守ってあげたくなるような儚さがあった。雪乃はまた、あの世界に戻りたいと思っているのだろうか。


「夢を見ていた、といえばもちろんそうなんだけど。でもわたしはあそこがはざまみたいなところだった気がしていて」


「はざま?」


「うん。あの世とこの世の境界というか。三途の川みたいな場所っていうのかな。もしもあのまま祈り続けていたら、本当に転生して、ここにはもう、わたしはいなかったかもしれないって」


 もし、戻ってこれなかったら死んでいた。雪乃はそう思っているらしかった。


「ごめんね、変なこと言って。夢だったってわかってるんだけど」


 雪乃は慌てて苦笑しながら否定した。変な反応をしたつもりはなかったけど、私が困っていると思ったのかもしれない。


「ううん、そんなことないよ。きっと雪乃ちゃんはちゃんとこっちの世界に戻ってこれたんだよ。雪乃ちゃん、昔から不思議な体験、よくしてたもんね」


「え?」


 雪乃はきょとんとして首を傾げた。なんのことかまったくわからないようだった。


 私は焦った。あんなにもずっと話を聞いてきたのに、あんなにも雪乃は話していたというのに。自分のついた嘘を、覚えていないのだろうか。


「ほら、狐のお祭りに遭遇したこととか、道に迷って不思議なおじいさんに会ったこととか、話してくれたでしょ?」


 雪乃はゆっくりと瞬きをしてから頷いた。


「うん、そっか。そうだね」


 ふわりと微笑んだ雪乃は、なぜか胸がざわつくほど魅力的だった。美しくて、目が離せなかった。


 心を奪われると同時に、怖いとも思った。忘れていた自分の嘘さえも、自身に飲みこんだように思えた。


 久しぶりに会ったこの友人が、どこか違うところへ行ってしまったような感覚になった。でももしかしたら、最初から同じところにはいなかったのかもしれない。


 巷で異世界転生が流行っているのはきっと、どこか別の世界に行きたい、特別な何者かになりたいという願望を誰しも持っているからではないだろうか。


 雪乃も何か特別な存在になりたかったのかもしれない。転生して聖女になる夢も、そんな想いのあらわれだったのではないか。


 雪乃の見ている世界は私とは相容れないように思えた。


 私は三分の一ほど残っていたコーヒーを飲み干した。


「そろそろ戻らないと」


 私は立ち上がった。雪乃のケーキはまだ半分くらい残っていた。


「ごめんね、先に出るね。声かけてくれて嬉しかった」


「わたしのほうこそ、急だったのに時間つくってくれてありがとう。お店の方にもお礼を伝えてね」


「うん、伝えておく」


 私が頷くと、雪乃は微笑んだ。私の好きなやわらかな笑顔だった。


「じゃあね」


「うん、バイバイ」


 私たちはお互いに手を振って別れた。次の日までの別れのように軽やかで、まるであの日の別れみたいだった。


 あの日、雪乃がそうだったように、私も一度も振り返らなかった。もしかしたら雪乃は、私が見えなくなるまで見ているのかもしれない。


 私たちはもう昔とは違って、簡単に連絡する手段を持っている。あの頃、簡単に途絶えてしまったつながりを、今ならつなぎなおすことは容易い。


 だけど私は、雪乃に連絡先を聞こうとはしなかった。雪乃も同じだった。


 転生した夢の話をした雪乃の瞳はどこか違うところに向いていて、私たちはもう、たとえ一緒にいたとしても別のところにいるみたいだった。


 あの頃あんなにも近くにいて、同じ世界にいると信じていた。でも今では、心も距離も随分離れてしいることに気づいてしまった。そのことを、不思議と悲しいとも寂しいとも思わなかった。


 ただ雪乃のついた甘やかな嘘を、決して忘れることはないだろう。






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