Hello,world!④

1.母


 私には血の繋がらない息子が居る。夫が愛人との間に作った子供だ。

 その存在が発覚した時は正直、良い感情を抱いてはないなかった。

 子供に責任はない。責任があるとすればそれは夫と愛人だ。そう頭では分かっていても感情面では納得が出来ない。

 面識すらない子供に見当違いの嫌悪を抱いているのは大人としてはどうかと思わなくもなかったが……無理なものは無理だ。


 ――――だが愛人の葬儀でその顔を見た瞬間、私の中にあった悪感情は根こそぎ消し飛んだ。


 あんなふざけたことをした女とその子供の顔を拝んでやろう。

 そんな浅ましい動機で葬儀に向かったのだが、斎場に居たその子供を見て私は絶句した。

 ……あれが六歳の子供の顔か?

 ぴくりとも動かない表情筋。本来は晴れ渡った夏の空のように綺麗であろう蒼い瞳も諦観の黒雲に塗り潰され暗く淀んでいる。

 粗末な格好と相まって、ただただ痛々しかった。


『母親が死んで良かったな。これであの子も真っ当な生活を送れるだろう』

『ちょっと不謹慎よ!』

『そうは言うが、あの母親の下じゃ何時か殺されてたかもしれないぞ』


 出席者達のひそひそ話で私は遅まきながら自分の能天気さを思い知った。

 世の中にはそういう子供達も居ると、頭では分かっていた。

 だが実際に虐待を受けていた子供と接する機会などそうそうありはしないから自然とその考えが除外されていた。

 真夏だというのに長袖長ズボンなのも……そういうことなのだ。


『それより、どうする? 誰が引き取るんだ』

『うちはもう、子供が居るし』

『なら一人も二人も変わらないだろ』

『勝手なこと言わないでよ。そうだ、――さんのところは子供が居なかったわよね? 不妊治療も上手くいってないみたいだし丁度いいじゃない』

『勝手なことを言ってるのはどっちですか!?』


 唖然とした。葬儀の場でよくもまあ堂々とこんなことが言える。

 人のことは言えた義理ではないが、少なくとも私は本心を表には出していない。

 醜い言い争いをしている大人とそれを呆然と眺める私が気付かない内に、あの子は近寄って来ていた。

 そして気まずそうな顔をする大人達にこう告げた。


『御心配なく。施設に入りますので』


 怒りも悲しみもない。ぞっとするほど平坦だった。

 あの子はそれだけ言うと直ぐに自分の席へと戻って行った。


『――――ッ』


 酷く、心が掻き乱された。

 あの子の人生は一体、何なんだ? たった六年。たった六年しか生きていないのに辛いこと苦しいことばかり。

 この先もそう。苦労の多い人生になることは目に見えている。

 それでも、きっとあの子は何も思わないのだろう。ただそういうものだと受け止めて淡々と生きて……死ぬ。

 良い出会いがあれば違う未来もあるのかもしれない。だけど、ああなってしまった子供を変えられるほどの出会いは稀有だろう。


 私はあの子を、笑顔くんを引き取ることに決めた。

 同情もあるが……それ以上に、怒りが勝ったのだ。あんまりだろうと。こんなのはあんまりだろうと。

 世の中にはきっと、あの子よりも不幸な子供は居る。ただそれがあの子の境遇を見過ごす理由にはならない。

 偽善なのかもしえない。でも、手が届く範囲に居て、手を伸ばす理由があるのなら手を伸ばそうと思ったのだ。


 ――――何時かこの子に心からの“笑顔”を浮かべさせる。


 そう決めて笑顔くんを引き取った。

 夫は猛然と反対したが、そもそも浮気をした夫にも責任はあるのだ。

 そこを突かれて語気は弱まったがそれでもみっともなく反対し続けたが押し切った。

 あんまりこういうことは言いたくないけれど入り婿の立場で浮気までして、よくもまあ……と思った。

