青の秘密 十八
――契約は絶対。
――なら、自分が悪竜の主になれば、自分が命令しない限り悪竜が暴走することはない。
――本当に?
――いや、それ以前の問題だ。なぜ自分が悪竜の主にならなければならない? そもそもこの契約に、悪竜にとっての利点はあるのか?
「一つ聞きたいんだが」
「何だ? 魔術師」
「この契約……僕がお前の主になれば、お前は僕の命令なしでは好き勝手に暴れない、という内容でいいのか?」
「そうだ」
「だとすると、この契約、お前に何の利点があるんだ? そして、もう一つ。何故僕なんだ?」
悪竜の顔から一切の表情が消えた。金属質な輝きを持っていた青緑色の瞳はまるで底なしの沼か穴のような暗い色になり、笑みの形に歪んでいた唇はすっと口角が下がって真一文字になった。
突然の変貌にセイラムは言葉を失い、空恐ろしさを覚えて悪竜から離れようとした。が、一瞬早く悪竜が動き、セイラムは彼の両手に頭を掴まれ、そのまま引き寄せられた。
「何を……!」
悪竜の生温かい吐息がかかる距離で、互いににらみ合う。
しばしの沈黙の後、悪竜は口を開いた。
「何故、お前なのか……これもまた契約だからだ」
「契約? どういう意味だ? いったい誰との?」
その問いには答えず、悪竜はセイラムから離れた。
「さあ、魔術師、答えは出たか? 俺と契約を交わすのか、交わさないのか。交わさない場合、この街を皮切りに数多の町や国が灰燼に帰すことになるぞ」
その脅し文句にセイラムは逡巡した。が、迷っていたのはほんの数秒だった。セイラムの中ではとっくに答えは出ていたのだ。これしかない、と。
「わかった。契約しよう、悪竜。僕はお前の主になり、お前は僕の従者になる。契約が続く限り、お前は僕の命令なしでは暴れない。もう一つ、お前の魔術にも制約をつけさせてくれ」
「……いいだろう」
「ありがとう。では、『僕の命令、または自分自身と誰かを守るため、以外の理由で人を殺した時、お前は声帯と舌を失う』。これでどうだ?」
「甘いな魔術師。命を奪うぐらいしてもいいんだぞ」
「……命のやり取りはなるべくしたくない。これでいい」
悪竜は呆れたように笑い、「矛盾しているな」と呟いた。
「俺には人を殺す命令をするかもしれないのに、自分では手を下さないのか? 小狡いな」
「僕は、誰かの命を奪うのは最終手段だと考えているしその手段を使うことはまずない。できる限り他の方法を考える。お前にその命令を下すことはほぼないだろう」
「そうか」
悪竜は右手の爪で自分の左の手のひらを傷つけた。赤い血が零れる。
「魔術師、右手を出せ」
「言い忘れていたが、僕の名前はセイラム・ジャン・アルベルト・ド・リオン伯爵だ」
「そうか、
「おい人の話を聞いていたか? その呼び方は止めろ、せめて名前で呼べ!」
憤慨しながら右手を出すと、悪竜はセイラムの右の手のひらに同じように爪で傷をつけた。鋭い痛みが走り、血がにじむ。
「どうしてあの女もお前もその呼び方で僕を呼ぶんだ」
「お前の右の手のひらを俺の左の手のひらに合わせろ。俺の名はゼアラルだ」
さらりと名前を明かされ一瞬驚いたが、セイラムは右の手のひらを悪竜――ゼアラルの左の手のひらに合わせた。ちょうど傷と傷が合わさるように。
傷口からにじみ出たお互いの血が混ざる。合わせた手のひらに熱が生じ、一瞬燃えるように熱くなった。
「……つっ」
灼熱を感じたのはほんの一瞬で、手を離すとそこには青緑色の燐光を放つ魔法円が刻まれていた。すぐに光は消え、魔法円は影も形もなくなる。
「契約印、か……?」
「そうだ。契約は成ったぞ、
「だから、その呼び方は止めろ!」
