青の秘密 十六
セイラムは足掻いていた。
空間は壊せないし、外から聞こえてくる音と声はウォルクたちの劣勢を示している。
「くそ……」
焦りばかりが募る。だが、打開策が見つからない。せめてクリムゾニカが来てくれたら……と考えて、自分の不甲斐なさに嫌気がした。
「落ち着け、何か方法があるはずだ」
だが、焦燥と怒りとオーブリーに対する嫌悪で思考回路が空転する。
――オーブリーの所属している組織とは?
――なぜ、どうやって世界を変えようとしているのか?
――そもそもなぜ自分は“魔法”が使えるのか? 五賢者や、他の力ある魔術師たちは誰一人として使えないのに、なぜ自分にだけ?
――その“魔法”もできることは限られている。“魔法”についてセイラムが知っていること、理解していることは少ないのだ。よく知らないものを使いこなすことはできない。だから今こんなに苦戦しているのだ。
――“魔法”を使うことができればこの空間から出られるかもしれないのに、今のセイラムにはごく単純な“魔法”しか使えないのだ。何という無用の長物。
――どうすれば“魔法”を使いこなせるようになる?
「教えてあげましょうか?」
女の声がして、セイラムは顔を上げた。
目の前に、黒いヴェールを被った女がいた。喪服のような黒いドレス――大変古い型のハイウエストのドレスだ――を着ている。
風もないのに黒いヴェールがふんわりと軽やかに翻った。一緒に淡い金色の髪も揺れて踊る。だが、女の顔はヴェールに隠れて見えない。
新手か、とセイラムは警戒した。
「……誰だ?」
くすっと女が笑った気配がした。
「あなたは“特別”だから」
「特別?」
「紅炎の魔女が近くにいるのも彼女の弟子になったのも、リオンの家に生まれたのも、“魔法”を使えるのも、全部あなたが“特別”だからよ」
「……意味が分からない。どういうことだ?」
歌うような女の声に苛立ちを感じる。教えてあげましょうか、と言ったのに、何一つ答えをくれない。
「“特別”とはいったいどういうことなんだ? 僕の何が“特別”なんだ? 教えてくれると言うのなら早く教えてくれ」
「でもまだ“完全”ではない……困ったわね」
「困っているのはこっちだ。言葉遊びに付き合っている暇はないんだが」
「歌いなさい」
まったくこっちの話を聞かない女にセイラムはブチ切れそうになった。
「何を……!」
「月を壊した悪い竜、花の魔女に叱られて、緑柱石に閉じ込められて、そのまま千年ひとりぼっち…………」
女が歌ったのは誰もが知る
「三百年早かったわね。まあいいわ。さあ、歌いなさい、
「誰が
「では、歌いなさい」
女の声色が変わったことにセイラムは気付いた。ふわふわと歌うような、夢でも見ているような話し方だったのが一変して、しっかりと芯の通った声になった。
「歌いなさい。魔力を込めて歌うのよ」
困惑しながらもセイラムは歌った。女の言う通り魔力を込めて。
「月を壊した悪い竜、花の魔女に叱られて、緑柱石に閉じ込められて、そのまま千年ひとりぼっち……」
「駄目ね、足りないわ」
困った顔で女が歌を遮った。
「何なんだ、一体?」
苛立ちながらセイラムは女に問いかけたが、女は答えず口の中で何かぶつぶつと呟いている。
「……やっぱり、もう少し……」
「おい?」
女はセイラムの顔の前に手を翳した。セイラムの目には、女の手のひらから自分と同じ勿忘草色の魔力の粒子が立ち上っているのが視えた。
「あなたの中には、あなたに必要なすべてがある。あなたはそれを忘れているだけ。それをほんの少しだけ、思い出させてあげる」
とん、と女の指先がセイラムの額に触れた。
途端に、セイラムの中から何かが溢れだした。
強い魔力が渦を巻く。
巻き込まれ、押し流されそうになりながら、セイラムはその場に踏みとどまっていた。
轟々と音を立て荒れ狂う魔力は、他でもないセイラムから溢れ出したものだ。
魔力と同時に感情も荒れ狂う。胸が
上げた叫び声は轟音に押し流され、誰にも届かない。
唐突に魔力が
セイラムは、暗い夜空の星々が浮かぶ中にいた。足元に地面はなく、たった一人でそこに存在していた。
広がる濃紺の夜の中、金色の巨大な天球儀が軋みを上げて廻っている。
隣では金色の天秤が釣り合いを求めてゆらゆらと揺れていた。
天秤の片一方の皿には青い花が、もう片一方の皿には白い野茨と紅い目の蛇が載っている。
と、みるみるうちに白い野茨が自分の載る皿だけでなく、青い花の載る皿までも覆い隠し、隣の天球儀までも覆ってしまった。
セイラムは咄嗟に、自分の右手に魔力を込めた。一番得意な炎の魔法を行使する。
野茨は燃え尽きたが、蛇が燃えずに残っていた。首をもたげとぐろを巻き、シューっと毒の息を吐いている。
もう一度、と考えた時、急に
同時に、セイラムはハッと我に返る。
自分は今どこにいる?
