青の秘密 十二

 その日はエリザベートの週に一度の休日で、ディアーヌは自分の屋根裏部屋で一緒に過ごしていた。夜も更け、ベッドで寝そべっている母の隣に潜り込み、他愛もないことをおしゃべりする。幸せな時間だ。


「あなたも大きくなったわね。ベッドが狭いわ」


 母にくすくす笑われながら言われ、ディアーヌは言い返した。


「母さんは何だか小さくなったわ」

「あなたが成長しただけよ。背丈なんて私と同じ……もう追い越したんじゃない?」

「かもね」


 話しながらエリザベートは何だか遠い目をする。そういう時、母が何を考えているのかディアーヌは知っている。父のことだ。ディアーヌの成長を父と一緒に喜びたかったに違いない。

 幸せな気分でうとうとと微睡みかけた時、階下から何かが壊れる音と怒鳴り声や叫び声が聞こえて、二人は飛び起きた。

 客同士のトラブルかと思ったが、どうも様子がおかしい。


「見てくるわ、あなたはそこにいてちょうだい」


 そう言ってさっさと部屋を出て行ったエリザベートを追いかけようとした時、ひと際大きな、恐ろしい悲鳴が聞こえた。


 断末魔。


 そういう言葉が頭をよぎり、ディアーヌは部屋を飛び出した。

 屋根裏部屋のすぐ下、三階の廊下は深夜であるため必要最低限の明かりしか灯っておらず薄暗かった。

 屋根裏部屋から下りてすぐの、二階へ続く階段の前でエリザベートは尻もちをついていた。


「母さん、どうしたの!?」


 ディアーヌは慌てて駆け寄り、母の顔を覗き込んだ。


「大丈夫……?」


 母と目が合った。彼女の顔は恐怖に強張っていた。

 何事かとディアーヌが階段下を見ると、女が一人倒れていた。白いガウンが血塗れになっている。


「……シーラ?」


 それは、ディアーヌより二歳年上のまだ入ったばかりの新人娼婦だった。


「シーラ! いったい何があったの!?」


 ディアーヌが慌てて階段を降りようとした時、エリザベートは娘の腕を掴んで止めた。


「母さん!?」

「部屋に戻って! 戻るのよ!」


 母に思いっきり腕を引かれ、屋根裏部屋に向かって細い階段を昇りだした時、階下から『上にまだ誰かいるぞ!』という男の声が聞こえた。

 続けて階段を駆け上がる足音も。

 二人が屋根裏部屋に飛び込みドアを閉めると同時に、何者かも三階に到達したようだった。


「ディアーヌ! 私がドアを抑えているから、それを持ってきて!」


 母が指差したのはベッド脇に置かれたチェストだった。それなりに重量のあるチェストを、日々雑用や水泳で鍛えた腕力で持ち上げ、ドアの前に置く。次に椅子と小さなテーブル、本棚も二人で何とか動かし、ドアの前においてバリケードにした。

 ひとまず安心、と息をついたのもつかの間、ドアが激しく叩かれ、二人はびくりと飛び跳ねた。


「ここだ! くそっ! ドアが開かねえ! おい、誰か手を貸せ!!」


 ドアがたわむほど激しく叩かれ、エリザベートとディアーヌはお互いに抱きしめ合って震えた。

 脳裏に過るのは先程階段下で倒れていたシーラの姿。それから、女性としての尊厳が犯されるかもしれないという恐怖。

 ドアを叩く音はますます激しくなり、とうとう蝶番が外れかけ、ドアそのものにもひびが入り始めた。できた隙間から見知らぬ男の姿が見える。ドアの外に何人もいるようだ。何か喚いているが、恐怖で半分混乱しているディアーヌには男たちが何と言っているのか聞き取れない。


