青の秘密 十九
後日。
王都ソルブリオのリオン伯爵邸に帰還したセイラムは、ゼアラルを伴い北部の大都市ルクセリア近郊にある
清幽城まではなんと、
後は野となれ山となれ、という気分でセイラムはゼアラルの背に乗った。
清幽城のみならず魔術界が蜂の巣をつついた様な大騒ぎになったのは言うまでもない。
そりゃあ、巨大な竜、しかも伝説の悪竜が突然舞い降りてきたら誰だって驚くだろう。
さすがに黒の長老、玄界の魔導師デジレ・サン・サーンスは冷静だった。年若い見た目にそぐわぬ老獪な目をした少年……の姿をした
「つまり、伯爵、お前と契約している以上悪竜は好き勝手に暴れることはない、と? その話を信ずる証拠は?」
城内の北の塔、デジレの薄暗い執務室でセイラムは彼に向き合って椅子に座っていた。すぐ後ろにはゼアラルが大人しく控えている。
デジレの玲瓏とした声に、セイラムは答えた。
「契約印があります。それに、契約の内容に関してはきちんと考え、裏がないか、出し抜かれてはいないかなどすべて確かめました。問題はありません」
「ふむ……」
見た目十四、五歳ほどの美少年であるデジレは、黒く長いまつ毛の生えそろった瞼を伏せた。憂いの表情はまるで芸術品のようで、老若男女問わずすべての人間が見惚れるであろう美しさだ。中身は齢およそ九百歳の爺だが。
自分の顔を鏡で見慣れているセイラムはデジレに見惚れることなく言葉を重ねた。
「ゼアラルが自分や誰かの命を守る、という理由以外で人を殺めた場合、声帯と舌を失う、という条件を付けてあります」
「声帯と舌程度では竜を抑えることはできぬだろう。だが、その制約を大人しく受け入れている時点で悪竜はこの契約を忠実に守る気がある、と判断できる……ふむ」
デジレは漆黒の瞳をセイラムに向けた。射干玉の黒髪が揺れる。
「いいだろう。デジレ・サン・サーンスの名において、セイラム・ジャン・アルベルト・ド・リオン伯爵と悪竜との契約を認めよう。ただし、悪竜が契約を破って暴走し、死人が出た時は……」
「責任は取ります」
「ふん、そんなことにはならないぞ、くそ爺」
「口を慎め、ゼアラル!」
セイラムは慌ててゼアラルの口をふさいだが、デジレは気にすることなく笑った。
「威勢がいいな、悪竜ゼアラル。
「誰に向かって言っている」
「お前だよ、月を壊した悪竜」
言いながらデジレは立ち上がった。銀糸で細かい模様が刺繍された黒いローブが翻り、衣装のそこかしこからぶら下がる銀鎖とその先端に付けられた太陽や月、星の形の金銀の飾りが触れ合ってシャラシャラと音を立てた。
デジレはそのまま部屋の奥に立てられた、色とりどりの蝶が描かれた屏風に歩み寄り、
「……な」
セイラムは驚いて立ち上がった。何故ならそこに当代五賢者六人のうち四人が待機していたからだ。
群青の水君クレメンス・ゴッドフリート。輝くシルバーブロンドにサファイア・ブルーの瞳の美丈夫。見た目は二十代後半ほどに見える。
白亜の魔女オクタヴィア・リヴァルタ。雪の如き白髪に翡翠色の瞳の、氷姫ともあだ名される妙齢の美女。一重まぶたの切れ長の目が他人に冷たい印象を与えている。
二人で五賢者の一つの席に座る
五賢者は全員見た目通りの年齢をしていない。全員が理に触れてしまい
「何故ここに、と聞くのは愚問のようですね。いったいいつの間に彼らを招集したのですか? ところで、我が師クリムゾニカ・ケストナーは? 来ていないのですか?」
「おや、聞いていないのかね?」
デジレは片眉を上げた。
「クリムゾニカは先日の大嵐で、自宅近くの山で崖崩れが起き巻き込まれた怪我人を保護して看病しているため今日はここには来られない、と連絡を寄越してきたぞ」
先日の大嵐。
まず間違いなくゼアラルが起こした嵐のことだろう。あの嵐はルビロ王国内の広範囲にわたって被害をもたらしたと聞いている。
なんだか罪悪感を覚えた。
「あぁ、えぇと、後で連絡しておきます……」
「うむ」
重々しく頷くデジレの向こうで、四人の五賢者たちが興味深そうにゼアラルを見つめていた。
「お前が伝説の悪竜か?
