一・籠の中の幼女様
002. 義妹と一緒に眠る夜
「フィフィ姉さまっ!」
薔薇色の髪をふわふわと
「……何の用?」
あれから二年と数ヶ月の時が過ぎて、私は先日六歳の誕生日を迎えていた。
未だに原理も理由もわからないけれど、聖女殺しの罪で処刑された後、私は過去へと巻き戻ったらしい。
あの悲劇の十三年前から始まった新しい世界で、私は過去の人生と同じように、体調の優れない日が続く幼少期を生きた。
「姉さまに、おみまい! はい、どーぞ!」
私の冷たい声色に怯え泣くことなど一度もない、それどころか楽しげに話しかけてくる義妹。図太い子だ。彼女は満面の笑みで堂々と、私に雑草を差し出した。
汚い草をもらった私は、はてさて笑えばいいのか、怒鳴ればいいのか。かつての私なら後者を選んだだろう。
この私の手を土で汚すなんて命知らずね、ふざけないでちょうだい。とでも叫んで……。
「うふふ。あのね、姉さま」
視界の端で、義妹はきらきらと笑っている。直視しなくてもわかるほど輝かんばかりに。私はそれを無視した。
良くも悪くも、彼女に反応したくない。私にとっての彼女を、もうどうでもいい存在にしてしまいたい。
が、しかし、彼女がずっと笑うから。花粉のように、にこにこにこっという陽の気が飛んでくるものだから……。無視し続けるのもむず痒く、渋々返事した。
「……なに?」
「お花。ちゃんと見てほしーの」
「そう……お花ですって?」
この雑草を花と呼ぶとは、義妹の頭はお花畑なのだろうか。ああ、そういえば、そうだった。お花畑でなければ、殿下を誑かして私から奪うことなどできるはずがない。
私の死後、あの世界で。この国は、民は、どうなってしまったのだろうと。
知る由もない世界の行く末を頭の片隅で案じつつ、お花、ねぇ。と半ば呆れた心持ちで雑草を見る。どう見ても土まみれの草だ。
ふいに義妹はこちらへ手を伸ばし、「あ。逆さまだったみたい……」と恥ずかしそうに、私の手にある雑草の向きを変えてみせた。そこで私は目を凝らし、やっと気づく。
雑草の先には、小さな花がついていた。白、黄色、薄紫色……。彼女からの贈り物は、ただの雑草ではなく、野の花だった。こうして顔を近づけてみると、葉っぱや土の匂いもよく感じる。
――久しぶりね。この匂い。
母亡き後の寂しい公爵邸での生活でもない、寒く痛々しい牢獄生活でもない。思い出すのは、貴族学院での薬草学の授業のことだった。
薬なしには生きられなかった私にとって、あの授業は心惹かれるもので。初めて触れる薬学の世界は面白かった。
妃教育の邪魔になるからと、学院に入学するまでは、医学書や薬学書を読むことは禁じられていたから。新鮮だった。楽しかった。
義妹に婚約者を奪われ、バラバラにされて終わった、最悪だとばかり思っていた成人後の人生にも。欠片くらいは――楽しさや喜び、幸せも、あった。
私は義妹を真っ直ぐには見られないまま、ぽそりと呟く。
「お花……ありがとう」
「えへへっ、どういたしまして! そうだっ、花瓶にいれたげるね」
サイドテーブルにある花瓶をそそくさと抱え、義妹は隣の部屋かどこかに姿を消した。そして「おまたせ!」とすぐに帰ってくる。元気なこと。
ずっと空っぽのままだった花瓶に、初めて花が活けられた。
「姉さまのおてても、ふいてあげるー」
「べつに、私なんかに構わなくていいのよ」
花瓶の準備ついでに濡らしてきたらしいハンカチで、義妹は私の手を拭きはじめた。丁寧に、丁寧に。ちょっと触りすぎじゃないかしらと思うくらい。
「ねえ、貴女、も――っ!?」
もう離してと言いかけた唇は、彼女の唇に塞がれた。
「ふふふ。ちゅーしちゃった」
「…………」
二度目の義妹は、一度目よりも馴れ馴れしい。彼女に馬乗りにされてキスで目覚めたあの日に、平手打ちをしなかったからだろうか。
冷たい態度を貫く私に臆することなく、彼女はいつも天使のようなにこにこ笑顔で構ってくる。時にはキスまで仕掛けてくる。
