青の秘密 十一
オリヴィエが死んだとき、自分の心の一番柔らかく繊細な場所も一緒に死んだのだと、エリザベートはそう考えていた。どこか
オリヴィエを轢いた馬車の主である貴族の男は、オリヴィエのせいで大事な積み荷が壊れたと難癖をつけてきた。積み荷の代金を払え、と。
提示された金額は、庶民が一生かかっても稼げないような額だった。
夫を亡くしたばかりでショック状態の上、とんでもない金額を見せられて呆然としているエリザベートに、男は『お前の娘ならそれぐらいの金額がつくだろう。あと十年もすれば、引く手数多の娼婦になれる』と下卑た顔で言ってきた。
その言葉にエリザベートは激しい怒りを覚え、同時に現実に戻ってきた。
ディアーヌだけは何としてでも守らなければならない。
怒りの勢いのまま、『娘を売るくらいなら私が娼婦になって稼ぐ』と啖呵を切ったのだ。
その勢いに、男はあっけにとられた顔をしたが、すぐににやにやとした顔に戻り、花街の元締めを連れてきて、あっという間に必要な手続きを整え、エリザベートはひと月後には娼館に行くことになった。ひと月の猶予が与えられたのは喪中であるからだ。
こんなこと、さすがに姉にも両親にも言うことはできない。だからエリザベートは誰にも何も言わずにディアーヌを連れて秘かに家を引き払ったのだ。
オリヴィエとの思い出がたくさん詰まった家から去るのは辛かった。
エリザベートは、わずかな荷物を詰めたトランクを下げ、ディアーヌの手を引いて家の前の坂道を半分下ったところで一度だけ振り返った。
侯爵邸を飛び出し、オリヴィエと二人でこの家を買って住み着き、協力して家の中を住みやすいように整え、毎日楽しく笑い合い、時には喧嘩して、そして仲直りして、ディアーヌが生まれてさらににぎやかになって……。
共に暮らしたのはほんの六年間。濃く短く幸せな六年間だった。
この思い出があれば、どんなことがあっても生きていける。
エリザベートは、前に向き直り歩き出した。もう二度と振り返らなかった。
花街は港からほど近い場所にあった。長旅から帰った船乗りが、あるいは長旅の途中の船乗りが客として訪れるからだ。
エリザベートが売られたのは『花びらと人魚亭』という娼館だった。
店主は貴族の男とは違って、人の売り買いをしている割には良心的な人物だった。彼の厚意で、エリザベートは『花びらと人魚亭』でディアーヌと一緒に暮らすことが許可された。
エリザベートが夜の仕事をしている間は、ディアーヌは屋根裏部屋で一人で過ごすことになった。初めは、母親のいない夜がさみしくて怖くて仕方がなかったが、数日するとすっかり慣れた。
一年経つ頃には母親のしている仕事を薄々理解するようになり、母親が背負っている莫大な借金を片付けないことには自由にはなれないのだということも何となく悟った。
母さんの力になりたい。
そう思ったディアーヌは、大きくなったら自分も娼婦になると言って母親から盛大な平手打ちをくらい思いっきり泣かれた。
「馬鹿なことを言わないで! 絶対にダメよ!」
エリザベートは滂沱のごとく涙を流し猛反対した。
大事な一人娘にこんな仕事をさせたくないのよ、わかっておあげ、と泣きじゃくるディアーヌを
何となく母の気持ちを察したディアーヌは、その後二度と娼婦になるとは言わなかった。
七歳になる頃、ディアーヌは近くに住む少年らから泳ぎを教わった。ディアーヌには泳ぎの才能があったようでぐんぐん上達し、少年たちからまるで魚のようだと笑われた。
深く潜って泳いでいると、海底の岩場で大きな貝や落ちているブローチなどを見つけた。
貝を採って市場に持っていくと、立派な貝だと褒められドミオン銅貨三枚で買い取ってもらえた。
拾ったブローチなどの宝飾品も街の質屋に持っていくと、状態の良いものはサファリア銀貨数枚で買い取ってくれた。
得たお金を母に渡そうとしたら、抱きしめられて褒められたあとで「それはあなたが持っていなさい」と言われたので、なら、もっとたくさん溜まったら渡そうと空き缶にしまってベッドの下に隠した。
母にはあまり危ないことはしないようにと言われたが、ディアーヌは貝と落とし物を拾うことに熱中した。時折潜りやすい海域を縄張りにしている海女や漁師たちに文句を言われ追い出されることもあったが、場所を変えて毎日潜った。
