二・薔薇姫とペンペン草姫
005. 空を舞う花びらを捕まえて
廊下をドタドタと駆ける音が聞こえる。彼女が来るまで、あと六秒。
「フィフィ姉さまっ! おはようございます。朝ですよー!」
「ええ、おはよう。いい朝ね。ところで貴女、起きるのが早すぎるのではなくって?」
太陽がほんのすこしだけ顔を出している、肌寒い春の
彼女がベッドの上の私に抱きつくと、たわわな胸が顔に当たって息苦しい。育ち盛りの彼女は、年下のくせに私より豊満な胸を持っていた。羨ましくって妬ましい。
「邪魔よ、離れなさい」
「はい、姉さま。ごめんなさい」
義妹は唯々諾々と私から離れた。幼い頃よりも美しく成長した彼女は、今日も私には眩しすぎる。
腰まで伸びた艶やかなローズゴールドの髪に、生命感と希望に満ちあふれる空色の瞳。
なだらかな丸みを帯びた体は、悔しいことに、抱きしめられると触り心地が良かった。
認めたくはないけれど、彼女がいろんな人に愛されるのもわかる気がする。
「今日から貴族学院に通えるんだって思ったら、嬉しくなってしまいまして。昨夜は眠れなかったので、ずっと姉さまのことを考えていました。えへへっ」
「大口を開けて笑うのはおやめなさい。はしたない。……入学式での挨拶の準備は、きちんとできているの?」
「はい、完璧です!」
「そう。ならいいわ」
私がバルトロメオ王太子殿下の婚約者になってから、かれこれ十年の月日が過ぎた。
二度目の殿下と私の関係は、一度目の世界よりも良好だった。必要最低限の会話だけを交わし、業務連絡以外の手紙は一通も送らない。
私は彼に恋をすることもなく、悪感情を抱くこともなく、ただの婚約者、あるいはクラスメイトとしての日々を過ごした。
彼に愛されることをきっぱり諦めた今の人生の方が、過去より嫌われていない気さえする。
先日十四歳になった義妹は、前の人生と同じように、成人の儀式の際に「聖女の〝才〟あり」と告げられた。父と継母は大喜びだった。
家族関係も、一度目の世界と比べたら良好だ。虐げられてはいるけれど、これまでにつけられた傷の具合は、一度目よりはずっとマシ。
義妹はいつも私によくしてくれて、彼女のおかげでお仕置きから幾度となく逃れられた。彼女絡みの理由でお仕置きされることもあったけど、まあそれはそれとして。
彼女が望んだから、私も一階のホールで共に食事をとることを許されるようになった。
父と継母からの愛は相変わらず感じられないけれど、一緒にいる時間が増えただけで、少しは家族らしくなれたように思う。
心から愛しているとは言えずとも、特に公爵は血の繋がった親だ。こう、存在を許されると、ほっとする。
体の具合についても、前の人生と同じように進んだ。私は殿下と婚約してから、だんだん健やかになっていった。
義妹と比べたら今も不健康ではあるものの、日常生活は問題なく送れる程度になっている。
巷では、彼女は大輪の
彼女は王宮にも咲く立派な花なのに、私は雑草なのね……と。初めて聞いたときは苦笑したけれど。実際に体型はそんな感じだ、文句は言えない。
義妹は私の手をとり、指を絡めて繋ぎ合わせる。互いの手がいやに密着するその行為の気恥ずかしさに、未だ私は慣れていない。
こんな手の繋ぎ方は、二度目の彼女に出会うまで知らなかった。
万が一にも頬が赤くなってしまっていたら、彼女に知られたら。それが嫌だから、私は彼女から顔を背ける。
「フィフィ姉さま、愛してます」
「それは、どうも」
彼女は甘い声で、私に愛を囁いた。彼女に心を掻き乱されるたびに、私は平静を装うのに必死になっている。
冷たい返事をするのに努力を要する日が来るなんて、数年前までは思ってもみなかった。
「姉さまも私のこと好きですか?」
「いいえ、嫌いよ」
私の口は、今日も彼女を拒絶する。手のひらは一分の隙もないほどに触れ合っていても、彼女を愛せる心は持ち合わせていない。
私は今日も、義妹のことが嫌いだ。
学院の入学試験で首席をとったことも気に入らない。私より胸が大きいことも気に入らない。
彼女のことなんて、大嫌い。
義妹はしばらく沈黙して、私の手のひらをいじり続ける。くすぐったい。
なぜ何も喋らないのだろうと彼女の方を見やると、にやりと笑われた。
「その冷たい視線も大好き。ふふふっ」
「……着替えるから、出ていきなさい」
「はーい姉さま。ではまたあとで」
いくら就寝中や寝起きの無防備な顔を毎日のように見られていても、彼女の前で脱ぎ着する気にはなれない。何をされるかわからなくて怖いもの、と。私は彼女を追い返す。
無事に彼女が部屋を出たのを見た後で、ベッドからおりた。
着替えようと服に手を掛けた瞬間、なぜかガチャリとドアが開き、私はぴたりと手を止める。
