ブラックホール

Jack Torrance

やって来たグリム リーパー

マンハッタンのパーク アベニュー サウスの裏路地に面した安アパートの一室。


ジュリアン ハーベストは箸にも棒にも掛からないジャンキーだった。


親の金をくすねてはドラッグやバーでの酒代に消えていた。


母のクロエは泣きながら懇願した。


「あんた、もう止めてちょうだい。リハビリを受けましょ。あんた、このままの状態を続ければ廃人になっちゃうわよ。後生だから母さんの言う事を聞いてちょうだい」


父のアロンゾは激昂して悪口雑言を浴びせた。


「おめえなんか帰って来るんじゃねえ。絶縁だ。俺の家には帰らせねえ。車でも電車にでも轢かれて死んじまいやがれ。俺の家の敷居を跨いだら銃でおめえの腐った脳味噌を吹っ飛ばしてやる」


ジュリアンはアロンゾの激昂にも意を介さず飄々と言ってのける。


「はい、はい、よござんすよ。帰って来なけりゃいいんでしょうが。はい、解りましたよ」


チッ、しみったれたおんぼろアパートなんかてめえの方から出て行ってやるよ。


ジュリアンは、もはや健全な娯楽に享受するという術を己から放棄していた。


台車を組み立てる工場で働くアロンゾと週に三日ほどの花屋でのパート勤めをするクロエ。


家計は裕福ではなかった。


それでも食う物と寝る家があるだけでも有り難いと感じるべきであるジュリアンは己の欲望を満たす為に少年時代から親の金をくすねていた。


最初は出来心で少額だった手癖の悪さも大胆になり悪友とつるむようになりドラッグ、ギャンブルと手を染め勤労意欲など沸き起こる筈も無くアロンゾとクロエに迷惑ばかり掛けていた。


