聖女殺しの恋
幽八花あかね
聖女殺しの恋〈上〉死に戻り悪女が妹聖女のキスで目覚めたら
プロローグ
001. 聖女殺しと死に戻り
晴れた日の空の色が嫌いだった。
その色を見ると、大嫌いなあの女のことを思い出すから。
今日は、私が生きる最後の日。
朝、目が覚めて、鉄格子の向こうに広がる空の色を見た時。私はひそかに落ち込んだ。牢屋の外はひどく眩しかった。
真っ白な雪を踏みしめ、いよいよ処刑場へと向かう昼時。一歩一歩と進むたび、腰に繋がれた鎖が音を立てる。
昨晩まで降っていた雪の表面はお日様に溶かされて、きらきらと嫌な輝きを放った。まるで牢獄生活で薄汚れた私をあざ笑うように。
裸の足に、やわらかな雪の冷たさが刺さる。見物に来た民の視線も、声も、痛いほど身に刺さる。
「――聖女殺し」
「妹殺しの極悪令嬢」
「あの女がイラリア様のお命を――……」
冬の
長い長い道を歩き、やっと処刑場に着く。ここまで来れば、罵詈雑言も石も飛んでこない。広場の中央に造られた花型の処刑台の上に、ひざまずく。
国王陛下の代理として私を裁き、高台の席から最期を見届けるのは、昨年の冬まで婚約者だったバルトロメオ王太子殿下だ。
きっとこれが最後、彼と目が合う。
「これより〝
その若葉色の瞳は、今日も冷たい。私を見るときの彼の瞳は、いつもそう。彼が慈しみ、愛したのは、私ではなくあの女だった。
「……始めよう」
儀式が始まり、執行人が近づく。私は彼らの手を払いのけ「触れるな」と睨んだ。どうせ悪女として歴史に残るなら、この程度の身勝手は些末なこと。誰の手も借りず、触れさせず、自らこの身を処刑台に倒す。
これは最後の矜持だ。殿下の目の前で他の男に押し倒されるなど許せない。悪女だって乙女なのだから。
屋敷のベッドで眠りにつくときのように、静かに横になり死期を待つ。処刑の準備は進みゆく。彼の顔は、もう見えない。今の私に見えるのは空だけで。
この雨雲色の瞳は、最後の最後、彼女の青に侵される。
最後に見るのが晴れ空の色だなんて、大嫌いな義妹の瞳の色だなんて。なんて運の悪いことだろう。
もう見たくない。さようなら。
美しすぎた世界に別れを告げ、目を瞑る。一筋の涙が頬を伝った。
愛されなかった私なのに、妃になれず死ぬ私なのに。瞼の裏に見えるのは、殿下と一緒に過ごした日々で。
形ばかりの婚約者でも、彼の隣にいられる公務の時間が大切だった。彼が愛したのは、義妹でも。私は、ずっと……。
「散らせ」
彼の声。続くザシュッという音、四つ。
左腕、左脚、右脚、右腕。順々に失われる四肢は、それぞれ火、水、地、風の神に捧げられる。
そして最後。五回目の音とともに落とされる、この首は。愛と美と生命を司る女神様へ――……
――バルトロメオ殿下。
お慕いして、おりました――
命の潰える音がした。
聖女殺しの極悪令嬢は、こうして十七年の人生に幕を下ろす。
オフィーリア・ハイエレクタム――それが、私の名だった。
***
私は大罪を犯した。
人からも神からも愛される聖女を、義妹を、この手で殺めた。
殿下の婚約者の座を彼女に奪われた時、私の理性は瓦解してしまったのだと思う。
『オフィーリア・ハイエレクタム。貴様との婚約を――』
あの日より後の色のない日々のことを、私はあまり覚えていない。
世界はみんな灰色で、けれど、ときどき見かける義妹の姿だけは鮮やかだった。
彼女に深い嫉妬と憎悪の念を抱いていたことと、体調が優れずに寝てばかりいたことは覚えている。目を覚まして彼女への悪感情を募らせては、意識が途切れて眠りにつく。その繰り返し。
いつの間にベッドから抜け出せたのか、どこから短剣を持ってきたのかは、わからない。
気づけば私の両の手は血に染まり、彼女は虫の息だった。義妹以外の色を取り戻したのは、その時だ。
あの時すぐに助けを呼べば、義妹は助かったのかもしれない。けれど私は自分のしでかしたことが怖くなり、その場から逃げ出した。
後日、聖女殺害の容疑をかけられて手酷い尋問を受けた時にも、正直に答えはしなかった。答えられなかった、と言うべきか。
自分で自分が信じられなくて、彼女を殺めた現実を直視したくなかった。
やがて証拠が集まり、素直に罪を認めなかったために情状酌量の余地も与えられず、私に言い渡されたのは極刑。
四肢と首とを切り落とされ、五柱の神に身を捧ぐ――その死に様を五枚の花びらが散る姿に喩えた〝名無し花の贄〟となることが決まった。
ひとつ、ひとつ、バラバラにされていく体。失っていく感覚。熱いとさえ感じる強い痛み。
今まで経験したどの痛みよりも重く、酷く、激しい痛みに、まだ死にたくないのに早く死なせてくれと残りの全身が叫ぶ。たった数秒間が永遠に続くようだった。
今際の際の痛みの中で、義妹を殺した現実をやっと理解した。あの所業を初めて悔いた。
殺さなければ、良かった――。
そうして束の間の後悔の念を胸に、私は死んだ。死んだはず、だった。
――が、しかし、どういうわけか……。
バラバラになった記憶とともに目を覚ますと、至近距離に義妹の顔があった。
私の唇と、彼女の唇とが、ぴったりくっついて。そう、私たちはキスをしていた。
驚きのあまり目を見開き、私は固まってしまう。やわらかくて、あたたかい……?