ライナス・サイアーズが身を乗り出しながらゼアラルに声をかけた。その瞳は子供のようにきらきらしている。兄のキース曰く、ライナスは子供が図体だけでかくなったようなものらしい。
「誰だ、お前?」
愛想も何もない無礼なゼアラルに、ライナスは豪快に笑った。
「はっはっはっは! これは失礼した、まだ名乗っていなかったな! 俺は五賢者の一人、ライナス・サイアーズ、こちらは兄のキースだ。よろしく!」
「俺は悪竜とよろしくなんてしたくない」
笑顔のライナスの横でキースは不機嫌そうに顔をしかめた。
「同感だわ」
雪でできた人形の如きオクタヴィアも頷いた。ただその顔は面白がっているように見える。
「でも、仲良くできるかどうかは伯爵と悪竜次第ね。何も問題を起こさずにいてくれれば、考えを改めるかもしれないわ」
「そうだな」
続いてクレメンスも口を開く。
「すべてお前たち次第だ。よく覚えておけ。
「……わかっています」
チリッと静電気のような刺激がセイラムの皮膚に走る。五賢者たちの殺気だろう。キース、オクタヴィア、クレメンス、親しげにしているライナスも、ゼアラルのことを警戒しているのだ。その様子をデジレは何も言わずに見守っていた。
「僕はゼアラルの主です。彼は僕の命令に従う。そして、僕はあなたたちの、この世界の敵になるつもりは毛頭ありません」
セイラムは真っ直ぐに五人を見据えながらそう言った。その言葉に彼らは頷く。
「まあ、いいだろう。その言葉を違えるなよ、リオン伯爵」
クレメンスはそう言って、デジレを見た。
「そう言えば、スカーフィア女侯爵の姪も高位精霊と契約を交わしたそうだな」
「ああ、そうだ」
そう、ディアーヌとアエスも先日正式に契約を交わしたのだ。今までの守護の契約はただの口約束だったことにディアーヌが気付き、改めてセイラム立会いの
「高位精霊とこうも容易く契約できるなんて、信じられないわ。しかも、女侯爵の姪は魔術師ですらないのでしょう?」
「なに、魔術師でなくとも精霊と契約は結べる! 過去にも色々あっただろう? つい最近ではラブレーとか言う男が精霊と契約したと聞いたぞ。男爵家に連なる男だ」
なあ? とライナスは兄のキースを見る。
「ラブレーという男の話は何年も前のことだ、つい最近ではない。まあ確かに、精霊との契約に魔術師であるかどうかはあまり関係がない。精霊は対価さえもらえれば誰とでも契約する」
「それはその通りだけど、その娘が犯した罪については? どうするの? 彼女の願いで何人か死んだのでしょう?」
「話を聞くと正当防衛の面もある。故に安易に罰することもできぬ。ひとまず、女侯爵の姪と高位精霊についてはリオン伯爵に監視してもらおう。女侯爵の姪が今後、高位精霊の力で人を傷つけるようなことがあれば、その時に処遇を考えよう。私はそれよりも、伯爵らを襲撃した者たちのことが気になる」
言いながら、デジレは顎に手をやり考え込む。
「オーブリー、と言ったか? 聞いたことのない名だ。デュ・コロワの術式というのも聞き覚えがない。どこの流派だ……?」
「奴の魔力はずいぶんと血生臭かった。どれだけ殺したのかは知らないが」
口を挟むゼアラル。その言葉に五賢者たちは眉をひそめた。
「あと、とある組織に所属していて、その組織は世界を変えようとしている、とも言っていました。そのために高位精霊、あるいは魔法を使える僕が必要なんだとか」
「となると、また伯爵を狙ってくるかもしれない」
冷静なキースの声にデジレは頷く。
「世界を変える、その意味は分からないがあまり良いものではないだろう。すぐにそ奴らの正体を調べよう。何か大きな事が始まるような嫌な気がする。良いか、皆警戒は怠るな」
デジレの言葉を散会の合図とし、他の五賢者らは部屋を出て行った。残ったのは最初の三人、デジレとセイラム、ゼアラルだ。
「さて、伯爵。魔術、精霊に関する事件の専任捜査官であるお前に一つ調べてもらいたいことがある。大変血生臭い事件だ」
血生臭い、と聞いて、セイラムは眉をひそめた。
「ここ最近、王都で若い女性の惨殺死体が連続して見つかっている。身分も年齢もバラバラだが、遺体には黒魔術の生贄にされた形跡があった。いったい誰が何のために罪を犯しているのか、調査し犯人を捕らえる、もしくは排除してもらいたい」
「黒魔術……ですか。女性ばかりを狙う連続殺人が起きていることは知っていました。パンタシア座の人気女優も殺されたとか。ですが、魔術師が関わっているとは初耳です。しかも、黒魔術だなんて」
