第10話 摘まみ食い令嬢
「御令嬢っ!!」
小走り寸前の早足で後ろから近づき、王太子はリリスらに声をかける。いや、荒らげる。
しかし振り返った二人は、しれっとした温度のない眼差しでエドワルトを見据えた。
「良い夜ですね、王太子殿下」
「マグダレナ男爵が娘、リリスです。王太子殿下に御挨拶申し上げます」
礼儀の範囲でしかない慇懃な態度。
正しく貴族然とした二人に、エドワルトは言葉もない。
そんな彼を皮肉げに眺め、侯爵令息は眼に弧を描いた。
彼が追ってくるまでの隙間時間に、カゼルは天然なリリスに貴族の作法やしきたりを大まかに教えたのだ。
「.....王太子が何を言ったのか分かりませんが。エスコートを複数で兼任するなど、ありません。そんな御令嬢は、ふしだらではしたないと思われます」
彼の言葉を耳にし、さあーっと血の気を下げるリリス。
それを見て、ふくりと眼を細め、カゼルは肘に絡んだ彼女の手を、宥めるかのように軽く叩いた。
「まあ、王太子なら、やっても顰蹙は買わないでしょう。淑女らの妬み嫉みが、貴女に向くだけで」
想像したくもない言葉の羅列で、さらに血の気を失うリリスの顔。
なんつーことをやろうとしてんのよ、あの男ぉーっ!!
驚き半分、怒り半分で、百面相をするリリスが可愛らしく、カゼルは腹の底から沸き上がる愛しさを自覚した。
こんな百面相でも可愛く見えるのだから、自分も末期だな。.....それにしても許すまじは王太子だ。
苦々しげな気持ちを上手く隠して、カゼルは世間一般の常識的な社交をリリスに教えた。
エスコートは婚約者か恋人。あるいは家族がやるもので、次点に親しい男性が来る。大して親しくもない王子がやるのは有り得ない。
すでに婚約の御披露目をしたカゼルを差し置いて王太子がエスコートなどをすれば、要らぬ疑惑が起きるだろう。と。
「疑惑?」
きょんっ? と首を傾げる小動物(リリス)。そういうとこですよ? と、思いつつも、可愛いので、カゼルは頭を撫でるしか出来ない。
「.....まあ。下世話ですが、王太子の愛人だとか、秘密の恋人なのでないかとか。そんな感じに?」
なんてことでしょう.....
茫然自失で百面相していた彼女の顔が、憤怒一色に染まる。そんなだらしない御令嬢だと思われる一歩手前だったのだと知り、カゼルとは別の意味で怒り心頭だった。
.....と、そこに声をかけてきた王太子。
二人の眼差しが冷ややかだったのは当然である。
「いやっ、その..... エスコートを.....」
まだ足掻こうと試みる、しどろもどろな王太子を軽く一瞥し、カゼルがさも不思議そうに口を開いた。
「はて? エスコートですか? 私がいますのに?」
しれっと惚けて微笑むカゼル。
「だから、父上への拝謁は侯爵令息に任せよう。ここから宴が終わるまでのエスコートを私が.....」
間髪入れずに切り込むリリス。
「あらあ? なぜですの? 貴族の慣習では問題でも起きない限り、婚約者のエスコートが当たり前なのではないのですか?」
先程までの素直なリリスは姿を消し、代わりに現れた仄かな怒りを湛える視線の彼女に、エドワルトはぎくうっと肩を震わせた。
.....なんでだ? 馬車の中では知らない風だったのに。
彼が心配するほど純粋培養な箱入り娘のリリス。それを良しとして騙そうとした王太子は、理路整然と反論する彼女に疑問を持つ。
が、その隣でほくそ笑むカゼルを見て、すぐに疑問は晴れた。
.....余計なことを!
カッと頭に血をのぼらせ、エドワルトはカゼルに詰め寄り、命令する。
「私はリリス嬢と少し話がしたい。そなたは離れておれ」
「嫌です」
すぱっと断る侯爵令息。
は?
するりと表情を失い、言葉を詰まらせた王太子の後ろで、盛大に噴き出す声が聞こえた。
.....おまえら。
振り返らずとも分かる護衛騎士らの存在感。要らん気配を振り切り、彼はさらに声を荒らげた。
「王太子の命令を聞けぬと申すかっ? よろしい、侯爵家に抗議しよう!」
「どんな?」
これまた飄々と答える侯爵令息様。呆然とするエドワルトの後ろで、これまた、辛抱堪らんとまでに護衛騎士らが笑い出した。
「たしかにっ! 疑問符しか出ませんよなぁ、御察しします、侯爵令息殿」
「それ、ただの恫喝と脅迫ですから。何考えてんですか、王太子殿下」
「だいたい、婚約者のおられる御令嬢を連れ回したいなんて破廉恥にも程がありましょう」
相変わらずズケズケ言う護衛騎士らに苦虫を噛み潰しつつも、その言葉の正しさを理解するしかないエドワルト。
恋に盲た男の暴走。
婚約者を差し置いて彼がエスコートすれば、周りが勝手な憶測を回すだろう。
上手くすれば、立場のなくなったカゼルを侯爵家から放逐させ、二人の婚約解消が望めるかもしれない。彼は侯爵に厭われていると聞く。そのせいでエドワルトの御学友にすらなれなかったらしいし、簡単だろうと思った。
そんな姑息な企みを脳裏に描いて、強引にエスコートを強行しようとした王太子。
だが、身分の低い男爵家は黙らせることが出来ても、古参貴族な侯爵家は簡単にいかない。
カゼルが立ちはだかれば、一応の面目を立てなくてはならない王家。
そうなる前に、なし崩し的にエスコートしてしまおうと思っていたのに、このていたらく。
恫喝..... 脅迫..... 破廉恥。
護衛騎士らの言葉が、グサグサと全身に突き刺さり、ようよう我に返ったエドワルトは、名残惜しげな視線を残しつつ、失礼すると短く呟いて通路の先を進んでいった。
困ったもんだと肩を竦める護衛騎士らと共に。
その姿が消えるまで見送り、リリスとカゼルは大仰に息を吐き出した。
「..........」
そして彼女は途方に暮れる。
まただわ。どれだけ恨みを募らせているのかしら。
婚約者となった男性に、ポンポン乱立する漆黒のフラグ。モノは小さいが、その数が多い。
このサイズなら圧し折らなくても自然消滅するサイズだ。世間一般でいう、思うだけで昇華できるタイプの可愛い妄想。
でも黒い。半端なく黒い。
先ほどのフラグと比べたら放置しても構わない微細な旗だけど、ついつい好奇心から摘まみ食いしてしまうリリス。
そして彼女は後悔した。
小さな悪夢は王太子の不幸を願うもの。
落馬して骨折でもしたら良いとか、打ち所が悪くて寝たきりになれば良いとか、やけに具体的な不遇を願う悪夢だった。まさに呪い。
ついでにと、もう一摘まみしたリリスは、思わず赤面する。
そのフラグは、カゼルが王太子を辱しめてやりたいと妄想する悪夢だった。無論、色恋ではなく、相手を貶めるために。
.....どっちもどっちだわ、この二人。
はあ.....っと、やるせない視線を漂わせつつ、リリスは気づいていない。
こうして、放置しても良いような小さい黒いフラグを乱立させるカゼルの近くにいる限り、彼女は一生御飯に困らないことに。
「最高の旦那様じゃないっ?!」
後日、それに気づいたリリスが、無邪気にカゼルへ情を寄せていくことも、今の二人は知らなかった。
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