 エリザベートとディアーヌは完全に袋の鼠だ。逃げ場はない。

 一か八か窓から飛び降りるか、とディアーヌが考えた時、エリザベートが動いた。娘をベッドの下に押し込み、自分の懐から引っ張り出した大きな真珠玉を握らせたのだ。


「母さん!? 何を……」

「あなたはここにいなさい。いいこと? 絶対に声を上げてはだめよ。さっき男たちの会話が聞こえたの。『金髪の女が二人この中にいる』『どっちかが探している娘だ』って。あいつらの目当てはきっとあなたよ。だから、ここに隠れていなさい!」


 そう言って離れようとする母を、ディアーヌは必死に引き留めた。


「待って、母さん! 母さんも一緒に隠れよう!」


 エリザベートは悲しげな笑みを浮かべた。


「ごめんなさいね、ディアーヌ。生きてちょうだい!」

「母さ……」


 エリザベートはディアーヌの手を振り払い、ベッドから離れた。素早く窓に近寄り、わざと音を立てながら大きく窓を開ける。

 次の瞬間、ドアが破壊され男たちが飛び込んできた。ならず者のような粗末な身なりの男もいるが、きちんとした服装の男もいる。おそらく、ならず者の方は金で雇われただけの、いざとなったら使い捨てられるコマだろう。


「おい、女だ! あいつだろう?」

「いや、違う。探しているのは小娘だ。あれは母親だ」


 ならず者が問いかけ、きちんとした身なりの男が答える。エリザベートはその男に見覚えがあった。


「あなた、あのくそ貴族の従僕ね?」

「無礼者! バレル男爵と呼べ! まあいい。おい、娘はどこだ!?」


 くそ貴族――バレル男爵の従僕は高圧的な態度で持っていたナイフの切っ先をエリザベートに向けた。


「言わなければ殺す」


 エリザベートは臆することなく従僕の目を真っ直ぐ見据えた。もはや彼女に恐れるものは何もなかった。運良く生き延びることができれば御の字。もし死ぬことになっても、彼岸でオリヴィエに逢えるのだ。ディアーヌさえ助かれば悔いはない。