今日は不意打ちだった。避けられなかった。……悔しい。
「早く部屋を出ないと、また叱られるわよ」
「フィフィ姉さまは、私のことがお嫌い?」
「ええ、嫌いよ」
いくら構われても、私は彼女を好きになれない。かつて殺意にまで育った憎しみの根は、死んで二度目の人生を始めただけでは絶えてくれないのだ。
彼女を殺めたその日よりは落ち着いているけれど、今でも彼女を憎んでいる。願わくは死んでくれと。
再び手にかける気は起こせないから、事故か病気で死んでしまえばいいとただ願う。
惨い死に方は可哀想だから、今度は眠るような死か、苦痛を味わわない即死であれと。
どうか安らかに、穏やかに死んで――。
何度も「嫌い」と言っているのだから、もう諦めてくれればいいのに。こんな義姉にいつまでも愛嬌を振りまくなんて、義妹も物好きだ。
見舞い客のための椅子に、今日も彼女はちょこんと座っている。もはや義妹専用といっても過言ではない椅子だ。床に届かない足をパタパタさせ、楽しそうに彼女は笑う。
その美しい瞳で、私を見ないでほしい。心が自傷に走るから。自ずから比較して落ち込むから。みすぼらしさを感じて惨めになるから。
貴女の瞳から光を奪った過去を、思い出してしまうから。
「ラーリィは、姉さまのこと好きだよ」
「あら、そう」
「姉さまのごびょーき、はやく治るといいね」
「ええ、そうね」
「ラーリィといっしょに、ご本よむ?」
「読まないわ」
「あのね、きのうよんだご本はね、うさぎさんのお話で――……」
私のそっけない返事など聞かなかったかのように、義妹は物語をかたりはじめる。
おしゃべりな桃色の唇を眺めつつ、過去を思いつつ、私は彼女の声を聞く。
小さな義妹の頭の賢さも、その幼い心の強かさも、娯楽小説とは何たるかも。二度目の人生で初めて知った。一度目の人生の私は、きっと自分が思うより無知だったのだ。
幼い頃は今のように、病気のせいで部屋に籠もりきり。家庭教師から読み書きは習えても、公爵邸の図書館に行けるほどの体力はなかった。
王太子殿下の婚約者に選ばれてからは、妃教育に必要な書物にだけ触れてきた。
詩歌と神話は学べたものの、虚構の物語は低俗だからと禁じられた。流行りの小説などもってのほかで、医薬学の件しかり、禁じられるばかりの人生だった。
彼の婚約者として、学生として、健全に、貞淑に、清廉に、真っ当に、
ずっと、ずっと――王妃になるために生きてきた。
国母となる者、この国で最も賢く、強く、身も心も美しい女性であれ。叩き込まれてきた。義妹の優秀さを知ってからは、彼女より優れた女にならなければと必死だった。
未来の王妃としての地位を盤石にするため、時には力を振りかざして。私や殿下を邪魔する者は掃除して。
そんな私は、いつしか前王朝の〝殺戮女王〟の再来と恐れられる〝極悪令嬢〟になった。もっとも、私が殺したのは生涯ただひとり、義妹だけだったけれど。
殿下の隣を歩む未来の妃ではなく、彼を正面から脅かす敵と見なされた。端的に言えば、殿下から嫌われ、悪女らしく仕立て上げられた。
……本当に、悪いことも、したけれど。でも。
「――それで、うさぎさんは、お母さんうさぎとの約束をやぶっちゃったの」
破られた約束――殿下との婚約。
あの日言われた蔑みの言葉が、突然に。ぱっと脳内に現れ、耳を
『お前はイラリアと違って――』
冬の聖夜祭の日に、大衆の面前で女としての価値を否定された時の。あの虚しさと言ったらない。
「うさぎさんは『ごめんなさい』って反省するんだけど、神さまが――……あれ? フィフィ姉さま、どうしたの?」
義妹は物語をかたるのをやめ、椅子からおりて私のそばに寄る。「ハンカチ……は、びしょびしょ……」と困った顔をして、私の頬を直に触った。彼女の手は小さく、やわらかい。
「フィフィ姉さま、どうして泣いてるの? どっか痛い? お熱あるの?」