入ってきたのは、もちろん義妹だ。いったい何をしに来たのだろう。
「着替えるって言ったでしょう。勝手に入ってこないで」
「はい、すみません」
「謝るくせに、出ていってはくれないのね。どうしたの? 何か用があるのなら、早くしてちょうだい」
「忘れ物しました」
「忘れ物って――んっ」
私の問いかけは、彼女の唇によって遮られた。
忘れ物。たしかに私も、今日はすっかりその存在を忘れていた。
彼女は唇を離すと、いつも嬉しそうに笑う。キスの後には必ず顔が熱くなってしまうのが、私の現在の課題のひとつだ。
もてあそばれているようで悔しい。私だって、キスくらい余裕で済ませられるようになりたい。そもそも彼女に口づけられない方が嬉しいけれど。
「おはようのキス、忘れてました。じゃあ、またあとで」
「ええ、そうね」
私は歯ぎしりをしながら、大嫌いな義妹に頷く。
今日も避けられなかった。今日もキスされてしまった。悔しい。明日こそは、私が彼女を出し抜いてやる。
義妹は、私にキスするのが好きらしい。
〝おはようのキス〟と〝おやすみのキス〟はタイミングが予想できるものだから、できる限り対策をして避けてきたのに、最近は私の負けが続いている。
もう何日間連続で、彼女とキスしているのだろう。
義妹のことは、大嫌い。勝手にキスしてくるから嫌い。
私の心を乱していく、貴女のことが大嫌い。
このベガリュタル国には、春に薄紅色の花をつける木が生息している。
数え切れないほどの小さな花が木の枝を飾り、舞い散る花びらは新生活の幕開けを祝福する。
義妹のワガママにより、私はやむなく彼女と一緒に登校することになった。
手を繋いで歩く私たち姉妹には、先ほどから学生たちの視線が鋭く刺さり、好き勝手にひそひそと噂話をされている。
今年から貴族学院に入学する、聖女の素質を持った大輪の薔薇姫。
貴族学院の三年生で王太子殿下の婚約者の、道端のペンペン草姫。
学生たちは義妹の美しさを賛美し、きっと何人もの男が彼女に見惚れていた。
朽葉色の髪に灰色の瞳という地味な色彩の私は、完全に義妹の引き立て役だ。
「姉さま、これ」
「……なに?」
彼女が私に声を掛け、指先でつまんだ何かを見せる。
それは、一枚の薄紅色の花びらだった。いつの間に拾っていたのだろう。
「これ、姉さまにあげますね。学生手帳の間に挟んでおきましょう。ちょっと貸してください」
「なぜこんなものを私が持っていないといけないのよ。いらないわ」
「知らないんですか? サクラの花びらを空中で捕まえられると、幸せになれるんですよ」
「サクラとやらは知らないけれど、それなら貴女が持っていなさいよ」
「……じゃ、今は私が持っておきます」
義妹はするりと私の手をほどいて、胸ポケットにある学生手帳を取り出した。今のうちに、と私は早足で歩いていく。
「ちょっとフィフィ姉さま。置いてかないでくださいよ」
「貴女、足速いわね」
私が義妹から離れていられた時間は、ものの四秒にも満たなかった。
彼女は学生手帳を胸ポケットに戻し、また私と手を繋ぐ。
私は逃げたので見ていなかったけれど、そこにはあの花びらが挟まれているのだろう。
この花を、彼女は先ほど「サクラ」と言っていた。初めて聞く言葉だ。異国語だろうか。
頭の良い彼女のことだ、何かの本で読んだ知識をひけらかしてきたのかもしれない。いやらしい子だ。
「フィフィ姉さま」
「なによ」
「好き」
「ふざけたことを言うのは、家の中だけにしてほしいわ」
今に、彼女が私に愛を囁くことはなくなるはず。
学院に入学した後、彼女はバルトロメオ殿下に恋をして、彼を愛するようになるはずだから。
今はまだ姉離れできていないだけで、きっとすぐに私から離れていく。
今は私と繋いでいる手を、彼と繋ぐようになるのだろう。
私に落とす口づけは、彼と交わすものと変わるのだろう。
それは前からわかっていたことだ。べつになんとも思わない。
私は、彼女と彼の仲を応援できるはずだ。
学院に到着した私たちは、まず、自分たちの所属クラスがどこになるのかを確認した。
新入生も在校生も、クラス編成を知るのは今日になっている。
とは言っても、一、二年生は試験の成績順に分けられ、三、四年生は進路希望調査に基づいたクラスに配属されるから、ある程度は予想できるもの。
義妹は前の人生と同じように、第一学年の
一、二年生は成績順に、
こちらは特に問題ない。
私は前の人生とは違って、
だから、それに関しては予想通りだったのだけれど……ひとつだけ、思ってもみなかった事態が起きていた。私は己の目を疑う。
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