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「おや」


 一度家に戻ってから登城したアゼルは、廊下の向こうに、なにやら重そうな包みを抱えてよろよろと歩く女性の後ろ姿を見つけて足をとめた。


 姿勢のいいその姿に向かって駆け出すと、アゼルは後ろから声をかけた。


「重そうだね、何これ?」


 ふいに耳に飛び込んできた軽い声に、レイラは一瞬どきりと鼓動をならす。


 けれど、次の瞬間には何事もなかったように眉間にしわを寄せて振り返った。


「ずいぶんとお久しぶりですね、アゼル様? あら、朝からのんきに水遊びですか?」


 レイラは、光の加減で紫色にも見える明るいブロンドの髪を見あげる。いつもなら、ふわふわと持ち主の動きに合わせて揺れる少しくせのある髪が、今日はぺたりと元気がない。


 アゼルは、少し長めの前髪を引っ張る。


「急に頭が洗いたくなっちゃって」


「きちんと乾かさないと、風邪ひきますよ?」


 花祭りを過ぎたばかりのレギストリアは、春とはいえまだまだその風は冷たい。髪と体の染料を落とすために水浴びをしてきたアゼルの体は、実は結構冷えていた。


「そうだね。うー、寒い。レイラがぎゅってしてくれたら、きっと心も体も温まるんだけどなあ」


「登城されたなら執務室へどうぞ。アゼル様の分だけ決裁が滞っていると宰相様がお嘆きでしたよ?」


 わざとらしく震えたアゼルを無視して、つん、と顔を背けたレイラの手から、アゼルは重そうな包みを取り上げた。


「アゼル様……!」


「これ、持ってくんでしょ?」


 こともなげに言ったアゼルは、そのまますたすたと歩きだす。その後ろ姿にため息をつくと、レイラはその背を追った。


 アゼル・シャラガ・ド・レギストリアは、二十二歳になったレギストリア王国の第四王子だ。


 王子として王位継承権を持つアゼルではあるが、小さい頃から王になる気などさらさらなかった。


『だって、めんどくさいじゃん。国ひとつ世話しなきゃいけないんでしょ? 自分の世話でさえろくにできない僕に、そんなたいそうなことできると思う?』


 ザジが国王の座についた折には、肩の荷が下りたとばかりに早々に出奔しようとしたところを、国王はじめ議会総出で止められ議員という地位に縛り付けられて今にいたる。現在は、城を出て城下で暮らしているために、日々(のはずなのだが)仕事のためにこうして登城することになっている。


「せっかく城まで出てきたのに、なんで書類ばかりみてなきゃいけないんだ」


 歩きながら、ぶちぶちとアゼルは不満げに言った。


「じゃあ、なにしにいらっしゃったんですか。今日中に、机の上にたまっている書類を全部整理なさってください」


「たまには僕だって用事があるんだよ」


「たまにじゃなくても、アゼル様の書類決裁が必要なものはかなりあるんじゃないですか?」


「ところで、これ何?」


 眉間に思い切りしわを寄せたレイラを気にすることなく、アゼルは自分の持っていた大きな袋をしげしげと見つめる。大きさの割にずしりと重い手ごたえとその形状から、どうやら何かの書類らしい、ということは見当がついた。


「……赤ん坊や妊婦に関する、まあいわゆる育児書です。書庫にあったのを選んで何冊か持ち出してきたんですよ」


「ああ、義姉さまに?」


「はい。参考にしたいというので」


「熱心だなあ。むしろこれ読まなけりゃいけないのは、兄上の方じゃない? あの人、赤ん坊なんて見たことないでしょ。だいたい、今まで愛も恋も、何それ食べ物? のあのザジ兄上が、人並みに性欲を発揮して奥さんもらってもうすぐ子供も生まれるなんて、まるで奇跡だよね。二年前の兄上からは想像もつかないよ」


 彼の兄、現国王であるザジールが一般庶民のミルザと紆余曲折の末に結ばれたのは、おととしの事だ。

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