何をしていた?
ウォルクやディアーヌたちは?
そこまで考えた時、溢れ出した魔力が今度は一気に自分の中に戻ってくるのを感じた。
「っは」
我に返ると、そこは元いたオーブリーの異空間だった。目の前にはあの女がいる。
自分の身体を見下ろすと、魔力の粒子がチリチリと溢れ出ている。今までよりも強大な力を自分の内から感じた。
「……何をしたんだ?」
「あなたの中に封じ込められている魔力をほんの少し引き出しただけよ」
「ほんの少し? これが?」
今まで自分の中にあったのとは桁違いの魔力量だ。五賢者や、下手をしたらアエスたち高位精霊に匹敵するほどの力を感じる。
「さあ、もう一度歌ってごらんなさい」
女に促され、セイラムはもう一度口を開いた。
「月を壊した悪い竜、花の魔女に叱られて、緑柱石に閉じ込められて、そのまま千年ひとりぼっち……腹を空かせた悪い竜、野茨の
野茨と蛇。
先ほどの幻の光景にも登場した。何か関係があるのか……?
「夢うつつの悪い竜、花の魔女と鬼ごっこ、くるりと回ってまた出会い、揺れる天秤、勿忘草……天秤に乗った悪い竜、花の魔女の娘を探し、いつか辿り着く約束の地、いつか叶う千年の夢……」
歌い終わると女の姿が消えていた。
「えっ?」
慌てて周りを見回すが女の姿など影も形もない。
「馬鹿な……、あれは白昼夢か? いや、幻とは思えない」
余韻も何もない。最初から女などいなかったかのようだ。
「いったい何だったんだ……?」
そう呟いた次の瞬間、左手人差し指の緑柱石の指輪から強い光が迸った。
「なっ!?」
強すぎて黒く見える光からは強い魔力が感じられた。今のセイラムも、アエスも比べ物にならないほどの強大な力だ。
あまりの眩しさ、そして嵐のような力の奔流と圧力に目を開けていられず、セイラムは腕で顔を覆い身を
「ぐっ」
魔力がひと際大きく膨れ上がり、唐突に収束した。
恐る恐る目を開けると、目の前に今度は男がいた。
背は高く、つんつんして硬そうな黒髪、精悍な顔立ちに金属質の輝きを持つ青緑色の瞳。瞳孔は猫のように縦長だ。
あちこち破れたぼろぼろの黒衣を纏っている。
「……精霊、か?」
そう問いかけると、男はにやりと笑った。
「俺を知らないのか?」
「は?」
セイラムの困惑から出た間抜けな返事を聞くと、男――精霊は不機嫌そうに顔をしかめ周りを見回した。
「何だ? ここは」
「……あ、ある魔術師が作り出した異空間だ。僕はそいつに捕らえられた」
「ハッ、間抜けだな」
精霊は鼻で笑うと腕を振った。ごく自然で何気ない仕草だったが、たったそれだけで衝撃波が生まれ、この空間の境界らしき部分に激突した。
「うわあっ!!?」
ものすごい衝撃にセイラムは思わず自分の腕で頭を庇う。空気がビリビリと震えた。
だが、異空間は壊れなかった。どれだけ頑丈に作ったのか。セイラムは畏怖と呆れのような感情を覚えた。
精霊は、と隣を見ると、顔を顰め明らかに苛立っている。
「チッ」
舌打ちを一つ打つと、精霊は両腕を広げた。空気が騒めく。精霊から溢れる魔力がスパークした。セイラムの肌の上にもスパークが走り、痛みに呻く。