ジュリアンは煙草と黴た食いかけの食べ物の悪臭が染み付いた自分の部屋に戻りありったけのドラッグをバッグパックに詰め込んだ。


そしてナイトテーブルの上の物を手で床に払い除けるとパケを破ってコカインの筋をスペードのエースのカードで作り鼻から猛烈な勢いで吸い込んだ。


脳を揺さぶる快感と狂喜の波紋が広がっていく。


「ヒィーーー、これだよ、これ、この感覚が堪んねえーーー」


頭がクラクラした。


身震いするジュリアン。


これは効いた。


鼻に付着したコカインを指で拭いヨードチンキの色に変色している歯茎に擦り込む。


俺様に怖いもんなんかありゃしねえぜ。


ドラッグの興奮作用で虚勢を強めるジュリアン。


部屋を出てリヴィングのアロンゾとクロエの前を通過して玄関に向かう。


「それじゃ、お二人さん、ご機嫌よう」


ジュリアンは悪びれもせずニタニタと笑い闊歩しながら手を振り出て行った。


前の晩からずっとジュリアンはぶっ飛んでいた。


頬はこけ目の下にはクマが出来ている。


うらぶれた容姿などジュリアンは気にも留めず着の身着のままで家を出た。


ジュリアンには、もはや羞恥という面での外聞を憚る気持ちなどは持ち合わせていなかった。


時刻は夜の10時を過ぎていた。


ジュリアンはレキシントン アベニュー線が通る28丁目駅に向かった。


クイーンズのバー、ジャンコ パートナーに行けば誰か泊めてくれる奴がいるかも知んねえな。


ジュリアンは親からくすねた金で切符を買いプラットホームに向かった。


プラットホームには人は疎らにしかいなかった。


周囲をさっと見渡すジュリアン。


仕事終わりで草臥れたスーツを着た親父、真面目そうな学生、バカっぽいカップル、ホームレス、ジャンキー。


何奴も此奴もしみったれたクソヤローばっかだな。


それに、何奴も此奴も偽善者ばっかだ。


ヒヒヒヒヒ、真面目にやってる奴らが馬鹿を見る世の中で真面目になんかやってらんねえよ。


電車が停止する乗降口の白線が引いている所で徐に煙草を取り出し火を点けた。


ジュリアンは虚空に向かって煙草の煙を吐き出しながら対面のプラットホームをぼんやりと見ていた。


背中にじんわりと滴る汗。


着古したセックス ピストルズのTシャツの脇に汗染みが顕になる。


吹き出すアドレナリン。


ジュリアンはハイになっていた。


ゾワァッ


ジュリアンは何だか気味の悪い生暖かい風を背中に感じた。


突然、網膜裂孔の症状のように視野の中心の部分がぽっかりと黒い空間になりその空間の周りの風景は普通に見えた。


それは、まるでブラックホールのようだった。


鼓膜を介さず何処からともなくザ ロッキン’ ジョニー バンドの“グリム リーパー”が聴こえてきた。


すると、ブラックホールの奥から何者かが歩み寄って来た。


それは、大鎌を持ちフード付きの黒いローブを着た骸骨ではなくて大鎌の代わりにダイソンの業務用掃除機を持った骸骨だった。


何もかもお見通しだ。


骸骨の眼が言葉を介さず訴えている。


骸骨の眼は小宇宙(コスモ)になっていた。


その骸骨の小宇宙の眼は人間という愚かな生き物の愚行を俺は全て俯瞰してきたという眼だった。


プラットホームにいる人達には聞こえない声がジュリアンの鼓膜を介して脳内に響き渡った。


「ジュリアンよ、お前は、その血走った眼で堕落した世界ばかりを見てきた。俺は、そんな堕落した輩を多く導いてきた。お前が見ているのは幻覚だと思うか?今こそ、その腐った眼を生ゴミにだして心眼を見開く時が来たぞ」


幻覚?


幻聴?


へへへへへヘ、おもしれえな。


俺はぶっ飛んでる。


ジュリアンは取り敢えず骸骨に聞いてみた。


「ところで、あんた、何でダイソンの業務用掃除機なんて持ってる訳?ウヒャヒャヒャヒャ」


骸骨は憮然として答えた。


「それは、無論、吸引力ならダイソンじゃろうが。そんな常識も知らんのか。だから、お前は堕落しておると言っておるのじゃ、この馬鹿垂れめが」


骸骨は、そう言い放ちダイソンの業務用掃除機を吸引力マックスでスイッチを入れた。


ウィィィンーーーー


けたたましいモーター音がジュリアンの脳内に反響する。


そして、吸い込み口をジュリアンに向けた。


ジュリアンは骸骨のブラックホール的な小宇宙と化した眼、ダイソンの業務用掃除機の凄まじい吸引力に吸い込まれるように己の意思とは関係なく線路に向かって一歩二歩と踏み出した。


ジュリアンがプラットホームを踏み外したその瞬間…


プァーン


警笛が鳴ったかと思うと勢いよく急行電車がプラットホームを駆け抜けた。


ジュリアンは電車に轢かれて即死だった。


警官が事故の検分をし自殺と断定された。


目撃者のホームレスのジャンキーが聴取でこう言った。


「フード付きの黒いローブを着た骸骨がダイソンの掃除機で死んだあんちゃんの肉片を吸い取って行っちまったぜ」


確かにジュリアンの遺体の損傷は激しく肉片や脳味噌が飛び散っていてもおかしくない状況だったが線路は血痕以外はほとんど肉片は見当たらなかった。


警官は確かに遺体の状態からして現場が不自然だなとは思ったが早くダイナーでコーヒーでもと思っていたのでジャンキーの戯言と受け流した。


葬儀場


ただの肉塊と化したジュリアンが棺に入れられ横たわっている。


遺体安置所でも葬儀場でも「損傷が激しいので見られない方が…」とアロンゾとクロエは言われた。


誰にもジュリアンの訃報は知らせられず静かに墓地に埋葬された。


例え訃報を知らせていてもジュリアンの人徳では参列者はいなかっただろう。


アロンゾが葬儀の後にクロエに零した。


「彼奴が電車に飛び込んだのは彼奴が今まで生きてきた中で一番の善行かも知んねえな」

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ブラックホール Jack Torrance @John-D

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