黒魔術――人間を含む生き物の血肉や命を対価に行う魔術のことで、魔術界では最大の禁忌とされており、使用した者は問答無用で厳罰を受けることになる。場合によっては死刑だ。
「精霊・魔術師否定派の者たちを刺激しないよう、魔術師が関わっていることは伏せられていた。だが、これ以上隠しておくのは難しい。世間に広まるのは時間の問題だ。伯爵には早期の解決を頼みたい」
「承知しました。最善を尽くします」
事件に関する資料を受け取り、詳しいことは王都警察の担当者に聞けと言われ、礼を言ってデジレの執務室を辞した。
「面倒くさいな」
「そう言うな。これが僕の役目なんだ。お前にも手伝ってもらうぞ」
出口に向けて廊下を歩く。すれ違う魔術師たちは皆、ゼアラルの顔を見て己の顔を引き攣らせ、
彼らの気持ちはわかる。先程いきなり天空から巨大な竜が舞い降りてきたと思ったら、察して城内から出てきた黒の長老が「伝説の悪竜……」などと
悪竜復活が世界に知れ渡るのは時間の問題だ。
「何だこいつらは? 全員頭でもぶつけたのか?」
「無理もないだろう。お前、自分が伝説の悪竜だってことわかってるのか?」
「知らん。俺は七百年間封印されていたからな。どんな伝説だ?」
そう聞かれたのでセイラムは答えた。
曰く、悪竜は今から七百年前、世界を恐怖に陥れ悪逆と破壊の限りを尽くした。街も村もあらゆる建物が破壊され、多くの人が死んだ。
曰く、魔術師たちが悪竜に戦いを挑んだがことごとく敗れ去り、当時の五賢者たちでさえ勝つことはできなかった。
曰く、高位精霊も下位の精霊も、皆悪竜の
曰く、悪竜は月を抉り取って壊した。他にも、悪竜によって変えられた地形は数多ある。
「そして、悪竜は花の魔女と呼ばれる一人の魔術師によって倒された……いや、封印されたのか」
「ふぅん、なるほど」
ゼアラルはセイラムの話をじっと聞いていたが、含み笑いで頷き、そのまま沈黙した。
「おい、何なんだ」
「いや」
ゼアラルがそれ以上口を開くことはなく、そのまま城の正面玄関を出ると再び竜形に変化した。
「乗れ」
怖いもの見たさで集まった魔術師らが見守る中、セイラムはどうにかゼアラルの背によじ登り、清幽城を後にした。
***
巨大な竜が飛び去るのをデジレは自分の執務室の窓から見ていた。
伝説の悪竜が突如降り立った時はさすがに驚いたが、そこは百戦錬磨、海千山千の大魔導師。驚きを顔には出さず冷静に対処した。
デジレは悪竜が暴れ回っていた七百年前を知る数少ない当事者の一人だ。デジレ自身、同門の魔術師らと共に悪竜に戦いを挑み敗れ、運良く生き残った過去を持つ。
その時の戦いで友は全て死んでしまった。自分が生き残ったのは友が守ってくれたからだ。
かつては、悪竜を激しく憎んでいた。友を返せと叫び、悪竜を友と同じように惨たらしく殺してやりたいとも思った。
だが、それはもう過ぎ去った昔のことだ。今のデジレは悪竜を前にしても冷静さを保っていた。
長い時間が怒りや憎しみ、悲しみという感情を押し流し変化させたのだ。
心に灯った怒りや憎しみの炎は鎮火していき、熾火に変わった。
今日、悪竜を目の前にしても、その炎は静かなままだった。静かだが確かに燃えていた。
彼は始終冷静なままだった。あの時の怒りは忘れないまま、その感情を昇華して別のものに変えたのだ。
七百年という歳月は人を変化させるには十分な時間だった。
「それに……」
デジレは無意識に呟いた。
あの悪竜はかつての悪竜とはどこか違う。封印されていた七百年の歳月が彼を変化させたのだろうか。猛々しく暴れ回っていたあのころとは違い、彼はとても静かだった。穏やかだったと言ってもいい。
悪竜が清幽城に降り立った時、デジレはいつでも戦えるよう杖を握りしめていた。だが悪竜は暴れるどころか、その背からリオン伯爵をそっと降ろし――悪竜が手伝ったのではなく伯爵は自力で滑り台を滑るかの如く滑り降り、悪竜はそれを大人しく待っていたというだけだが――その後
かつての悪竜を知る者としては信じられない思いだった。
デジレは今の悪竜の姿を全て信用してはいない。信用するか否かはオクタヴィアが言った通り彼ら次第だろう。
遠ざかる小さな竜影を見送り、デジレは窓に背を向けた。
「月を壊した悪い竜、花の魔女に叱られて、緑柱石に閉じ込められて、そのまま千年ひとりぼっち……」
歌いながらあることに気付き、デジレは立ち止まった。
「この歌……」
世界中で歌い継がれている、おそらく世界一有名な
――誰が作り、広げたのだろう?
To Be Continued...
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