私の唇をぺろりと舐め、義妹は瞼を開く。すると宝石のように煌めく瞳が露わになった。
淡いローズゴールドの髪と明るい空色の瞳は、いつ見ても華やかで美しい。ずっと羨ましくて仕方なかった色だ。
――どうして、私たち、こんなこと……。
長い睫毛をふさふさと揺らして瞬きし、義妹はゆっくりと身を起こす。その顔はものすごく小さくて、まるで子どもの頃に戻ったかのようだった。
視線を下へ落としていくと、顔のみならず体まで小さい。目の前にいる少女は、記憶に残る十四歳の彼女とはまるで違った。
特に胸は、信じられないくらいに真っ平ら。成長期真っ只中だった義妹なら、もっと、こう、豊満なはずなのに。
ベッドに横たわる私の上に、小さく愛らしい彼女は馬乗りになっている。そして、
「ねーねっ!」
――っ!
私を呼ぶ。その一声、一言に心臓が止まりそうだった。
ねーね。って昔……。
たった一度、彼女が私をそう呼んだ日の光景が、鮮明に脳裏を駆ける。
忘れもしない、四歳の春の四月の四日。
『ねーねっ!』
パァンと彼女の頬が鳴る。
考えるより先に体が動き、私は彼女を平手で打っていた。人生で初めて誰かに暴力を振るった瞬間だ。
私の心に眠っていた本能は、この脳を貫いていた理性を蹴り飛ばしてまで、彼女の姉たることを拒絶した。
『私は貴女の姉さまじゃないわっ! 父さまは、母さまだけを愛していたの! 妹なんて……』
やわらかな頬の感触と、ショックを受けたのであろう、悲しみの色に染まった瞳。あふれる大粒の涙と甲高く泣き喚く声に嫌悪感をおぼえながら、幼心に初めての優越感もおぼえた。
さすがは極悪令嬢、齢一桁の頃から悪女の影を見せていたらしい――我ながら嫌気が差す。呆れたこと。
「ねーね? どーしちゃの?」
性根の悪どさの自覚と後悔に、私は思わず顔を歪める。その表情を見て心配でもしたのだろうか、義妹はきょとんと首を傾げた。
これは、夢か、幻か。死んだはずの私と彼女がもう一度会える日なんて、現実に来るはずがない。
そう考える私の手に、義妹の小さな手が重なる。私の手も、子どものように小さく……? いまさら気づいた。
「ねーね、げんきじゃしてー。いっしょ、あしょぼー?」
幼子をあやすように、義妹は私の頭を撫でる。こんなふうに誰かに頭を撫でられたのは、いつぶりのことだろう。
実の母は、母さまは、私が二歳になってすぐの冬に亡くなってしまったから……。ああ、十五年ぶりのことだった。
「ねーね。ふぃ、ふぃ、ねーね?」
フィフィ、というのは私の愛称だ。この呼び名も懐かしい。殿下は一度も呼んでくださらなかったけれど。義妹には、決して呼ばせなかったけれど。
彼女に姉ともフィフィとも呼ばれたくないあまり、脅して無理やり「オフィーリア様」と呼ばせていたっけ。結局「フィフィ」は、母さまだけが呼んでくれる特別だった。
私はハイエレクタム公爵家の長女、オフィーリア。彼女は次女のイラリア。今は亡き前妻と公爵との間に生まれた子が私で、彼女は後妻の子だ。
「ふぃ、ふぃ、ねー? しゅきにゃよー」
義妹が私を呼んで、何か言っている。意味はわからなかった。幼児語は、妃教育の本にも教科書にも載っていなかったから。
「しゅきにゃよ」とは何だろうと考えていると、やわらかいものが頬に触れる。
義妹の顔が、私の顔の横にくっついている。何が起きたのか、今の出来事への理解も追いつかない。彼女との〝今〟に、心の準備が間に合わない。
「え……?」
「ふぃふぃねーね、らいしゅき!」
私の頬から顔を離した義妹は、花がほころぶように、にっこり笑う。
自分の頬に触れてみると、しっとりと指先が濡れた。涙したわけでもないのに。
と、いうことはつまり……。彼女の唇がでろでろに濡れているのを見て、私は顔をしかめた。
この液体は、義妹のよだれだ。汚らしい。抱きついてきた彼女を引き剥がそうと足掻きながら、頬を袖口で力強く拭った。
唇にキスされて目覚めたかと思えば、頬にまでキスされて、もう最悪だ。