 ただ頑なに同じ姓にすることは認めようとしなかった。

 ふざけるなと思ったが、


『御気になさらず。引き取って頂けただけで十分過ぎますので』


 とあの子に言われてしまえば私からはもう何も言えない。

 実父に対する情があり気を遣った……わけではない。それだったらまだ良かった。

 単に高峰家の空気をこれ以上悪くしないためにあの子は姓の変更を辞したのだ。

 子供がそんなことを気にするなと、そう言って抱き締めてあげられればどれだけ良かったか。

 無駄だ。今のあの子にはそんなことをしても響きはしない。むしろ気を遣わせてしまったと負い目を抱かせてしまうだろう。

 だから何も言えなかった。


 あれから八年の月日が流れた現在、私は未だにあの子の母親になれずに居た。

 私は麻美と同じように愛情を注いでいるが……まるで届いていない。

 嫌われているわけではない。好意的な感情を抱かれているのは分かる。

 だがそれは肉親の情でもなければ親愛でもない――尊敬の念だ。

 自分のような厄介者を気にかけてくれる出来た大人だと思われているのだ。

 自分を厄介者だと思っていることも、向けられる敬意も、何もかもが悲しい。


「ホント、どうしたら良いのかな」


 麻美が溜息を吐いている。勿論、笑顔ニコくんのことだ。

 この子もまた姉として惜しみない愛を注いでいるが私と同じで空回りしてしまっている。


「それとなく聞いてみても流されるし、かと言ってストレートに聞いても……」

「無駄、よねえ。イジメられているのかなんて真正面から聞いても否定されてお仕舞いだわ」

「それ以上突っ込むのも難しいし……」

「学校に言っても、つっぱねられたらそれまでだし話が漏れて余計に悪いことになったら目も当てられないわ」


 笑顔くんは間違いなくイジメられている。私も麻美も確信を持っているが手を打てずに居た。


「ニコはさぁ、多分どうとも思ってないよね」

「……でしょうね」


 本人が気にしていないなら別に良いじゃないか、なんて言えるわけがない。それでは駄目だ。

 悲しいとも思えず、悔しいと怒ることも思えない状態はあまりにも不健全だ。

 “こんなものだ”と諦め続けているあの子の心を変えなきゃ幸せにはなれない。

 うーんと二人で頭を抱えていると、玄関が開く音が聞こえた。あの子が帰って来たのだ。

 私達は顔を見合わせ頷き、空気を入れ替えた。


「ただいま」

「おかえ……って、ニコくん!? ど、どうしたのそれ」


 何でもないように笑顔で迎えようとしたが、その顔を見た瞬間、そうも言ってられなくなった。

 口元には血が滲み、頬も少し腫れている。

 麻美に救急箱を持って来るよう口を開こうとして、


「ああ、これ? 喧嘩した」

「「――――」」


 青天の霹靂とは正にこのことか。

 普段なら私達に心配をかけないようにと何も言わないのに素直に告白したこともそうだがそれ以上にその表情だ。

 笑っているわけではない。それでも何時もの無表情ではなく僅かに頬が綻んでいる。


「……そう。男の子だもね。そういうこともあるわよね」


 涙が出そうになるのを必死に堪えながら“しょうがないわね”と笑う。

 泣きそうなのは悲しいからではない、嬉しいからだ。

 素敵な出会いがあったのだろう。ぶつかり合って身体は傷ついたかもしれないけど心を通わせることが出来たのだ。

 どこの誰かは知らないが、感謝の念しかない。


(今夜はお祝いね)


 お寿司でも取ろうかと考えていた正にその時だ。


「今帰ったぞ」


 夫がリビングに入って来た。

 声が聞こえるまで気付けなかったのは私だけでなく子供達も同じらしい。

 夫はニコくんを見るや眉を顰め舌打ち。これが大人の態度か?


