第3話
車から降りる時にウィリスさんから渡されたこの家の鍵を見つめる。緊張からか、手が震えた。
いつもの癖で左肩の辺りで緩く縛って前に垂らしてある髪を触ってから、1度深呼吸をして鍵穴に鍵を差し込む。ガチャリと重々しい音が響いた。
扉を開けるとそこは果てしない暗闇だった。ウィリスさんが言っていたレイモンドは光が駄目という意味がよく分かる。そっとランプのスイッチを入れた。
後ろ手にドアを閉めると私の持っている明かり以外の光源が完全に無くなる。レイモンドの名前を呼ぼうとしたその時。
「アリス!」
どこからか現れた大きな人影に抱き締められた。聞いたことのない声で名前を呼ばれ、きつく抱き締められているこの状況に思考が着いていかないけども。
この家にいるのは彼だけなのだ。
「……エリントンさん?」
恐る恐るそう呼びかけると彼の体がびくりと揺れた。私の体に回る腕の力がより強くなって、首筋に顔が押しつけられる。
「ア、アリス、どうしてそんな風に俺を呼ぶの?俺があまりにもアリスを迎えに行かなかったから怒っているの??ねぇ、ごめんね、すぐに君を取り返そうと思ったんだけど邪魔が入ってできなかったんだ。アリス、アリス怒らないで」
ぐりぐりと頬を寄せられることや、彼の口から飛び出る言葉にパニックになる。怒るって私が?取り返すって、何?とりあえず、返事、返事をしなくちゃ。
「ま、待って、お願い落ち着いて!私怒ってなんかいないわ」
「それじゃあ、俺の名前を呼んで。昔みたいに、アリスだけの名前で」
なんだか泣きたくなってきた。もう二度と口にはしないだろうと思っていた名前。
「レイ」
その途端、彼――レイは幸せそうに溜め息を吐いてうん、と言った。
「ねぇ、もう一回呼んでよ。ううん。一回じゃ足りないから何度も言って。俺はアリスのものだって俺の中に刻みつけて」
混乱でレイの言葉はあまり良く理解出来なかったけれど、レイは長い間他人と会っていなかったらしい。だから名前を呼ばれることが本当に嬉しいのだろう。私は何度も彼の名前を呟いて、その度にレイは幸せの吐息を溢した。
▽
「暗くてごめんね。見えにくいだろ」
「良いのよ。レイは光が苦手なんでしょう?」
何故かレイと手を繋ぎながら玄関からリビングルームへ移動する。私はこの家の造りを知らないからレイに案内してもらわないと分からないのだけど。
レイの足が止まった。
「なんでそれ知ってるの?誰に聞いたの」
「え、ウィリスさんよ……。私、彼から電話をもらって、それでレイに会いに来たの」
何故か少し冷たくなったレイの声色に驚きながらも急いで答える。レイは何かぶつぶつ言いながら歩くのを再開した。
「ここがリビングだよ」
そこにはふかふかそうな二人掛けのソファーと簡易的なテーブル、それから大きな暖炉があった。テーブルの真ん中には私が持っているのと同じようなランプが置いてある。
レイは私をソファーの前まで連れていくと、先に自分が座ってその膝の上に私を乗せた。
「ちょ、ちょっとレイ!何してっ……!」
「だってこの方がアリスを抱き締めやすいから」
レイは少し、いやかなりスキンシップが激しいのかもしれない。人肌恋しかったのかしら。でも恥ずかしいものは恥ずかしいわ……。
「アリス、顔を良く見せて」
薄い明かりの中、レイの手が私の顔の輪郭をなぞる。初めて見た今のレイの顔は記憶にあるものの面影を残しながらも全く違うものだった。
昔から整った顔をしていたけれど、本当に神様が特別美しくつくったのではと思うほど綺麗な顔だ。ランプのオレンジの光で正確な色は分からないけれど、昔と変わっていなかったら髪色はグレーで、確か瞳は青灰色だったはず。女の子みたいな顔だったけど、今は男性らしさの中に大人の色気のようなものもあって見つめられると羞恥心からそわそわしてしまう。でも目の下の隈が凄いわ。眠れていないのかしら。
「レイ、随分変わったわね。全然私の知らない人みたい」
「そう?俺はなにも変わってないよ。なんにもね……。アリスは綺麗になった」
「え!?……あ、ありがとう」
「うん。だけど俺、すぐに分かったよアリスのこと。アリスの色だったから」
アリスの色。その言葉も久し振りに聞いた。
産まれたときから共感覚を持っていたレイは目にする言葉、耳にする音に色が付いているのだ。例えば、Aは赤、Bは黄色、Cは水色、という風に。
だけど、私が話す言葉や書く文字、私の出す音などとにかく私が産み出す全てのものはある一色にしかならないらしい。それは他の人には起こらないらしく、レイはその一色を『アリスの色』と言っていた。
レイは私を抱き締めたまま昔話を始め、結局私たちはそのまま2時間くらい話をしてしまった。
不意にウィリスさんが外で待っていることを思い出す。
「大変!レイ、私帰らなくちゃ。ウィリスさんを待たせてるし」
そう言ってレイの膝から降りようとするが、彼がそれを許してくれない。
「どうして?帰らなくたってここにいれば良い。ここで暮らしてよ!俺、アリスのための部屋だって用意してあるんだよ」
「レイ。気持ちは嬉しいけど私明日も仕事だもの。帰らないと」
「……嫌だ。やっとアリスに会えたのに!また俺を1人にするの?嫌だよアリス、行かないで」
レイは心底悲しそうな声でそう言うと私の胸に顔を埋める。流石に罪悪感で心が軋んできた。それでも帰らない訳にはいかない。
「それじゃ、こうしましょ。明日もここに来るわ。ね、レイ。駄目かしら」
子どもをあやす母親のような気持ちになってくる。実際、レイは大きな子どもみたいなものだ。
「……分かった。絶対来てよ。アリス、俺と約束したからね。破ったらどうなるか分かんないよ」
「大丈夫よ、来るから」
宥めすかしてなんとか玄関まで戻ることができた。私より背の高いレイが本当に新鮮だ。最後に会ったときはほぼ同じくらいの身長だったから。
「また明日ね、レイ」
「うん。おやすみアリス。良い夢を」
レイはもう一度私を抱き締めると妖しく笑った。
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