003. 聖女を目覚めさせる〝愛〟

 朝食抜きで迎えた昼時。私はひとり浴室へ向かい、シャワーのコックをひねる。豪雨のように肌を打つ水は、ふくらはぎの傷に痛かった。血の赤色はゆらゆらと水に溶け、排水溝に流れゆく。


「フィフィ姉さま、大丈夫?」

「大丈夫もなにも、貴女のせいでこうなっているのよ」


 ずけずけとここまで追いかけてきた義妹は、いかにも心配そうな顔で私を見た。私は彼女に冷たく刺々とげとげしい返事をする。


 この両ふくらはぎの傷は、カルラ夫人――現公爵夫人である継母につけられたもの。カルラ夫人は妹の実母でもある。

 赤毛に藍色の瞳という華やかな色と豊満な肉体を誇る、貧民街生まれの元高級娼婦だ。


 私に言わせれば、魅力にあふれるのは見た目だけ、男を惹きつけることしか能が無い。母の後釜になった癖に公爵家の女主人に相応しい教養が露ほども無いことから、私がこの世で二番目に嫌う女であった。一番嫌いなのは、もちろん義妹だ。


 今日の夫人は、私と義妹が一緒に寝ていたことにご立腹らしい。お仕置きと称して、朝から私のふくらはぎを鞭で滅多打ちにしてくれた。こんな母親にはなりたくない。私に結婚の予定はないけれど。


 メイドたちもまた悪質だった。


『オフィーリアお嬢様がイラリア様を誘拐して!』

『お嬢様の部屋に軟禁して!』

『ベッドの中でイラリア様に破廉恥なことを……!』


 などと騒いで、事を大きくしてくれた。私は誘拐も軟禁も破廉恥な行為もしていない。とんだ言いがかりだ。

 中身はどうであれ、この世界の私はまだ六歳児。もっと優しくしてほしい。叶わないだろうけれど。


 このように虐げられることは、一度目の人生でも二度目の人生でも、決して今に始まったことではない。あの四月四日より前から、私はとうに継母とメイドから嫌がらせを受けていた。

 一度目の人生の三歳頃には、真冬に冷水を浴びせられ、地下室に一晩放置されたり。一度目も二度目も昨年の夏には、火のついた葉巻を背中やお腹に当てられ、火傷させられたり。他にもいろいろと。


 悪いのは、どう考えても大人たち。とは言え、義妹が私の部屋に来なければ、今日の私は鞭で打たれなかったかもしれない。ごはんだって食べられたかもしれない。


「使用中の浴室に来るなんて、貴女こそ破廉恥よね。それとも加虐趣味でもあるのかしら? 傷つけられた姉の姿を、そんなにも見たくって? 悪趣味ね」


 ただひとり私を気遣ってそばにいてくれた義妹を咎めるのは筋違いだと頭では理解しつつ、私の口は嫌味を吐く。ただの八つ当たりだ。

 悪いことをしている自覚はあったが、この不満を吐き出す先を、私は他に知らなかった。いじめたくないと頭では思っていても、過去の人生経験のせいで彼女への嫌がらせに慣れすぎていて、姉らしく優しくしてやることができないのだ。


 人が変わるのは難しいこと。今まさに実感している。


「ごめんなさい。フィフィ姉さま」

「悪いと思うなら、もう私に関わらないでほしいわ。帰りなさい」


 ……わかっている。小さな妹が姉の後を追いかけるのは、姉妹として普通のことなのだと。この家の環境が普通でないとしても、だ。彼女は何も悪くない。


 私さえ普通の姉らしく振る舞えれば良いのだから。私さえ我慢できれば良いのだから。できない私がすべて悪い。


 お仕置きのことだって、本当は、彼女は何も悪くない。彼女が私に近づいてこなかった一度目の人生でだって、私は他の理由で痛めつけられていた。


 義妹は、なぜか前の人生よりも〝いい子〟で。ちょっとやそっとじゃ泣かなくて。彼女を冷たくあしらうことをやめられない、私とは違う。私がこんな目に遭うのは、やっぱり私のせいなのだ。


 悪いのは、愛される才能のなかった私。美しい見た目で生まれてこなかった私が悪い。健康な体で生まれてこなかった私が悪い。

 人に優しくできない、自分勝手で傲慢な生き方をした私が悪い。義妹を殺した私が悪い。自己嫌悪で心が潰れそうになる。


「……フィフィ姉さま、ちょっとここ座って?」


 淀んだ気持ちになっていると、義妹はそう言って浴槽の縁を指差した。幅が細くて安定感がなく、点々と水滴もついている。私は首を横に振った。


「嫌よ。スカートが濡れるじゃない」

「いいからいいから。お願い、姉さま」


 いったい私を座らせて何がしたいのか。義妹はうるうると瞳を潤ませて私を見てくる。あざとい子だ。


 かわいこぶったって私には通じない――と言いたいところだったけれど。先ほど八つ当たりした申し訳なさから、彼女に抗う心はあっさり折れた。完全に彼女の手のひらで踊らされている。