たまに、自分の漁場の近くでボート遊びをしている貴婦人たちが落とした指輪をその場ですぐに拾ってボートに届けると、大変喜ばれチップをはずんでもらえることがあった。
そういう時は、市場でお菓子を買って母へのお土産にした。
十歳の時、ディアーヌはあることに気付いた。
毎日母のもとに来る客たち。若い男、そこそこ歳のいった男、金持ちそうな男、船乗りらしき屈強な男、痩せた男、太った男、美男子、ほどほどの容姿の男。
様々な男が母を買いに来るが、奇妙なことにディアーヌには彼らがすべて同じ人物のように思えた。
見た目も話し方も声も仕草も、何もかもが違うのだが、ディアーヌは同じ人物だと感じた。
客のことが気になったディアーヌは、ある日の早朝、まだ明けやらぬ薄明の空の下を帰っていくこの客の後をつけてみた。
母と同年代ぐらいの見た目の男は、花街を通り抜け、港を素通りし、浜辺に足を踏み入れた。隠れる場所がないため、ここで諦めようかとディアーヌが迷っていると、男はくるりと振り返り、「来なさい」とディアーヌに声をかけ手招きした。
バレていたのか、と観念してディアーヌが男に近づくと、男は呆れたような顔をして、笑った。
「私に何の用だ? ディアーヌ」
「……私の名前、知ってるの?」
「お前の母親から聞いた。泳ぎが得意でお転婆で困る、と」
その言葉に、ディアーヌは唇を曲げた。
「お転婆は余計だわ、母さんったら」
男は声をあげて笑った。
「それで? どうして私をつけてきたんだ?」
ディアーヌは何と言って説明しようか少し迷ったが、そのまま言うことにした。
「あなた、一昨日もその前もさらにその前も、何なら母さんが娼婦になってからずっと、ずーっと毎日来て母さんを買ってるわよね?」
男は虚をつかれたような顔をして、目を瞬かせた後破顔した。
「まさかバレるとは思わなかった。お前は目が鋭いな」
「……本当に、全部あなたなの? 今まで母さんが取ってた客は全部?」
「そうだ、私だ」
男の身体が蜃気楼のようにぐにゃりを歪み、次の瞬間まったく違う姿になった。
年の頃は二十代半ばくらい。背は高く、身体つきもしっかりしている。真珠色のくるくるした長い髪を後ろでまとめて黒い幅広のリボンで縛り、着ている服は昔の貴族のような衣装だ。
顔の上半分は仮面で隠されている。繊細な銀の透かし細工の仮面だ。
印象的なのはその瞳。濃く鮮やかな青色で、瞳孔は猫のように縦に細長い。
ひどく美しい、人間離れしたその姿。
――人間ではない。
「あなた、精霊?」
「そうだ」
「精霊がどうして母さんを毎晩買うの? 母さんをどうするつもり?」
精霊はくつくつと笑った。
「お前が心配しているようなことは何もしていない。私はエリザベートと一晩中語らっているだけだ」
ディアーヌは一瞬呆けた顔になった。十歳のディアーヌでも、娼館がどういうところで娼婦がどういう仕事をするものなのか知っている。毎晩花びらと人魚亭のあちこちからそういう声が聞こえてくるし、何だったらうっかり現場を見てしまったこともある。
「母さんを毎晩買っておいて、どうして何もしないの? わかった、あなた、すごく特殊な
「違う」
精霊は即座に否定した。ディアーヌは疑いの眼差しで精霊をじとりと睨み上げた。精霊もディアーヌを睨み返す。
「私はエリザベートの友人だ」
「友人? 本当に? 私、母さんに精霊の友達がいるなんて知らなかったわ」
「お前が知らないのも当然だ。エリザベートは夫にも私のことを告げていなかったらしいからな。……エリザベートとはこの浜辺で偶然出会った。私はその時人間のふりをしていたのだがなぜか彼女にはすぐバレてしまったのだ。私が精霊だと知ったその後も彼女は時折この浜辺にやって来て私と語り合った。夫と喧嘩をしたとか、やっぱり夫は世界一優しくて男前だとか、子供を身籠ったとか……お前が生まれてからはやれ娘が可愛くて困るだの、泣き声が大きくて、元気に育ってくれているようで良かっただの、つかまり立ちをしただの、甘く煮込んだ南瓜を口いっぱいに頬張る姿が可愛いだの、お前が初めて歩いた時の喜びようと言ったら……とにかくお前の父親とお前の話ばかりだ。ああ、お前の目が鋭いのは母親譲りなのかもしれんな。時折いるんだ、そういう人間が」
ディアーヌは精霊の話を少々複雑な思いで聞いていた。父にも内緒にしていた秘密の友人。
――もしや母が浮気を……?