「え……?」
義妹に言われて、ようやく自分が涙していることに気づいた。
婚約を破棄されたのは過去のこと。ここではない世界のこと。
あれから過ごした時間から考えても、もう二年以上前の出来事なのに。未だに私はその傷から立ち直れていないらしい。本当に……愚かな女だ。
彼女はベッドの上によじ登り、私の額と自分の額とをコツンと合わせた。空色の瞳が近すぎて、胸がムカムカする。この感情の名前は知っている。嫌というほど付き合った。これは嫉妬だ。
なぜ彼女は、こんなにも美しい色を持っているのだろう。私の瞳は曇っているのに、なぜ彼女の瞳は晴れ渡っているのだろう。
羨ましい。憎い。嫌い。死んでほしい。
……私も、誰かに愛されたかった。
醜い感情が胸を渦巻く。彼女への憎悪が、体の内側から、この身を燃やしていくようだった。
ああ、嫌だ。前の人生も含めれば二十年は生きているのに、こんなにも感情を制御できないなんて。
再び彼女を傷つけたいと望んでいる自分になど、気づきたくなかった。もう消えてほしい。いなくなってほしい。
もう、全部、全部、終わってしまえ。
「うーん。お熱はなさそうだね?」
「……れて」
「ん? なに、フィフィ姉さま」
「私から、離れて! 貴女の顔なんて二度と見たくない!」
これ以上は見ていられず、彼女をぐっと押しのけた。反動で、貧弱な腕に痛みが走る。彼女はベッドを転がり落ちて視界から消える。頭でも打ったのか、ゴツンと大きな音がした。
痛み、音、ベッド、死。連鎖して。幼い自分の両の手に、私は幻の赤を見る。
「あっ……」
彼女に触れ、彼女を倒れさせた。あの時を。短剣を突き刺した時の感覚を、生々しく思い出す。血の匂いまでも感じるようだった。
私が義妹を殺した日。気づいた時には両手が血まみれだった。
ぬるりとした生温かい血液は、しだいに温度をなくして。恐怖に心臓はひどくはやく脈打って、体はじっとりと汗ばんだ。
彼女の白い夜着に、赤い色がみるみるうちに広がっていく。
美しい顔を苦痛に歪めて、浅い呼吸を繰り返して、口から赤黒い血をこぼして――彼女は、笑った。
私が初めて正面から見た彼女の笑顔は、彼女の死に際の顔だった。
何かを言おうとしているようにも見えた彼女を置いて、私は逃げた。そうして彼女は、私に殺されたのだ。
床に倒れた小さな義妹が、体を起こす。きょとんと私を見上げる。
今度は無事なようで何よりだ。でも……。
打ちどころが悪ければ、彼女は、また死んでいたかもしれない。私の手は、また彼女を殺そうとしたのかもしれない。
自分のことが、にわかに恐ろしくなった。
「……あぁ、あ」
「フィフィ姉――」
「あっ、あ。ごめ、なさい。ごめんなさい。ごめんなさい!」
過去の私の所業は、謝っても許されるものではない。頭では理解している。けれど口は狂ったように、許しを求める言葉を吐いた。
「ごめっ、さ、ごめ、なさい。わたっ、し。ごめ、っ……」
うまく息が吸えなくなって、喉がひゅーひゅーと鳴る。また、おかしな発作だろう。また苦い薬を飲まないといけなくなる。
かつては思っていた。なぜ私が、こんなに苦しい思いをしなければならないのだろうと。理不尽だと。けれど今なら、そんなことは思わない。
これは、罪深い私に相応しい罰なのだ。天罰だ。そうとしか考えられなくなっていた。
どんなに苦しんでもまだ足りない。彼女を殺した罪は消えない。
義妹が血相を変えて、部屋を出ていく。走っていく後ろ姿が憎らしかった。走れる彼女が羨ましかった。
バタバタと慌ただしく、わざとらしく、メイドや侍医がやってくる。
私は、いつも――ひとりだった。母さまが亡くなってから、この家に味方なんていなかった。
私の世話は死なない程度の最低限で。継母はしょっちゅう私を打って、殴って、蹴って、メイドにも同じことをさせて。
登城するときだけ綺麗にされる、王妃にさせるためだけに生かされ続けた、ハイエレクタム家のお人形。それが家での私。