「仕方ないわね。座ってあげるわ」


 自分が妥協してあげたのだから感謝しろ。そう言わんばかりに尊大に振る舞って、私は浴槽の縁に腰掛けた。一方、彼女は私の足元にひざまずく。


「そこに座ったら、貴女のスカートも濡れるわよ?」

「うん、べつにいいの」


 彼女の瞳に合わせた空色のスカートの裾は、水に濡れてじわじわと色を濃くしていった。カルラ夫人に見られたら、また面倒なことになりそうだ。


 何かするつもりなら、早く終わらせてくれないかしら。じれったく思っていると、義妹の手が私の足に触れた。私は思わず声を荒らげる。


「ねえ、ちょっと!」

「なに、姉さま」

「貴女は……仮にも、ハイエレクタム家の娘なのよ。公爵家の娘が、そんなふうに人の足に触れては――」


 元娼婦の娘と言えど、今の彼女の身分は公爵家の次女。公爵令嬢。他人の足に触れるなんて真似をして良い人間ではない。彼女は靴を履かせてもらうため、誰かの手を自分の足に触れさせる方の人間である。


 この社会において、他人の足の世話をすることは、その者が相対的に下位の身分であることを示すのだ。

 姉妹で年の差があるとは言え、その他にも様々な差があるとは言え、私と彼女はふたりとも公爵家の娘だ。こんなことをするのはおかしい。


 継母に見られたら、私が彼女を下等扱いしているとみなされる。まずい光景だ。


 姉として、ハイエレクタム公爵家の長女として。彼女がこの家の娘に相応しくない振る舞いをするならば、咎めなくては。

 そう思って開かれた口は、言葉を最後まで発することなく固まる。目の前に広がる衝撃的な光景に、私は声を出せなくなった。


 こともあろうに彼女は、私の足の爪先に口づけたのだ。


「ごめんね、フィフィ姉さま。ラーリィのせいでおケガしちゃったね」


 怪我のことなんて、今やどうでもいい。この程度の傷は、衛生に気をつけていれば治るのだ。本当にどうでもいい。彼女の唇が私の足に触れていることこそが大問題で、事件だった。


「ごめんね。ラーリィがちゃんとしてなきゃなのに、こんな目にあわせて、ごめんね。これからは、ちゃんとがんばるから」

「なに、貴女が姉みたいなこと、言っているのよ。そんなことより、早く足から手を――」

「ちょっとだけ待って。フィフィ姉さま」


 義妹の手が、私の傷口の上を滑る。いったい何をしているのか。いつまで待てばいいのか。早く、早く……。


「お願い、治って」

「……っ!?」


 義妹の呟きとともに、触れられた部分が温かくなった。彼女の手から、ぱぁぁっと白い光が放たれる。


 それは、足への口づけ以上に信じられない光景だった。まさか、こんなことがあり得るのだろうか。


「――これで治ったかな。フィフィ姉さま、もう痛くない?」

「……痛くはない、わ」


 ふくらはぎは、もうちっとも痛くなかった。わざわざ見ずともわかる、彼女はで私の傷を治したのだと。


「そっか、良かった」


 義妹は私の足から顔を離し、すっくと立ち上がった。そして人差し指を唇の前に当て、にっこり笑う。


「ないしょだよ」

「えっ、ええ。もちろん」


 私がこくこくと頷くと、彼女は手を振って浴室から去っていった。継母の悲鳴に、彼女があっけらかんと「ラーリィね、水あそびしてたのー」と答える声が遠くに聞こえる。


 いったい、なぜ……。私の頭の中は混迷を極めていた。


 彼女が私に施したのは、きっと癒やしの魔法だ。


 数百年前に魔法つかいが滅びたとされるこの世界において、魔法は神に愛されし〝聖女〟と〝勇者〟しか使えない特別なもの。

 癒やしの魔法の力を持つ女は〝聖女〟と呼ばれ、火、水、地、風のいずれかを操る魔法の力を持つ男は〝勇者〟と呼ばれる。


 一度目の義妹は十四歳の成人の儀式の時に、神殿で「聖女の〝才〟あり」と告げられた。人々は皆、成人の儀式の際に初めて自分の〝才〟――神の寵愛なる素質の有無を知る。素質を持ったうえで覚醒条件を満たした者だけが、聖女や勇者となれるのだ。


 彼女は十四になってすぐの春に入学した貴族学院で、癒やしの魔法を発現、聖女の〝才〟を花開かせた。

 彼女の力を目覚めさせたのは、私の婚約者だった、バルトロメオ王太子殿下だった。


 聖女の覚醒条件は〝愛〟を知ること。


 ある日の学院での昼休み中、友人と剣術の模擬試合をしたバルトロメオ殿下は、相手の木剣で怪我をしてしまった。そんな彼に癒やしの魔法をかけたのが、私の義妹だ。その時に、彼女が彼を愛していることが皆に知られた。