と思ったが、続けて聞かされたのは母の惚気話と親バカ全開の娘自慢だった。
どういう反応をすればいいのか……感情の乱降下が激しい。ディアーヌは一気に疲労感を覚えた。が、あることに気付いてディアーヌはハッと顔を上げた。
「ねえ、待って。あなたがずーっと……この五年間毎日来て母さんを買ってるってことは、母さんは……」
精霊はにやりと笑った。
「気付いたか。そうだ、エリザベートの貞操は誰にも奪われていない。彼女はずっとオリヴィエのものだ」
母はずっと父のもの。
その言葉にディアーヌは安堵した。仕方のないこととは言え、母が誰かのものになるのが本当は嫌で嫌でたまらなかったのだ。
「どうして、母さんのためにこんなに……?」
その問いに精霊は笑った。
「彼女がよき友人だからだ」
その優しげな表情。どこか人間味のある顔に、ディアーヌも微笑んだ。娼婦になる前の知り合いと一切縁を切ったエリザベートに友と呼べる存在がいたことが、ディアーヌはたまらなくうれしかった。
旭日が東の空を切り裂いた。紫だった空の色があっという間に金色に染まる。精霊はそれをちらりと見て、ディアーヌに帰るように言った。
「そろそろ帰らないとエリザベートが心配するぞ」
「そうね、帰るわ。でも、その前に」
ディアーヌは精霊を真っ直ぐ見上げた。睨むのではなく、その大きな目でただ見上げた。
「あなたの名前を教えてくれない? あなたは私の名前を知っているのに、私はあなたの名前を知らないなんて不公平だわ」
そう言って頬を膨らませ、唇を尖らせるディアーヌに、精霊は思わず笑った。
「変な顔だな」
「うるさいわよ」
不機嫌な顔を隠さないディアーヌに、精霊は優しく告げた。
「私の名前はアエス、だ」
「……アエス。不思議な名前ね。覚えておくわ」
満足そうに笑うディアーヌに、アエスはもう帰るように促した。
「また今夜も行く。明日も、明後日も。エリザベートが自由になる日まで、彼女は私が独占し続けるつもりだ」
「ありがとう、アエス。じゃあ、また」
ディアーヌは手を振り、くるりと背を向けて浜辺を後にした。そして、花びらと人魚亭に帰った途端、何も言わず勝手に出かけたことを死ぬほど心配していたエリザベートに思いっきり叱られた。
約束通り、アエスはその後も毎日エリザベートの元を訪れた。
次の日も、その次の日も、アエスは別人に化けて花びらと人魚亭に通いエリザベートを買い続けた。
お金はどうしているんだろうと思わなくもなかったが、それを聞くのは野暮だろうと思ったのでディアーヌはずっと黙っていた。別に、一晩経ったら木の葉や小石に変わっているということもなかったし。
そんな日々が五年も続いたある日。
ディアーヌが十五歳を迎えた年のことだ。
父オリヴィエを轢き殺したくそ貴族が突然花びらと人魚亭にやってきて、ディアーヌを買い取りたいと言い出したのだ。
エリザベートの借金返済が遅れており、また娼婦としては
エリザベートは当然断った。くそ貴族は返済が遅れていると言うが、彼女がつけている記録によるとあと二、三年で借金は返済し終えるところまで来ているし、そもそも期限にもまだかなり余裕がある。
花びらと人魚亭の他の娼婦や店主らもエリザベートとディアーヌに味方した。みんな母親のために毎日海に潜って小銭稼ぎしている頑張り屋のディアーヌのことが好きだったから。
くそ貴族を追い返した後、馴染みの商人から興味深い話を聞いた。くそ貴族が商売に失敗して莫大な借金を作ってしまったというのだ。エリザベートが背負った額の数十倍の金額の借金だ。
くそ貴族の館や所領、全ての財産を手放せば借金のほとんどを返すことができるのだが、業突く張りのあのくそ貴族は財産を失うのは絶対に嫌だと考えて、他の手段を選んだ。
すなわち、人身売買だ。
すでに、くそ貴族の所領からは数人の少女らが消えているという。全員見目麗しい美少女ばかりだ。
花びらと人魚亭の店主と娼婦らは、ディアーヌにしばらく外出禁止を言い渡した。窮屈だろうがこらえてくれ、と。
もちろんディアーヌは承諾した。攫われるのも売られるのもまっぴらごめんだからだ。
娼婦になることが嫌なわけではない。母には猛反対されたが、実は今でもなってもいいと思っているし、その覚悟もできている。
ただ、自分の意志でなるのと強要されてなるのとは違う。娼婦になる時は自らの覚悟の元でなる、とディアーヌはそう決めている。
ディアーヌは徹底的に花びらと人魚亭に引きこもった。いなくなった少女が心配だったが、警察には届け出たし自分にできることは何もない。
掃除や洗濯をいつも以上に頑張り、よく働いた。だが、掃除洗濯などはいつもやっている仕事の一つだ。ちょっと頑張ればすぐに終わってしまう。
暇を持て余したディアーヌに、エリザベートは刺繍を教えた。元々裁縫はそれなりに得意だったディアーヌはたちまち上達し、可愛らしいハンカチやサシェがいくつもできた。
自由に出歩けるようになったらこれを市場に売りに行こうと考えていたが、そんな日は
ある日の深夜、花びらと人魚亭に数人の男たちが侵入し、店主や娼婦たちを皆殺しにしたのだ。
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