「言わないわ。絶対に言わない」


 その言葉に従僕は顔を歪めた。


「馬鹿め」


 ベッドの下でディアーヌが聞いたのは、風が鳴る音と肉に何かが突き刺さる湿った音、ぼたぼたと液体が滴る音と、重いものが床に落ちる音。

 床に落ちたのはエリザベートの血塗れの身体だった。

 母の目にはもう、光はなかった。


「……!!」


 悲鳴は必死に手で押さえたが、目からこぼれる涙は抑えられなかった。

 息が苦しい。胸が痛い。寒い。

 自分の心の一番柔らかく繊細な場所が無残に破かれ砕け散ったような気がする。


「小娘のやつ、窓から逃げたんじゃねえか?」


 ならず者がそう言いながら、窓の外を覗き込んだ。


「いや、いねえな。この高さから飛び降りたら怪我じゃ済まねえ」

「なら、まだこの部屋の中だ」


 こつりこつりと歩き回る足音がした。

 次の瞬間、突如ベッド下を覗き込んだ男と目が合い、ディアーヌは驚いて頭をぶつけた。


「いたぞ!」


 叫びながら、男――従僕はディアーヌの腕を掴んでベッド下から引きずり出した。


「いや! 放して!!」

「来い!」


 引きずり出されたディアーヌは、傍らに倒れている母を見て震えが止まらなくなった。恐る恐る触れてみるとまだ温かい。


「母さん、母さん起きて!」

「無駄だ、もう死んでいる」


 従僕がにやりと酷薄そうに嘲笑わらった。

 ディアーヌは従僕を睨み上げた。その瞳は怒りのあまりいつもより深みを増した色をしていた。


「おい、この娘か?」

「ああ、間違いない。引き揚げるぞ」

「帰る前に味見をさせろよ」


 下卑た顔で笑うならず者共に、従僕は軽蔑の視線を向けた。


「駄目だ。大事な商品だぞ。傷物だと値が下がる。それに、最初の味見は男爵閣下だ」

「くそっ、ケチな野郎だぜ」


 ディアーヌは男たちの会話を聞いていよいよ自分の身に貞操の危機が迫っていることを知った。

 逃げ場はない。窓から飛び降りても、ここは三階のさらに上の屋根裏だ。男が言った通り怪我では済まない。


「さあ、行くぞ」


 そう言って従僕はディアーヌの腕を掴み、引き摺って無理矢理立たせた。


「嫌よ! 放しなさい! 行かないったら!!」


 抵抗空しくディアーヌは部屋の外に無理矢理出され、階段も半ば引きずられながら降り、一階に到着した。

 地獄のような光景がそこには広がっていた。

 ディアーヌは目を疑った。いつも華やいでいた玄関が、綺麗に整えられたロビーが、客室が、全て血で染まっていた。

 そこかしこに人が倒れている。よく見ると、仲良くしていた娼婦たちと、おそらくその客たちだろう。皆服装が乱れている。部屋でお楽しみだったところを襲われたのだ。

 玄関付近に店主が倒れているのが見えた。彼も、みんなと同じく血塗れだ。もう息がないことは一目でわかった。

 抵抗するのに夢中で回りをよく見ていなかったが、おそらく二階にもこんな光景が広がっているのだろう。


「……っ、何で……っ、どうしてこんなことを!?」


 溢れる涙をぬぐいもせず、ディアーヌは自分を捕まえている男を睨みつけた。


「バレル男爵の命令だ。お前を確実に手に入れるためだよ」


 その言葉にディアーヌは衝撃を受けた。

自分を手に入れるため? そのためだけに、そんなことのためにこいつらはこんな大勢を殺したというの?

 激しい怒りの感情や悔しさ、くそ貴族を憎む気持ちが心の中で渦巻いたが、ディアーヌには何もできない。

 外に向かって引き摺られていく最中、誰かの血だまりを踏みつけその生暖かさに震えながら、ディアーヌは手の中の真珠玉を強く握りしめた。


「アエス……助けて……!」


 次の瞬間閃光が走った。


「ぐあっ、何だ、これは!」


 従僕は思わずディアーヌの腕を放し、手で顔を覆った。


「うわあぁ、何なんだ!?」

「くそっ、眩しくて何も見えねえ!」


 ならず者たちも尻もちをついたり武器を取り落としたりと混乱状態だ。

 せっかく解放されたが、あまりの眩しさにディアーヌも動けない。その場に蹲っていると、真珠玉を握っている左手に誰かが優しく触れた。

 ハッとして顔を上げると、眩しい閃光は消え、目の前にはアエスがいた。


「…………っ、アエス……」


 零れ落ちる涙をそのままに、ディアーヌはアエスに縋りついた。


「母さんが! こいつらに、こ、殺されて……! どうして? どうしてこんな……」


 自分に縋りつくディアーヌを優しく抱きしめながら、アエスの瞳は怒りに燃えていた。青い瞳の中に炎のような光が揺らめいている。今のアエスの姿を魔術師が視たら、全身から魔力が迸って巨大な火柱のようになっているのが見えただろう。


「願え、ディアーヌ。お前の願いを何だって叶えてやる。ただし、対価は貰うがな」


 ディアーヌはゆっくりと顔を上げ、アエスを見た。アエスは静かにディアーヌを見返した。

 二つの青い瞳が合わさった。双子の月のように。

 ディアーヌの心の内では怒りと憎しみが嵐のように荒れ狂っていた。それと同時にどこか凪いでもいた。怒鳴り散らして暴れだしたいほどの激情と波ひとつ立たない静かな水面のような冷静な感情。


――脳裏に浮かぶのは母の死に顔。


「母さんとみんなの仇を討ってちょうだい。対価は何を差し出せばいい?」


 アエスは数秒考えた。


「お前の魂の半分、それから、声を貰おう」


 本当は対価など欲しくない。愛するエリザベートの娘の願いだ、何かと引き換えにするのは嫌だったが、これも魔法世界の定められたルールの一つだ。

 ディアーヌは頷いた。


「いいわ。あげる」


 ディアーヌの返事を聞くが早いか、アエスは指をパチンと鳴らした。ディアーヌの身体から、煌めく靄のようなものがふわりと浮き上がる。そこから分離したひと固まりを、アエスは強く握りしめた。