「ん? お前、それ」


 まずい、と思った時にはもう遅かった。


「喧嘩か!? 俺達に迷惑がかかるようなことはするなと言っただろう!!」


 一切の呵責なく拳が振るわれた。


「いづ……ッ……立場を弁えろ! 誰のお陰で真っ当な暮らしが出来てると思ってるんだ!!」


 言葉と行動。どれ一つ取っても許せるものではない。

 頭に血が上った私と麻美が口を開くよりも先にニコくんが頭を下げた。


「申し訳ありません。以後、慎みます」


 もう一度頭を下げ、ニコくんはリビングを出て部屋へと行ってしまった。


「クッソ……おい、救急箱を持って来てくれ」


 殴った手を押さえる情けない夫に私は堪忍袋の緒が切れた。


「い、いきなり何を……」


 ぶたれた頬を押さえながら呆然と呟く夫に麻美が言う。


「……アンタさ、何でぶたれたかホントに分かんないの?」

「ッ、父親に向かってアンタとは何だ!!」

「父親? アンタが? 冗談止めてよ」


 そう吐き捨てられ夫はたじろいだ。反撃されるとは思っていなかったのだろう。

 私も麻美も含むところはあっても家族の和を乱さないため、基本的には家長である夫を立てて来た。

 噛み付いていたのはニコくんへの態度ぐらいで、それにしても穏当な言い方しかして来なかった。

 ここまで調子付かせてしまったのは私達の責任だろう。


「笑わない、怒らない、悲しまない。表情一つ変えず、感情らしい感情を見せない。

こんな子供が健全じゃないことぐらいまともな大人なら分かるでしょ? なのにアンタは何もしなかった。

何もしないならまだマシか。さっきみたいに理不尽な仕打ちをして来た。

その都度、私かお母さんが止めてたけど私達の目が届かないとこではどうせもっと酷いこと言ってたんでしょ?

ニコが何したって言うの? 悪いのはアンタじゃん。自分が撒いた種なのに反省するどころか責任転換して……だっさ。死ねば良いのに」


 普段ならここまでの物言いは私も咎めていただろう。だが今回は別だ。


「……ニコはさ、ようやく切っ掛けを掴めたんだよ。良い友達に出会えたんだよ。

ほんのちょっとだけど、笑えるかもって……なのにアンタのせいで……台無しじゃん」


 喧嘩をしたと、そう告げたあの子の瞳からはほんの少し雲が薄れていた。

 けどこの男のせいでまた雲が空を覆い尽くしてしまった。

 どうして、どうしてこんなことが出来るのか。父親なのに、どうして我が子を苦しめることしかしないのか。


「お、おい」


 麻美の真っ直ぐな視線に耐え切れず私を見る。


「自分の言葉で言い返すことも出来ないのね。情けない男」

「――ッ」

「まあ、言い返しても見苦しい言い訳ではないし情けないことには変わりないけど」


 ニコくんの存在が露呈した時点で、正直もう女としての情は尽きていた。

 経済的な懸念もないから離婚をしても良かったが、それでも再構築を選んだのは子供達には家族が必要だと思ったからだ。

 特にニコくんは実の母を失ったばかり。この上父親までなんて惨過ぎる。

 夫も今は割り切れないかもしれないが何時かは受け入れ、愛情を注いでくれるかもしれない。

 だから壊すわけにはいかないと、今まで我慢して来たが……。


「出て行って。今はあなたの顔を見ていたくないの」

「う、う……」


 小さく悪態を吐き、夫は逃げるように家を出て行った。

 残された私と麻美は深々と溜息を吐く。


「……あのさ、お母さん。もう無理だよあれ。私はもうとっくにあれを父親と思ってないし、ニコにとっても害悪にしかなんないって」

「……ええ、分かってるわ」


 離婚となればあの子に負い目を抱かせてしまうだろう。

 だが長期的に見ればこれが正解だと信じたい。

 心苦しいが、それまでのフォローはあの子の“はじめてのおともだち”に期待するしかないだろう。

 勿論、私達も出来る限りを尽くす。それでも明確に変化を与えられたのはそのお友達だけ。


(悔しいし、情けないわね……)





【Tips】


・いけないおクスリ

可視化した敗北フラグ。キメてる奴は必ず負ける。

ボス格なら一時的に全ステUPしてバーサーカーになれる可能性があるもののどっちみち負ける。

身体に悪いし負けフラグも立つしで百害あって一利なし。

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