07‐04「魔女と少女とおまじない」 第七話完
PCルームでツェツェーリアが一人、作業をしている。職員にテーブル配置を変えさせたあと、特殊な機材の設置だけは自分でやっている。
一灯だけつけられた暗い室内に、カチャカチャという金属音だけが響く。
彼女の手にあるのは装着者の体に電流を流す装置。普段、彼女が生徒たちにつけているようなおもちゃのような代物ではない。人間の器官を焼き尽くすための特別なものだ。
ツェツェーリアはギラギラした目で丁寧にそれを仕上げていた。
彼女の装着したフェイスグラスに通信が入る。遠距離からの映像通信。彼女の眼前に等身大の人物が立体映像で現れる。
「シシー、待たせたね」
「ガブリイル兄様!」
30代に手が届きそうなツェツェーリアが少女のような声を上げた。
背の高い痩身な男、くせ毛が強くメガネをしている。ツェツェーリアとよく似た、白く美しい男性だった。
「ゴルボヴァ設計局の再始動は予定通り進んでいる。君が来るのを楽しみにしているよ、シシー」
「兄様、お待たせしてごめんなさい。こちらの仕事が片付き次第、すぐに向かいますわ。でも、やっと始まるのですね、私達の復讐戦が」
「ああ、前回は失敗し、君を苦しめてしまった。その償いをさせてもらうよ」
「兄様!そんな事は言わないで!あの失敗は私達の失敗です。今度はそんなことにはなりません」
「我々の失敗でハッカー大国であった我が国の威信は地に落ちた。大規模BANをくらいチータロージェンの開発に出遅れてしまった。だが、その失敗は成功への礎となった。現在までに数十の実験機関を生贄に捧げ、なにがBAN対象であるか、我々は調べ上げた」
ツェツェーリアの兄、ガブリイルもまた、妹と同じように高まる感情を抑えられない性質なようだ。語るだけで高揚し、肩を震わせている。
「ええ!そしてついにOKBー696は復活いたします。中央も我々の価値をようやく認めたということですわ」
「ああ、ああぁ。妹よ。シシーよ。ついに来たぞ。あの連中に、そしてAIどもに、鉄槌をくれてやる時が」
立体映像越しでも兄妹の共感は高まった。
兄は、かわいい妹の手元に改めて注目した。
「おお、シシー!何をしていると思ったら、またかい?」
「ええ、お兄様。この学校にも素敵な子がいるの。レーノチカといって、私ととっても仲良しなのよ。ゲームも私くらい上手なの!」
「それは素敵だね。じゃあ、焼くのかい?」
「ええ、もちろんよ」
妹が兄に向かって手作りの花の冠を見せるかのように、拷問器具を見せるツェツェーリア。
それを見た兄は、少し肩を落とし。
「ああ、妹よ、それでは駄目だ。面白くない」
「?」
「もう一つ用意しなくては、そして君もつけるんだ。そうすれば、ゲームはもっと面白くなる」
「え?…ええ!そうですねお兄様!公平でなければゲームはつまらないです!」
「ああ、かわいい妹よ。公平さと慈悲を知る者よ。その可愛い少女にも慈悲を与えなさい。勝てるかもという希望を与えなさい。そうすれば君は、瞳から流れる熱い熱湯の涙を味わえる」
眼鏡の奥のガブリイルの左目が見えた。
左のこめかみにやけど跡が走り、その眼球は黒くしなびている。瞳は茶色の穴であり、どんな光にも一切反応しない。
ガブリイルは、その顔面の穴と化した左目と潤沢に潤った右の目で、妹ツェツェーリアを優しく見つめていた。
レナータ・エルメエヴナ・トゥマーノヴァは16歳の少女である。IT分野(ハッキング・プログラム)とゲームに関して特異な才能を有するとはいえ、独り立ちする事が可能な程ではない。特殊な分野に特化しすぎた。
一般的なスパイ技術も取得しているが国内諜報戦技術であり国外で運用できる技術ではなかった。
「われながら器用貧乏だな」
料理は芋料理しかできない。これも特化した技能の一つだ。
彼女は今、悩んでいる。
人間、誰しも悩んでいる。悩みは脳にフタをする。それがどんな大きさのフタであっても人はそのフタの圧力に苦しめられる。
小さいフタは髪の毛のツヤであったり、爪の形であったり。今月のお小遣いでの使いみち等々。
大きいフタは、受験、就職、結婚等々、
人間は脳を押さえつけるフタを無視はできない。はずれない限り他の事など考えられない。
レナータを押さえつけているフタは、他の人よりも複雑で大きかった。
「ツェツェーリアとの戦い」と
「スカウトへの対応」
この2つの問題が同じ日に来たのだ。
ツェツェーリアとの戦いには勝つしかない。
逃げることはアクサナの目を失うことになる。それはできない。
スカウトへの対応は…まだ信用できない。
昨日の自分は、突然の事に舞い上がっていたと、レナータは反省していた。
あからさまに怪しい者の話にほいほいと乗りそうになってしまった自分を恥じた。
「もう少し慎重に考えなければ」
だが時間はない。
スカウトへの返事は明けて、今日中に決めなければ流れてしまう。
そしてツェツェーリアとの戦いは今日の夜9時だ。
スカウトに対して自分は「信頼に値する行為」を要求できることになっている。
「信頼に値する行為ってなんだよ」
自分で要求しておきながら、その適当さをなじった。
「なにをされたら、自分は彼らの事を信頼できる?」
そんなものはない。それは分かっている。ロシアの大統領がいきなり現れて、自分に恩赦と外国のパスポートを渡してくれる事か?