「これがお前の声だ」

「…………、……!」


 何か言おうとして、声が出ないことに気付き驚くディアーヌ。アエスは次に、残った靄を半分に引き千切り片方をディアーヌの身体に戻し、もう片方を自分の胸元から引っ張り出したロケットペンダントに仕舞った。


「これはお前の魂の半分。対価は確かに受け取った。契約は成ったぞ」


 アエスはディアーヌの腕を引き、自分の後ろに押しやった。ディアーヌが振り向くと、視力が回復したくそ貴族の従僕やならず者たちが武器を拾い立ち上がろうとしていた。


「精霊、だと……? くそ、高位精霊か? 何故ここに!」

「おいおい、何だぁ? あの生っちろい兄ちゃんは?」

「おい、兄ちゃんよぉ、その小娘をこっちに渡しな!」


 アエスが精霊だと気付かないならず者たちがこれ見よがしに武器を見せながら近づいてくる。


「おい、待て! 危険だ!」


 アエスを精霊だと見抜いた従僕がならず者たちを止めたが、少し遅かった。


「命の代償は命だ。死んで償え……『其は荒波をもたらす水底の渦巻く軍馬と戦の果ての厄災』!」


 津波が男たちを襲った。とてつもなく大量の海水が男たちを飲み込む。よく見ると、波の中に大きな馬の姿が見えた。水でできた馬だ。訓練された軍馬のように一列に並び、男たちを踏み荒らし、踏み潰し、蹴り飛ばし、蹴り砕いた。

 ディアーヌはその光景を、アエスの背中越しに見ていた。

 これを望んだのは自分なのだと、噛みしめながら。

 男たちが息絶えた途端、大量の海水は痕跡すら残さず跡形もなく消えた。床も壁も殺された人たちの身体も、濡れてなどいない。幻か白昼夢のようだったが、バレル男爵の従僕とならず者たちは大変悲惨な状態で死んでいる。


――夢ではない。


「ディアーヌ」


 アエスはディアーヌに向き直り、声をかけた。


「じきに人が来る。この男どもの死については、愚かにも精霊の怒りを買った結果だと役人に伝えろ。私とお前との契約については言う必要はない。……この男がどこぞのくそ貴族の従者であることは言っておいた方がいいな」


 ディアーヌはこくりと頷いた。


「花びらと人魚亭の襲撃については……お前が知っていることをそのまま伝えろ。くそ貴族の借金のことや、所領の娘が消えていること、この襲撃はお前を攫おうとした結果だろう、とな」


 こくり、頷く。


「お前の魂を半分貰ってしまったせいで、お前の寿命はずいぶんと縮んでしまった。私はエリザベートを守れなかった。だから、今後はお前を守ろう」


 ディアーヌは目を見開いて驚く。


「お前を守る。何者からも守る。だが、魔術師は精霊が人に憑くことに敏感で、良くは思わない。それも無償で憑くことに。だから、契約したという体裁をとることにしよう。そうだな、声を守護の対価とした、と」


 いいの? とディアーヌの唇が動いた。アエスはそれを見て微笑み、頷く。


「いいんだ。もう決めた」


 ディアーヌはアエスに抱きついた。アエスも彼女を抱き返した。声なき嗚咽がアエスの腕の中から聞こえてくる。

 やがて、アエスはディアーヌを優しく離し、一歩下がったと思うと闇に溶けるように姿を消した。ディアーヌは一瞬さみしさを感じ心細くなったが、耳元でアエスの囁き声が聞こえ安堵した。


「私はいつでもそばにいる。案ずるな」


 ディアーヌが頷いた直後、花びらと人魚亭に人が駆け込んできた。


「どうしたんだ! 何が……」

「な、何だこれは!」

「店主はどこだ!?」

「おい、あそこに娘がいるぞ!」


 駆け込んできたのはセント・ルース市警の警察官だった。

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