青の秘密 十七
「あれが悪竜だ」
一瞬の静寂。
「何だと?」
最初に復活したのはセイラムだった。
悪竜の話は誰でも知っている実話をもとにしたおとぎ話だ。
今から七百年前、世界を恐怖に陥れ、悪逆と破壊の限りを尽くした悪竜がいた。好き勝手に暴れ回り、月さえも抉り取って壊した悪竜は、当時最強と謳われた魔術師――花の魔女と呼ばれる人物によって倒されたという。
「あの精霊が悪竜だと言うのか? 悪竜は倒されたって……死んだんじゃなかったのか?」
「死んでいない、封印されただけだ」
「封印って、どこに? どうやって封印したの?」
ディアーヌが暴風雨でふらつきながら何とかアエスにしがみついて尋ねる。
「悪竜は花の魔女の手により封印された。ひと塊の緑柱石でできた竜の像の中に。その像は花の魔女に
アエスの言葉に、セイラムは思い出した。夕べ部屋に忍んで来てよくわからないことを言い置いていった彼を。
――お前の話には嘘がある。
――精霊が宿っていると言われている緑柱石の竜の像。
――この指輪は、その像の欠片で作ったもの。
――先祖が、交流のあったとある魔術師から預かったものらしい。
――お前はその話を信じているんだな……
「あれはそういうことか」
あの緑柱石の竜像には精霊が宿っていたのではない。封印されていたのだ。希代の魔霊、悪竜が。
アエスを見ると、彼は頷いた。
「私は知っている。七百年前、奴が封印された時のことを。その後どうなったのかも。ちなみに、その指輪は奴の鱗から作られたものだ」
セイラムは自分の左手人差し指の指輪を見た。金の台座にはめ込まれた見事な緑柱石……いや、悪竜の鱗。奥に見えるきらめきは傷が入っているからだと思っていたが、竜の鱗ということは、元から刻まれた紋様のせいなのかもしれない。
「悪竜は我々精霊にとって畏怖の対象だ。王であり、罪人であり、あらゆる意味で偉大な存在だ。七百年前奴が振るった猛威は宴でもあり、厄災でもあった。我々は奴を畏れ、また敬った」
アエスの脳裏には七百年前のあの混沌が昨日のことのように思い起こされた。あらゆるものが破壊され、人は死に、他の生き物も死に、魔術師は悪竜に戦いを挑み、破れた。高位精霊も下位の精霊も、皆悪竜の
「悪竜が封印された時、偉大な主を失った喪失感と支配者が倒された安堵感と両方を感じた。他の精霊たちも皆同じだと思う」
アエスはどこかさみしそうに目を伏せた。が、すぐに鋭い視線をセイラムに向けた。
「だが、悪竜の封印は解かれた……伯爵、お前が解き放ったんだ、悪竜を。再び混沌の時代が始まるぞ」
「ちょっと待て、僕は知らなかったんだ。歌えと言われて歌ったにすぎない。第一、あの歌は今までに何度も歌ったことがある。なぜ今封印が解け……」
言いかけてセイラムは黙った。
あの女。
彼女によってセイラムの魔力は増大した。それが関係しているのか?