子供が夢想するにしてもバカバカしい。
ないのだ、信頼に値する行為など。それも他国の戦士をスカウトして国外逃亡させるという事の中に、信頼など発生しない。
「どこかで、自分で決めて飛び込むしかない」
さらに時間制限の問題もある。
「信頼の担保」を要求したとしてもそれが届けられるまでに、あるいは了承されるまでの時間が読めない。頼んで即日にくる出前サービスでもあるまい。その前にレナータが左目を失ったら、その傷物をまだスカウトしたいと思うだろうか?
逃げる=アクサナの目が無くなる。戦う=左目を失い戦士としての価値を失う。勝利する=左目は無事だが、チートツールの事をツェツェーリアはバラすだろう。軍が絡み国外脱出が困難になる可能性大。さらに彼女が悪辣な行為に走ることも考えられる。スカウト=いまだ信頼できないが、タイムリミットが近い…。
二つの窮地が頭の中で衝突し、レナータは思考の沼に落ちてしまっていた。いまだ若い彼女の脳内に、混乱を解きほぐす知識のナイフはなく、絡み続ける限り絡み続けた。
気がつくと裏庭のベンチに座っていて、空が赤くなっていた。
決闘当日の朝から、レナータは悩み続けて、すでに夕方になっていた。
「時間がない!」
今日の全ての授業をサボっていた。当然、出る気などはなかったが。教師たちが何も言わなかったのは、校長から触れるなとの命令でも出ていたのか。
アクサナは授業に真面目に出て忙しかったのか、今日は一度も顔を合わさなかった。それはレナータにとって幸運だった。今、彼女に会えばさらに混乱を起こしてしまうだろう。
「どうしたらいい…なにを望むの」
自分の行く道に悩み、希望を求めた。
夕焼け空に、最初の星が輝いているのが見えた。
その時、レナータの脳内にも同じ様な小さな輝きが生まれた。
ある考え…それは希望か、脳の混乱がもたらした世迷い言か。
ベンチに座る佇まいをなおし、背筋を伸ばす。遠くにあるであろうカメラを想像し、それに顔を正対させる。
そして思い切って言ってみた。言葉には出さず口だけ動かし、同じ文言を二度繰り返す。
少女が、自分の世界を変えるための願いの呪文を唱える。それは誰にも聞こえなかったが、極めて危険な呪文だった。
しばらく待った
しばらく待った。
遠くの街並みの中に、星が一度だけ輝いた。
夜9時、二人っきりのPCルーム。
他の生徒も教師もいない。教室にも廊下にも、この建物自体に二人しかいない。
高いドーム状の天井の下、部屋の中には二台の机とPCが、向き合うように並んでいる。
ロシアのゲーミングデスクとチェアは西洋の黒い物とは違う。シルバーな金属がむき出しの手術道具のような趣きだ。
それを挟んで対峙するレナータとツェツェーリア。
ロシアにおいてエースと称される二人の女戦士だ。
「逃げなかったのね」
ツェツェーリアの一言にビクリと反応してしまうレナータ。スカウトの件を知っていると匂わせてきたと思ったからだ。しかし、それ以上に突っ込んでは来なかったので、知っているようではなかった。
ゲームルールの説明をし、これが互いの目を賭けた勝負であると宣言した。
「互いの…?」
レナータには初耳だった。
ツェツェーリアは恥ずかしそうに自分のための拷問装置を取り出した。まるでカップルが相手の持ち物のおそろいを持っていることを、恥ずかしげに報告するかのように。
「そう、これを私もつけるの、レーノチカ。あなたと一緒。あなたが私を撃てば」
自分の目を指で開く。
「この目を私は焼かれる。あなたが焼くのよ、レーノチカ!」
「どうかしてるよ、あなた」
レナータはうんざりしながら認めた。この女は狂っているが、その狂い方は大したものだった。自分の目を焼くことをいとわないとは、思ってもいなかった。
そして、さらにレナータは窮地に立たされた。
(もし勝利し、ツェツェーリアの目を焼いたとしたら、自分が無事に済むわけがない)
おそらく隠蔽される。そのさいに少女一人の命を惜しむ校長ではなかろう。それは先日確認済みだった。
