あるいは

空原海

第1話




 トルーマン・カポーティの『叶えられた祈り』。二週間前に図書館で借りた文庫本と、時計代わりのスマホを手に席についた。

 目の前にはうんざりするような現実を突きつける大きな鏡と、ヘアカタログに『VERY』に『STORY』、『VOGUE』に『ELLE』。

 雑誌のラインナップで、このアシスタントが私をどうジャッジしたのかが知れる。まずまずといったところか。見栄っ張りの中身など、彼女が見抜いたのではなければ。

 そしておぞましい鏡と向き合う。頭の中のイメージより数倍老けて醜い女が愛想笑いを浮かべ、鮮やかな色を纏う初対面の女性に媚びている。

 担当する美容師は三十代の女性で、黒髪のウルフショートヘア、真っ赤なインナーカラー。大ぶりのシルバーフープピアス。


 どんな髪型にしたいのか、どんなイメージか。

 心にあるイメージそのままを伝える気にはなれず、単語だけを並べた。

 前下がりショートボブ。センターパート。カラーはグレージュ。


 美容師がヘアカタログを指し示し、そこには若く美しい女が、思わせぶりな目をカメラの正面より少しずらして『アンニュイな表情』を浮かべていた。

 詮索好き、表面に浮かんで手に取った貧相な情報だけで、見ず知らずの赤の他人の人生について、すべてを見てきたかのように勝手に知ったような気になる。

 年齢による経験ではなく、加齢による虚栄心で心身を武装した中年女が選ぶのに適した髪型だと。


 首元にタオルを巻かれ、ツルツルとした黒地のカットクロスが前身頃に当てられる。促されるまま、二つの穴に腕を通した。

 シャンプー、カット、ヘアカラー、シャンプーにトリートメント、そしてドライヤーの後のマッサージサービスの順番。

 並べられたファッション雑誌に横目をやり、それから濃紺色に白文字の背表紙の新潮文庫を手に取った。




 ざくざくと軽快に切り落とされていく、傷んでぱさぱさと潤いのない髪の毛。ヘアカラーを施さなかった空白の期間など、もはや旧石器時代に遡る。

 周囲が茶色く染め出した。それが流行りだった。髪を明るく染めていない女はダサい。ただそれだけだった。なにもない。なにもないのだ。

 いまもむかしも。

 わたしには、なにもない。


 トルーマン・カポーティは『叶えられた祈り』の執筆のために、上流階級の伝手も大作家としての地位も信頼も、自身の祈り――聖テレサの文句とは関わりなく――ですら、何もかもを失い、死んだ。未完のままに。


 美容師が文庫本を覗き込んできたので「『ティファニーで朝食を』を書いた著者の遺作です」と伝えたが、彼女は「なるほどー!」と明るい声で同調し、すぐさま話題を変えた。

 『ティファニーで朝食を』が通じなかったことに驚くという、嫌らしくて吐き気を催す優越思想が、するりと自然発生する自分がおぞましい。

 深く探求することもなく、上っ面の情報だけを得て満足し、知ったかぶることを快楽として、それがまるで自分のものになったかのようにふるまう。そして他者と自分とを区別する。

 わたしには、なにもないのに。


 なにもない。

 トルーマン・カポーティが書いたものは、トルーマン・カポーティのもの。

 カポーティは『叶えられた祈り』で破滅に追いやられた、とその文字だけを追うわたし。

 カポーティは書いたのだ。彼は、書いた。彼だけの言葉で、物語を、そして『冷血』まで書いた。

 彼は彼の人生すら、後世に残した。その退廃的で破滅的な、ドラマティックな物語として描き、誰かがそれらをゴシップとして盛りたて、誰かがそれらを伝記にし、憶測と虚飾で彩り、映画にする。




 帰宅する前に図書館に寄り、『叶えられた祈り』を返却した。読み終えたわけではなかった。返却期限は明日で、延長するか問われたが、断った。

 これ以上打ちのめされるのはごめんだった。

 カポーティの才能に? ――まさか!