「セイラム様?」
ウォルクの声にセイラムは我に返った。
「と、とにかく、ここから退避しよう。悪竜があいつの相手をしているうちに」
「どうするんです?」
「転移の術式を使い、この場を離れよう。アエス、手伝ってくれ」
「……わかった」
***
嵐の勢いはいや増し、威勢の良かったオーブリーは脂汗をにじませた青い顔で悪竜とにらみ合っているが、もう立っているのがやっとのような状態だ。
余談だが、オーブリーは目の前の存在が伝説の悪竜だとは知らない。突如現れた桁違いに強力な高位精霊としかわかっていない。
「魔術師、どこの流派の者かは知らんが、お前の魔力はずいぶんと血生臭いな。いったいどれだけ殺したんだ?」
オーブリーは答えない。いや、答えられない。悪竜の殺気に曝されて、一瞬たりとも気が抜けないのだ。下手に気を抜くと、その瞬間に死ぬ。それが何となく分かっている。
何でこんなことに、とオーブリーは内心歯噛みした。
簡単な仕事のはずだった。街中でたまたま見かけた高位精霊。人間に擬態して貴族に仕えているふりをしているそいつを捕らえて無理矢理契約を交わそうと考えた。自分たちの目的のためには強い力を持つ精霊がたくさん必要だったからだ。
だが、部下の報告でリオン伯爵が五賢者にも使えない“魔法”を使うことができると分かった。上の者に報告するとそれはもう喜んで、伯爵を必ず手に入れてこいと命じられた。成功すれば今よりも上の地位に就けてやるとも。
“魔法”が使えるとは言え相手は魔術師としてはレベルが低い。魔力量も少ない方だ。
楽勝だと思った。高位精霊がそばにいるが、オーブリーにはそいつに勝てる自信があった。
簡単な仕事のはずだったのに、どうしてこんな桁違いに強い奴が自分の目の前にいるのか? まったくの想定外だ。
どうしてこんなことに? 自分はこの仕事を完遂させ、もっと高い地位に上るはずだったのに!
強い
「……くそぉっ!!」
せっかくの出世のネタ――伯爵を逃がしてなるものか。
その一念でオーブリーは目の前の脅威を一瞬忘れた。
「俺を前にして油断するとは、愚かだな」
オーブリーが最期に聞いたのは悪竜のこの言葉と叩きつける雨と風の音だった。
***
突然オーブリーの身体がバラバラに弾け飛んで四散した。血肉は豪雨と暴風に飲み込まれ、あっという間にその場から消え去った。
「……な」
全員が絶句する中、悪竜は振り返り、セイラムたちを見て薄く微笑んだ。
「そこのお前は精霊だな? 一角獣か……昔会ったな」
「……ああ」
アエスの緊張した声。悪竜が振り返った途端
悪竜は次にセイラムを見た。続けて隣にいるウォルクを、更にディアーヌを、アンジェリカを、ピエールとミシェルを。全員蛇に睨まれた蛙のように動けない。
最後にもう一度、悪竜はセイラムを見た。
見て、鼻で笑った。
「弱いな、魔術師。未熟もいいところだ。奴に似た気配だと思ったが、奴とは全然違う……残念だ」
「な、んのことだ?」
セイラムはつっかえながら問い返したが、悪竜は答えず荒天を仰いだ。
「さて、景気づけに……街でも一つ沈めるか」
悪竜の言葉と共に嵐の威力が強まった。押し寄せる波がセイラムとアエスが展開した防御の
「伯爵……? 今あいつ、街を沈めるって言った……? セント・ルースを沈めるつもりなの?」
ディアーヌが震える声でセイラムに問いかけた。この街は彼女の故郷だ。両親の墓もある。知り合いも大勢住んでいる。故郷が壊されるなど、両親の死と同じくらい耐えがたいことだろう。
「奴は本気だ。この街を沈めることなど造作もない」
冷たい声で応えたのはアエスだ。アエスにとってもこの街は拠点だ。この街の神殿に祀られている海の聖霊に縁があるのは間違いないだろう。
だが、アエスが諦めているのは誰の目にも分かった。悪竜には誰も敵わない。この中で一番強いアエスが敵わないのなら誰も悪竜には勝てない。
「ど、どうなっちゃうんですか、この街? ……俺たちも死ぬの?」
ピエールはミシェルを抱きしめながら脅えた声を出した。ミシェルは兄にしがみついて泣いている。無理もない、二人はまだ十二歳と八歳なのだ。
「セイラム様」
ウォルクがセイラムに呼びかけた。とても静かな声だ。先程と同じく、どう切り抜けるのかと問いかけるものだった。ウォルクはセイラムを信じているのだ。セイラムならなんとかできる、と。過大評価しすぎだと思うが、彼の信頼はセイラムの力になった。