でも、そんな私でも。なぜか二度目の世界は、ひとりじゃなくて。義妹だけは、なんでもない私のそばにも、来てくれて……。ああ。
なぜ、貴女なのだろう。
他の誰かであれば、私は、その人に甘えられたかもしれないのに。自分の罪深さを、これほどまでには感じずにいられたかもしれないのに。
まあ、私が誰かに気にかけてもらえるなんて、あり得ないと思っていたけれど。貴女が私に構ってくることさえ、予想外だったのだけれど。
私のことなんて、貴女が心配してくれる必要はないのに……。
おろおろしている義妹を視界の端に見て、ぷつん、と。意識は途切れた。
目覚めた時には、すっかり夜になっていた。
見舞い客の椅子にまた義妹がいる。彼女の頭は、かくんかくんと船を漕いでいた。椅子から落ちずに眠れる平衡感覚には感心するが、これでは安眠できないだろう。
普段の彼女ならとっくにベッドで寝かしつけられているはずの時間だ。もしや自分の部屋から抜け出してきたのだろうか。
「貴女、ここで何をしているの?」
小さな声で問いかけると、彼女は顔を上げて目元をこすった。とろんとした瞳を見て、つい可愛いと思ってしまう。どうしようもなく、ものすごく悔しくなった。
彼女が可愛いのは見た目だけ、妹としてはまったく可愛くない、可愛いと思ったのは母性本能のせい。そう自分に言い聞かせて気を紛らす。
「うーん……あれぇ? ふぃふぃねえさま、おきたー?」
「ええ、起きたけれど」
「そっか、よかったぁ。らーりぃとおはなししたあとに、ひゅーひゅーなっちゃったから、しんぱいで……」
義妹はのろのろと椅子からおりて、ベッドの上にやってきた。私の体にひっつくと、またうとうとしはじめる。
「病気が伝染るわよ。自分の部屋に帰りなさい」
「ふぃふぃねえさま、だいすき」
「会話になってないじゃない」
「すきぃ、だいすき……」
「もう、本当になんなのよ。ちょっと、勝手に入ってこないで――って、もう寝てるのね……」
義妹は私の布団に無理やり入り、すやすやと寝息を立てはじめてしまった。
怯えの色が見えない幼い寝顔は、なんというか、今も見慣れない。もぞりと動いた拍子に髪を咥えてしまう姿も、だらしなくて、見ていられない。
まったく、この子は……。むにゃむにゃと薔薇色の髪を食む小さな口元へと手を伸ばし、そっと、毛束を外に出してやる。
あの忌々しき小娘と添い寝だなんて、一度目の私なら発狂している。最悪だ。今の私だって嫌だった――の、だけれど。
「…………」
彼女を再び押しのけることも怖くてできず、先ほどの発作の影響か喉が痛くて大声も出せなかった私は、そのまま諦め放置を決めた。
ベッドがいつもより温かい、そのことにも慣れないで、むず痒さを抱えたまま。
ああ、眠れないわと身を起こし、ふと、サイドテーブルの花瓶に目を向ける、と。――あら……?
はっきりとは見えない。ただ、野花のシルエットは、ぐったりとしなっていた。
様子を見たくて顔を寄せると、ほんのり甘い香りがして。ぐらっとくる。なんだか眠たくなってきたかも……? と……。
ベッドに戻り、布団を被り、私は眠気に抗いながら悩む。やっぱり義妹なんかと一緒に寝たくない……。それは嫌……。嫌……、いや……、あ……そうだ、温石か何かだと思い込めば……?
これはベッドを温めるための無機物であって義妹ではない。彼女を彼女だと思わないように努力して、私は、再び、目を瞑る。
彼女のそばで眠りにつくのは、不本意ながら心地良かった。
二度寝までして、うつらうつらと微睡む朝。私はメイドの叫び声で目を覚ます。イラリア様が何々とメイドたちは騒いでいた。
ぼんやりした目で花瓶を見る、と。
義妹から贈られた野の花は、なぜか一晩の間にすっかり枯れていた。
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