 聖女が初めて力を発現させるのは、彼女が愛する者――彼女を覚醒させる愛の相手、その目の前でのこととされている。

 彼を愛していたから、彼女は癒やしの魔法を使えるようになり、真に聖女となることができたのだ。


 かつてのバルトロメオ殿下は、義妹からの愛に心打たれたようだった。彼女は目に見える形で彼への愛を証明したのだ。彼が彼女に惹かれるのも致し方ないことだとは思う。

 そのうえ噂に聞いたところでは、以前から彼と彼女はいい感じだったらしい。出会ってすぐに惹かれ合うなんて、ふたりは運命の赤い糸とやらで結ばれていたのだろう。殿下のもとに婚約者わたしがいなければ、完璧な美談だったのに。


 つまり――ある女が〝聖女〟として癒やしの力を開花させるためには、〝愛〟を知っている必要がある。

 これは家族愛や友愛では駄目で、生涯をともに歩むパートナーにしたいと望むような、唯一無二の愛でなければならない。

 義妹のそれは、かつてバルトロメオ殿下に向けられたものだった。


 今の彼女は、まだ彼には出会っていないはず。だから彼を愛しようがない。けれども現に聖女の力を目覚めさせている。

 まだ〝才〟の有無を告げられてもいない彼女が自分の力の存在を自覚していたことに加え、私にその力を使えたことが奇妙だ。

 二度目の彼女は、一度目よりも早く愛を知ったということなのだろうか。もしもそうならば、相手は誰なのだろう。


 現在四歳である義妹が関わったことのある人間は、この屋敷に出入りする者だけだ。

 ハイエレクタム公爵、カルラ夫人、彼女付きの侍女長、他の侍女、メイド、料理人、下僕、家庭教師、庭師、その息子……。順々に想像してみるも、誰も彼もしっくりこない。思いつく限りすべての人物を当てはめ、何度も首を傾げた。


 最後の最後に自分のことを考えてみた私は、大変な可能性に気づき、一瞬思考を停止させる。


「……まさか、ね」


 思わず呟き、ひとり乾いた笑いを上げる。


 彼女に何度かキスされたことがあり、「好き」だともしょっちゅう言われ、彼女に癒やしの魔法をかけてもらった――ということを踏まえると、もう私が彼女の愛の相手ではないかと思えてきたのだ。


 こんな馬鹿げた可能性を候補に数えるなんて、私ったら疲れているのかもしれない。きっと考えすぎたのだ。

 浴槽の縁に腰掛けたままぼんやりしていると、ひとりのメイドがやってきた。


「オフィーリアお嬢様」

「あら、どうしたの?」

「明日のご予定について、お知らせに。明日、お嬢様は、旦那様とご一緒に登城なさることになっておいでです」

「あら、そう。教えてくれてありがとう」

「はい。また、旦那様から『さすがに一食くらいやっておけ。陛下の前で倒れられたら敵わん』とも。というわけで、ご夕食はございます。では、失礼いたします」


 伝言を終えると、メイドはさっさと浴室から去っていった。なるほど、夕食はもらえるようでありがたい。

 さて、何のための登城だろう。前の人生のことを振り返る。六歳の私、初めての登城、この日は……。


「はぁー……」


 思い出すや否や、ため息をついた。


 一度目の世界の同日その時は不安と期待で胸がいっぱいになった私の心も、此度はそうは動かない。なんなら面倒くさいし行きたくない。再び大きくため息をつく。


 もしもまた前の人生と同じように進むのならば、明日、私はバルトロメオ王太子殿下と会うはずだ。良くも悪くも、私の生き方が大きく変わった日である。


 ――ああ、駄目ね。


 頭を冷やそう、と。私は浴槽の冷たい水に体を落とした。シュミーズドレスが肌に張りつく。水を吸ってずんと重くなる。

 いっそこのままもっと沈んでしまおうかと一瞬思ったけれど、やめにした。溺死は苦しそうなので。


 ――明日。明日は、余計なことをしないようにしよう。今度の人生では、人の道を踏み外さないようにしよう。


 過去のあの日から義妹にしてきた、嫌がらせの数々を思い出す。ひとつ、ひとつ、胸に反省の言葉を刻んで。


 私は本当に馬鹿だった。


「……ごめんなさい」


 申し訳ないと感じたのは、私を生んでくれた母にであって、義妹にではない。まだその域には至れない。過去の彼女への「ごめんなさい」なんて、とても言えない。


 今度こそ、空の上から見守ってくれているであろう母に恥じない生き方をしよう。あらためて決意した。


 彼に――バルトロメオ殿下に愛されることを夢見たかつての私に、別れを告げる。涙がこぼれたのは、ただ懐かしかったせいだ。無邪気だった、幼かった私のことが。


 誰かに愛されたい。その望みが叶わなかったことへの悔しさからでは、決してない。悲しいなんて、思っていない……。


 ――さようなら。殿下――

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