何故、と言うようにゼアラルは首を傾げた。
「セイラム様!」
声をかけられ振り向くと、ウォルクがこちらに駆け寄ってくるところだった。その後ろにピエールが続いている。今ディアーヌがアエスを振り切ってこちらに向かって駆け出した。
「ウォルク! 無事か!?」
「どうにか無事です。セイラム様は?」
「……何も問題はないが従者が一人増えた」
「はい?」
ウォルクはセイラムを見た。セイラムは後ろにいるゼアラルを示した。
「新しく僕の従者になった悪竜ゼアラルだ。色々教えてやってくれ」
「おい、こいつに何を教わるというんだ?」
ゼアラルが後ろから口を挟む。
「仮にも貴族の従者を名乗るなら礼儀作法や人間社会のルールについて学んでくれ。でないと連れて歩けない」
「何だと」
「ちなみに彼の名はウォルク・サジェ。我がリオン伯爵家の有能な執事だ。つまり、従者や使用人たちのボスだ。彼に色々教えてもらえ」
「せ、セイラム様? どういうことですか?」
引き攣った顔でウォルクが尋ねる。悪竜が従者だなんてこれは悪い夢だろうか?
「こいつと契約を交わした。僕がこいつの主になるという契約だ。何故僕がこいつの主にならなければならないのかはよくわからないがな」
「な」
「ウォルク、お前もわけがわからないだろうが僕もよくわかっていないんだ。とりあえず、こいつをどこに連れて行っても恥ずかしくないように色々仕込んでやってくれ」
最強執事は頭を抱えて唸った。頭の中は混乱の渦だ。思考回路がショート寸前だがこれだけはわかった。
「
セイラムも深い溜息をついた。
「ああ、わかっている。どうしたものか……」
二人そろって頭を抱えていると、ディアーヌの呆れた顔が視界に入ってきた。いや、視界に入るように彼女が二人の間に首を突っ込んできたのだ。
「ここで頭を悩ませていても答えは出ないでしょう? ひとまず宿に戻りませんか? お腹も空いたし、疲れたし」
ディアーヌに言われて気付いたが、セイラムはひどく疲れていた。おまけに全員ひどい恰好だった。服はびしょ濡れで汚れているし、セイラムは片袖がなくて腕がむき出しだ。
セイラムがゼアラルを見ると、彼は好きにしろとでも言うようにひょいと肩をすくめた。
いつの間にか嵐は収まり、海は穏やかだ。空は夕暮れに染まっている。
今日一日で色んなことがあり過ぎた。面倒なことは後回しにしてとりあえず食事を摂って休もう。そうしよう。
現実逃避とも取れることを考えながら、セイラムは皆の方を振り返った。
「……帰ろう」
***
ちなみに、この時気力だけで動いていたウォルクは宿に戻った途端ぶっ倒れた。傷から来る発熱で数日間寝込んだが、セイラムが手配した医療魔術専門の魔術師のおかげで傷はきれいに治り、熱も数日で下がった。
熱が下がると同時に腹をくくったらしく、元気になり王都に戻ったウォルクはゼアラルに礼儀作法を教え始めた。反発するゼアラルだったが、すぐに大人しく言うことを聞くようになったため、セイラムは一体どんな手を使ったのかウォルクに尋ねた。
「チョコレートケーキです」
「は?」
「奴はチョコレートケーキが大好物らしいんです。沙羅と雨虎亭で生まれて初めてチョコレートケーキを食べて、『これは神の食べ物か!?』とかなり感激していました。なので、大人しく礼儀作法や人間社会のマナーを学ぶなら毎日食べさせてやる、と取り引きしたのです」
セイラムは自分の執事が恐ろしくなった。
「恐ろしい奴だな……」
その悪竜ゼアラルは、今日もおやつの時間にうまそうなチョコレートケーキを頬張っている。
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