 それはない。大作家の才能に比類しようなど、考えるはずもない。

 なるほど、確かにわたしは傲慢で鼻持ちならない、空虚な張りぼてを誇示する尊大な人間だ。そうであろうとも、多少なりとも創造主てんさいへの敬意は、きちんと礼儀正しく持ち合わせている。

 打ちのめされるのは、かつてわたしが失った、狂乱の日々について。


 セックスと酒と。

 ドラッグはさすがに手を出さなかった。合法であれ、臆病な好奇心が湧いて出ても、あれらを体に入れたくはなかった。

 そこまで壊れる気はなかったのだ。

 けれど、あるいは。





 マンションのエントランスで防犯対策として無意味な暗証番号を打ち込み、ポストからダイレクトメール数通を抜き取り、エレベーターホールの手前でセキュリティカードをかざす。

 小さく息をついて、そのままエレベーターへと乗り込んだ。


 ウィ……ン、という低いモーター音がかすかに耳に入る。眉間にしわを寄せて目を閉じ、顎を反らして頭と背をもたれかけた。

 大げさではない浮遊感に身を任せ、最後の恋人との別れをなんとか思い出そうと記憶を手繰る。

 彼女と別れたのは、結局のところ、彼女がもはやに踏みとどまれなくなったからだ。

 わたしは見捨てた。ただそれだけのこと。


 彼女は本物だった。

 本物の芸術家で、天才で、創造主で、唯一無二だった。けれど、彼女はへと飛び立とうとしていて、わたしに手を差し伸べ、と誘ってきたが、わたしはその手を取らなかった。


 わたしには、なにもなかった。

 彼女のような才能は、何も。

 彼女の手を取り、掴み、縋りついても、地に落ちるだけだとわかっていた。だから払いのけた。


 そして彼女は、死んだ。

 キャンバスいっぱいに裸婦を描き、それを裸で抱きしめ、アトリエで死んでいたのだと、かつての仲間から聞いた。

 先月のことだ。


 彼女と別れたのは、十数年前。

 彼女はへ飛び込んだまま、で十数年、その血肉を生かし保っていたようだ。


 わたしと彼女の間には、十数年という年月が横たわり、そこには一切の現実における物理的関与はない。

 なにもない。なにもなかった。

 わたしには、彼女とのわずかな絆すら、なにも残されていない。




 フロアカットされたエレベーターは5階に止まり、ゆっくりと目を開け、廊下へと踏み出す。

 部屋の前でプログレッシブシリンダーキーを取り出し、ふと手を止めた。そして見渡す。

 木目調の壁と黒い大理石パネルの床がダウンライトで照らされ、昼でも薄暗い内廊下。

 高級感があり落ち着いてホテルライクだ、とも言えるが、ここでは彼女は息もできなかっただろう。金の匂いが強すぎる。

 だからきっと、今も彼女は、ここにいない。


 急いでキーを差し込み、乱暴にドアを開け、すぐに閉めた。

 膝を曲げて足首を振り、靴を脱ぎ捨て、鞄を放り投げ、洗面台へと走る。

 勢いよくレバーハンドルを押し上げ、その白い飛沫へと頭から突っ込んだ。

 冷水が後頭部から耳、頬、まぶた、鼻、顎、鎖骨に胸、ヘソ、首裏、脊椎のある背の正中線を伝っていく。

 頭を上げると吐水口につむじを打ちつけ、奥歯への振動と脳みそがぐるりと回転したような、鈍く嫌らしい痛みを得た。


 肩に、腹に、背中に、足の甲に、バスマットに。ボタボタと垂れ続ける水。

 鏡に映る、前下がりショートボブ。センターパート。グレージュカラー。


 わたしは、なにもない。

 なにもないまま、ここで一人、老いていく。

 あるいは、かつての狂乱へと。いや、わたしは、飛べない。






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