「あなたの目を焼くつもりはない」
焼きたくもなかった。
「じゃあどうするの?レーノチカ。勝負からは逃さない。どちらかの目は絶対に焼かれるの。ウフフ、部屋に入った時は眼球は4個、出てきた時には3個になっていました、さてなぜでしょう?」
ツェツェーリアは楽しげだった。実際に楽しいのだろう。不快極まるレナータとは対象的だった。
「狼に食われたんだろう」
そう言いながらPCデスクに着席する。
慌ててツェツェーリアが彼女に駆け寄り装置を甲斐甲斐しく装着する。遊んでくれる相手を大切にする女性だった。電極のついた装置を左こめかみにつけ、頭にバンドで止める。こめかみに尖った電極が刺さりチクッとする。バンドは後頭部と耳を通る二本あり、しっかり頭部に固定された。最後に小さな鍵で装置を固定し、はずれないようにした。
「きつくない?」
その優しげな言葉も温かい指先も、レナータには不快であった。
ツェツェーリアはその鍵を自分のポケットにしまった。彼女もPCの前に座り、装置をつける。丁寧に自分の頭の鍵も閉めた。
「ワクワクしない?」
「しない」
「そう、今、とっても楽しい。こんなに楽しいのは…いつ以来かしら…」
思い出すように天井を見つめるツェツェーリア。先程から彼女の様子がおかしい。まるで子供が遊んでいるかのようだ。
レナータは時計を確認した。
もう9時13分を過ぎていた。
彼女は少し焦っていた。
「もういいだろう!始めよう。決着を着けて、終わらせる!」
「終わる?こんな楽しいことを終わらせたいの?」
「お前と付き合う気はない!」
「ああ、そう」
ツェツェーリアの顔が変わる。いつもの、サディステックな彼女が蘇る。
「遊んであげる。あなたのメ、とても綺麗だから。私が焼いてあげる。熱い涙を流すの、兄さんの様に…」
狂気が膨れ上がる。
だが量子回線は狂気など伝達しない!
メタアースの世界では、自分はこの女に負けない!
そう強く信じ、レナータはゲームの世界に飛び込む。
続けてツェツェーリアがそれを追いかける。
戦いが始まった。
爆発が続きその間を二つの影が走る。
クローズドな戦場で行われている二人の決闘は最初から全力であった。
黒とピンクに彩られたツェツェーリアのアバター。初めて見るその姿はまさに戦場の女王といった容姿と強さだった。
繰り出される攻撃の火力は壮絶で、建物を次々と破壊し、爆炎と破片でレナータを苦しめる。
灰と金色のレナータのアバターはその細身の体から何度も必殺の一撃を放つが、ことごとく避けられる。
国家的エースと呼ばれていたツェツェーリアの強さは本物だった。
銃撃戦での個人戦など、一瞬で勝負がつきそうなものなのに、いくら撃っても当たらない。
この焦りを、相手も感じていて欲しいとレナータは祈った。ツェツェーリアの周囲を回るレナータは、自分が彼女の格下を演じさせられているのを感じていたが、どうすることもできない。撃ってくる一撃一撃が大きい。
ボス敵と戦闘しているようだった。
ツェツェーリアの装備は通常の兵士の上をいっている。両手の巨大な銃を軽々と扱い、様々な種類の弾丸でレナータを弄ぶ。
しかし、この状況を生んでいるのは武器の差ではない。完全な心意気の差だ。
レナータは弾がかすめるたびに心臓が跳ねる。当たればスイッチが入り、眼球が焼かれる。その恐怖が彼女の行動を押し止め、前に出れない。
ツェツェーリアは、完全にお構いなしだ。あたって構わないという姿勢。普通ではない神経がこの戦いを制しようとしている。
レナータは歯噛みした。
「なにが戦場の傷だ。なにが心の痛みだ!私は自分が本当に傷つくことを恐れている。傷つくことが怖いんだ。なさけない! 幾千人も傷つけてきた、これが私の覚悟なのか!」
回るのをやめ、突撃に切り返す。自分の身を銃火に晒した。
走りながらもエイミングはずらさない。ツェツェーリアの巨大な銃器を狙い、敵に防御の姿勢を取らせる。