だが、セイラムはさすがに今回ばかりは迷った。自分に任せておけ、などと気軽には言えないし、そもそも自分にどうにかできる相手ではない。だが、どうにかしなければセント・ルースは破壊されるし自分たちは確実に死ぬ。
――せめて女性と子供だけでも。
セイラムは覚悟を決めて前に出た。
ディアーヌの魂の半分と声を取り戻すためにアエスと取り引きした時は、まさかこんなことになるとは思っていなかった。こんな、命を賭けるようなことになるとは。
もちろん、精霊との取り引きには危険が付き物だ。でも、こんな危険は想定していなかった。
悪竜がセイラムを見た。その目は面白がっている。弱いお前に何ができる、とその青緑色の目は言っていた。
セイラムには一つ秘策があった。
七百年前、花の魔女と呼ばれる偉大な魔術師が悪竜を倒した方法。その術式は開示されており、セイラムも師であるクリムゾニカから教わっていた。
悪竜が死んだのではなく封印されていたという事実から、その術式は実は封印の術式だったわけだが、倒すことは最初から考えていない。とにかく現状を打破できれば封印でも何でもいい。
大変複雑かつ緻密で繊細で難しい術式だ、成功するかどうかは分からなかったが、やるしかない。
セイラムは杖の先端を真っ直ぐ悪竜に向けた。
「お前の好きにはさせないぞ、悪竜。『荊の棘は魔女の怒り。其は天意の代弁者』……!?」
次の瞬間、悪竜がセイラムの目の前に現れ片手でセイラムの口をふさいだ。
「ぐっ!?」
「その呪文、覚えがあるぞ。俺を封印した奴の術式……!」
「セイラム様!」
ウォルクがセイラムを助けようと悪竜に殴りかかった。が、悪竜の腕の一振りで吹き飛ばされ海に落ちた。
「……っ!!」
セイラムは飛ばされるウォルクを目で追い、声にならない悲鳴を上げる。
「おい魔術師」
悪竜に呼ばれ、セイラムは彼を睨み上げた。
セイラムの紫の瞳に燐光が灯る。
悪竜は興味深そうにセイラムを見つめた。
「お前…………そういうことか」
そう言うと悪竜は笑った。
「くっくっく、実に愉快! すべて奴の手のひらの上、というわけか!」
ひとしきり笑うと悪竜はセイラムから手を離した。同時に手を振る。すると、荒れ狂っていた嵐が少し弱まった。
「ぷはっ」
ウォルクが荒れた水面に顔を出した。
「ウォルクさん!」
すかさずピエールが走って近づき、ウォルクが海から上がるのに手を貸す。
セイラムが横目でその光景を見て安堵していると、突如悪竜に顎を掴まれ無理矢理前を向かされた。
「未熟な魔術師よ、俺を止めたいか?」
「な……んだと?」
突然何を聞いてくるのか。悪竜の真意が分からず、セイラムは言葉に詰まった。
「このまま俺が気の向くままに暴れるのを良しとするか、しないのか。とっとと答えろ」
「だ、めだ。暴れることは許さない。お前と刺し違えてでも止める!」
言葉を慎重に選んでいる余裕はない。セイラムは思ったままを吐き出した。
その答えは悪竜のお気に召したようで、彼はにやりと笑った。
「では、俺と契約しよう、魔術師。俺の主に成れ。そうすればお前の命令なしでは暴れないことを約束する」
「…………は?」
セイラムは顎を落とした。今こいつは何といったのか? 主になれ?
「何を言ってる? どういう意味だ?」
言葉の裏を、真意を探ろうとしたが、悪竜はにやにやと笑うばかり。
「おい、何を笑ってる!」
セイラムが怒って顎を掴んでいる悪竜の手を振り払うと――やった後でさすがに死を覚悟した――悪竜は首を傾げた。
「何を怒っている? 俺の主に成れるんだぞ、何が不満だ?」
「何故僕がお前の主にならなきゃいけないんだ!? なったところでお前が暴れない保障はないだろう?」
「保障ならあるぞ、伯爵」
口を挟んだのはアエスだった。
「契約は絶対だ。精霊にとっては特に。お前たちは、我々精霊は小狡い方法で契約をさっさと終えようとする、と思っているかもしれないが、裏を返せばそれぐらい契約に忠実なんだ。一度交わした契約は、絶対だ」
セイラムはアエスの言葉をじっくりと考えた。
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