魔力の密度がどんどん高まっていく。呪文の詠唱はない。これほどの魔力を詠唱なしで使うなど、並外れている。ある意味、高位精霊である証左であるともいえる。
精霊はそのまま広げた両腕を身体の前でクロスするように振った。左右それぞれの腕から生まれた衝撃波が――先程とは比べ物にならないぐらい強烈な衝撃波が空間の境界に激突し、そのまま
オーブリーの異空間は破られたところからどろりと溶けるように消え、セイラムは急に重力を感じ、そして落下した。
あの異空間は少し浮いていたため、セイラムも地面から二、三メートルほど離れたところにいたのだ。異空間が破られた今、重力というこの世の
「うわあっ!?」
落ちたセイラムを受け止めたのはあの精霊だった。受け止められたのち、乱暴に地面に降ろされる。
「セイラム様!?」
名前を呼ばれて振り向くと血塗れのウォルクがいた。
「ウォルク!」
慌てて駆け寄ると腕や足に怪我を負っていた。特に、足からの出血がひどい。セイラムは自分の服の袖を破いて、それでウォルクの止血を試みた。
余談だが、魔術を用いて怪我を治す術式は大変高度で難易度が高く、医学知識も必要とされるため、セイラムには使えない。小さな擦り傷や切り傷を治す程度ならできるのだが、ここまで重傷だと医療魔術を専門とする魔術師を派遣してもらわねばならないのだ。
「ご無事でしたか!?」
「ああ、僕は無事だ。お前はひどい有様だな、大丈夫か?」
「申し訳ありません」
「謝る必要はない」
喋りながらウォルクの足の傷の少し上を手早く縛って止血する。
そうしている間にも、嵐はどんどん強まっていた。海は荒れて波は高くなり、強風が吹き荒れ、次の瞬間滝のような雨が降り出した。
「きゃあっ!」
叩きつけるような雨風に女性陣から悲鳴が上がる。セイラムとアエスは急いで防御の術式を展開した。
「おい、伯爵」
アエスのわずかに上擦った声にセイラムは顔を上げた。
「あれは何だ?」
アエスの指し示す方を見ると、精霊とオーブリーが対峙していた。
ただ見合っているだけなのに……何もしていないのにオーブリーが気圧されている。一目でわかるほど、精霊の力は桁違いだった。
この嵐にもあの精霊の魔力が混じっているのが分かる。つまり、この嵐を起こしているのはあの精霊だということだ。
「何だ、というのはあの精霊のことか? だとしたら僕には分からない。突然現れたんだ」
「突然現れた? どういうことだ?」
「だから、わからないんだ! 歌を歌ったら現れたんだ!」
「歌? 何の歌だ?」
「悪竜の歌だ。月を壊した悪い竜、花の魔女に叱られて……というやつだ」
セイラムの返事を聞いたアエスは、実に奇妙な顔をした。恐れと歓喜が混ざったような、笑顔を作ろうとして失敗したような、引きつった感じの顔をした。
「おい、どうした?」
セイラムの問いかけに、アエスは顔をぎこちなく動かしてこちらを見た。ぎ、ぎ、ぎ、と錆びついた音がしそうなほどぎこちない。
「アエス? どうしたの?」
ディアーヌの呼びかけにアエスは答えた。
「あれが悪竜だ」
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