銃器に穴が空き、吹き飛んだ。衝撃にツェツェーリアの体が倒れる。
すでにレナータは飛びかかっていた。近距離からの止めの一撃、相手の目を焼くことに、もうためらいはない
「終わりだ、ツェツェーリア!」
銃器を向けられたツェツェーリアの顔は、笑っていた。開いた2本の腕の間、胸の内から新たな腕が飛び出した。
「隠し腕?」
ツェツェーリアの常人ではない神経が作り出した怪物アバター。3本目の腕がレナータの首を掴み、そのまま地面に叩きつけた。
「おしまいなのは、あんたなのよ、れーのちか!」
押さえつけられたレナータの顔に銃口が突きつけられる。左目の上に巨大なプレッシャーがかかる。
「じぶんのメに、おわかれを いいなさい」
焼かれる前から目が熱くなる、涙も浮かんでくる。終わりだ。
「希望はな…」
突然のサイレン音。クローズドなフィールドに割って入る警戒警報。
「なに?」
ツェツェーリアが困惑する。
閉鎖フィールドが突如強制終了し、現実のメタアース内にアバターが転移された。
そこにはPCに接続したままの自分たちの姿があった。
ツェツェーリアはレナータを離し、周囲を見ている。警戒音は次々と鳴る。
クリッピングフィールド展開警報
メタアース内に不正侵入検知の警報
そして、空襲警報だ
外から爆音が聞こえてきた。学校内に騒ぎの声が広がっている。
「バカな!こんな時に、襲撃だと?」
急いでレナータに止めを刺そうとした時、天井が吹き飛んだ。破片と煙とともに強襲チームが屋上から次々と侵入してくる。
遊びでゲームをしていたツェツェーリアは、戦時の対応ができなかった。みすみす侵入を許してしまった。立ち上がったレナータが見たのは6人の兵士。それぞれに大きくシルエットが違う。様々な用途に合わせてカスタマイズされた特殊兵装をまとっている。その中央にいる白い兵士はレナータも見知ったアバターだった。
「な、なぜ、なぜ今なんだ!」
「今だからよ。今だから、呼んだのよ」
レナータはツェツェーリアの叫びに応えるようにつぶやいた。
あのベンチでレナータはスカウトに向かって、星に向かって願い事を言ったのだ。
「今夜、9時20分にこの学校をギグソルジャーの集団に襲撃させろ。それが叶ったら信頼の証として、契約をする」
ギグソルジャーの派遣先はカレンシーAI直下の戦略AIでなければコントロールできない。もし、願ったとおりの時間と場所に襲撃が行われたら、それはカレンシーAIがレナータの願いを叶えたに等しい。これ以上の信頼担保はない。
「バ、バカな!」
ツェツェーリアは果敢にも侵入者に立ち向かったが、6人の一斉射撃により体を割かれた。
その瞬間、ツェツェーリアの本体が飛び跳ねる。彼女の顔につけられた装置は機能を発揮し、彼女の眼球を焼いた。電流が切れた時、彼女の体も糸が切れたように落ちた。
焼けた目から流れた涙が、彼女の口の中に流れていった。
そのざまを悲しげに見るレナータ。振り返り、襲ってきた兵士たちを見る。
彼らはレナータのアバターに対して何もしてこなかった。
彼らの中央に立つ戦士、その姿はかつてレナータが戦ったことがある戦士だった。
白い戦士を目の前にした時
「ああ、」
レナータは突然思いが至った。
「ああ、なんだ」
心のざわめきが答えを運んできた。
レナータが彼を夢に見た理由が分かった。
「ああ、それは、恥ずかしいな」
その理由は人には言えない。
「戦場で、」
戦場で、恋をしたなんて。
白い戦士が前に出た。
「言われたことを伝えます」
レナータがあの日に感じた気持ちは、この戦士には伝えられない。
「我々はあなたとの約束を守った。
ついては契約の成立とともに、即時の履行を要請する」
「即時の履行…」
「そうです。即時の履行。2回繰り返せと言われてきました」
彼はあくまでメッセンジャーのようだ。
「了解した、少し待ってくれ」