「――イラリア様!」
義妹を呼ぶ声がする。扉の方を見ると、真っ青な顔をしたメイドが突っ立っていた。彼女は足早に部屋へ入り、私の食事をサイドテーブルに置く。ガシャンと雑な音を立てて。
「イラリア様。オフィーリア様はご病気なのですから、勝手にお部屋に入ってはいけません」
「やーぁっ! ふふねねー!!」
「行きますよ、イラリア様。奥様が心配していらっしゃいます」
メイドは義妹を私から引き剥がし、暴れる彼女を抱えて部屋を去った。
「うぎゃああー! ふぃーふぃーー!!」
などと泣き叫ぶ声が聞こえた気がするけれど……。
あの女のことを長く考えていては、気分が悪くなってしまう。知らないふりをした。いなくなってくれて清々する。
私は盆の上の器を手に取り、どろどろの粥を匙ですくった。いかにも私の食事らしい粥だ。口に含むと、相変わらずの酷い味に苦笑が漏れる。でも、牢獄生活ではろくに食べていなかったものだ、今はこの味さえ懐かしい。
病弱な私の食事は、いつも不味い粥ばかりだった。お菓子を好き勝手に食べられる義妹が羨ましかった。
粥を食みつつ、今の状況について考える。
小さな義妹に、小さな私の手。最後に会った時より若そうなメイド。あの日と同じ「ねーね」。盆の上に載った、食後の薬の袋。
そこに記された調薬日を見て、やっぱりねと頷いた。これではっきりした。あの四月四日だ。十一月生まれの私は四歳で、三月生まれのあの子は二歳になりたての春だ。
この手の存在も、粥の苦さも、――あのキスも。感じたすべてが生々しい。きっと夢じゃない。
大昔の魔法の名残か、女神様の御慈悲か、奇跡か、わからないけれど何かが起きて。ここは、私たちが死んだ時より
もしも神様の思し召しなら、いったい誰のための、何のための〝
――本当に、ここから人生をやり直せるなら。生き直せるのなら……。
学院の授業でも、妃教育でも、こんな現象は習わなかった。どんなに記憶をさらっても、今ある知識だけでは真相を掴めない。原理も、理由も、考えたってわからない。
ただ、この世界では、私も彼女も生きている。それが今の現実だ。生きているなら、なんだって良い。生きてさえいれば、私は。
二度目の世界は――こう生きる。
ごくりと最後のひとくち、粥を飲み込み決意した。
今度は絶対に義妹を殺さない。あんな死に方はもう嫌だ。二度とバラバラにはなりたくない。次に人生を終えるときは、人間の姿のまま終わりたい。
そのためには、
ひとつ――大嫌いな義妹とは、できるだけ関わらないようにしよう。彼女を視界に入れなければ、その美しさから目を背ければ、殺すほどの嫉妬の念は抱かずに済むはずだ。殺意の芽は育つ前に摘んでおこう。
ふたつ――殿下の婚約者に再び選ばれたとしても、彼に心を動かされないようにしよう。どうせ私が愛されることはないのだから、恋も色も最初から諦めていよう。
最後は――ひとりで。かつては処刑されたから、十七歳より先の未来は知らないけれど。私は一生ひとりで生きていこう。愛されないなら、ひとりでいい。誰にも心を開いてはいけない。
――ひとりで生きて、ひとりで死にます。
だから私のことは放っておいてください。
愛されなくて構いません。さようなら――
そう、決めたのに。
「フィフィ姉さまっ! 大好きです」
「邪魔よ。暑苦しい。抱きつかないで」
――あの女は、忌々しい義妹は、
「おはようございます。フィフィ姉さま」
「…………口づけは、やめて。って。何度も言っているでしょ」
「えへへへへ。愛してます。好きです」
――愛を好き勝手に囁いて、心のやわらかいところに気安く触れて、
「ねえ、フィフィ姉さま。姉さまは、私のこと……好き?」
「……っ」
――壊れるくらいに私を乱す。
なぜかキスから始まった、不可思議な二度目の人生で。
私たちの関係は、一度目とはまるきり違う道を辿ることになった。
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