レナータは席を立ちツェツェーリアに近づく。焦げた匂いに鼻をしかめながら、彼女の安否を確認する。生きてはいる。目以外の被害はわからないが、すぐに職員が見つけるだろう。彼女の左目からとめどなく流れる水が口に入っていくのを見て、気分が悪くなった。 彼女のポケットから鍵を取り出し、自分の顔についていた器具を外す。
待っていた彼らの前に立ち、
「では、最後の要請だ、やってくれ」
アバターの前に立ち、大きく胸を開く。
白いアバターはためらいなく、その手にした大きなナイフを、レナータの体に突き刺した。
やすやすと入った電子の刃は、彼女の中にある情報の核を貫いた。情報が傷口からこぼれだす。彼女がこの国で残してきた足跡が全て消えていく。メタアースに記録された国籍情報も破られ消える。彼女がこの国にいたという記録は残らず消えた。
そして刃のウィルスは彼女の装着するフェイスグラスにまで侵入した。全てを破壊しながら、そのウィルスは奥深くに隠された眼球に到達する。
ウィルスはその眼球を燃やした。
灰すら残らず、プログラムは消えた。
アバターも崩壊し、あとに残ったのは、レナータと自称する一人の少女だけだった。
最後の要請、それは彼女を殺して、この国から彼女の痕跡を消去すること。
すでに学園内のデータは襲われ、完全に消されている。
襲撃の音が止み始めた。レナータを迎えるためにだけ行われた、この偽装襲撃は範囲を抑えて行われた。ただ、本当の目的がばれないように、ある程度の被害も必要だった。
「それでは、また会いましょう」
「戦場で」
アバターを失ったレナータの返事は、ジャミングがかけられ通じなかったが、白い戦士はうなずいた。
彼らは空に向かって撤退していった。
残ったのは、被害にうろたえる生徒たちと、無名の存在になったレナータ、そして倒れたツェツェーリアだけだった。
レナータはゆっくり息をしているツェツェーリアを見た後、その足で校舎からでて裏庭に向かった。遠くにクラスメイトや教師の騒ぎ声が聞こえたが構わず進んだ。
裏庭を越え、裏門についた。そこにはいるはずの門番はいなかった。
裏門を抜けると街並みが見えた。灯りが消え、そこらじゅうで騒ぎが聞こえる。突然始まり、突然終わった襲撃の動揺で街が騒がしかった。
レナータは街頭が消えた歩道を一人で歩いく。学校を囲む壁を外から見るのは久しぶりだった。長い壁に沿って真っ直ぐに歩く。電気は復旧せず、月明かりだけが頼りだった。
真っ暗な暗闇の街を横手に進む。街のざわめきが騒がしい精霊の声のように聞こえた。
暗闇を歩き続ける。壁はもう終わる。
彼女の歩く歩道の横に後ろから来たタクシーが停まった。
運転手は顔を出さず何も言わない。
レナータが迷いなくその車に乗ると、運転手は何も言わずに車を出した。
レナータはそこで自分でも思いもよらぬ行動をとった。後ろを振り返ったのだ。
去っていく学校の屋根が見えた。それが遠くになっていく。それを追いかけるように窓に顔を押し付ける。
遠くなっていく。
全てが遠くなっていく…
見えなくなってしばらくして、レナータは椅子に腰を着けてうつむいた。
「信じてるから…私は信じてるから」
一人、何も言わずに置いてきた友人を思った。連れて行くことなど、できることではなかった。
別れも、言えなかった。
「それ、あんたの荷物」
運転手が、待っていてくれたのか、後部座席に置きっぱなしの荷物を指差した。
それはピンクの安っぽいかばん。いかにもロシアの女学生がもってそうなデザイン。
中を確認すると、わずかな生活用品と新しい携帯とフェイスグラス。そして今時珍しい、紙のパスポートが入っていた。
パスポートは赤茶色で真ん中に金色の大きなマークと5文字の漢字が書かれていた。
「日本国旅券」
そのパスポートがレナータに行き先と新たな雇い主を教えた。
「日本…エント!」
タクシーは真夜中の国を抜ける。
レナータの第2ステージが始まる。
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