青の秘密 十

 エリザベート・マリアンナ・ド・スカーフィアはスカーフィア侯爵家の令嬢だった。優しい両親としっかり者の姉シンシアに可愛がられ、何不自由ない暮らしを送っていた。

 年頃のエリザベートには結婚相手の候補も大勢おり、引く手数多だったが、彼女が好きになったのは身分の低いある一人の男だった。


 王国西部の領地にある侯爵家のカントリーハウスに出入りする庭師の男、名前はオリヴィエ・ロイシー。真面目な好青年で庭師としての腕もいい。背は高く、姿勢も良く、容貌も整っている。

 オリヴィエは自分の見栄えがいいことを利用するような男ではなく、ただ真面目に庭師としての仕事に取り組んでいた。オリヴィエは、エリザベートには当たり障りのない、素っ気なくも思える態度を取っていたが、かえってそれが彼の真面目さの表われのように思えて、エリザベートは好ましく思った。


 エリザベートはオリヴィエの仕事中、邪魔にならない程度に彼に話しかけ、時にお菓子を差し入れるなどした。オリヴィエはお礼にと、剪定して切り落とした花をエリザベートに贈った。そういうやり取りを何度も続け、徐々に二人は惹かれ合っていった。


 それを良く思わなかったのはエリザベートの父親だ。大事な娘を庭師なんぞにはやれないと、彼女の結婚を早々と決めてしまったのだ。

 相手の男性も申し分のない人物だったが、エリザベートはオリヴィエのことを愛していた。


 そして、ある嵐の晩に、エリザベートは侯爵邸から忽然と姿を消したのだ。


 当然、侯爵邸は大騒ぎになった。大事な娘が消えたのだ。侯爵は金をばらまき人を使ってエリザベートの行方を探させたし、侯爵夫人はショックで卒倒した。シンシアは父と共に大事な妹の行方を探したし、独自の人脈を持っていたからそちらも使った。


 最初にエリザベートを探し出したのはシンシアの独自の人脈の方だった。


 スカーフィア侯爵家は代々ルビロ王国の外務大臣の役目を担っている。シンシアは女であるため、いずれ婿養子を取り家を継いでもらうしかない。その夫のため、彼女はまだ十代の今から独自の人脈を築いていた。外国の情勢を知るために、正規の外交ルートだけではなく諜報組織とも言うべき裏のルートを構築したのだ。


 その男の報告では、エリザベートは王国南部の港街、セント・ルースにいるとのことだった。それを聞いて、シンシアは急ぎ汽車に飛び乗った。


 エリザベートが侯爵邸から姿を消してすでに三ヵ月が経っていた。貴族の深窓の令嬢が、三ヵ月もの間どうやって暮らしていたのか。ひどい目に遭ってはいないか、男に騙されたのではないか、否な想像ばかりが頭をよぎったが、辿り着いたセント・ルースでシンシアが見たのは、笑顔を浮かべて市場で働く元気な妹の姿だった。


 怪我をしている様子はないし、むしろ侯爵邸にいた時よりも生き生きとしている。ひとまず安心したシンシアは、夕方、エリザベートの仕事が終わるのを待って声をかけた。


「リーザ」


 パッと振り返ったエリザベートは目を真ん丸にして驚いた。


「お姉さま……私を連れ戻しに来たの?」

「そうよ……でも、違うかもしれない」

「え……?」


 シンシアは迷っていた。姉の様子がおかしいのに気付いたエリザベートは、彼女を自宅に招いた。

 エリザベートとオリヴィエの暮らす家は、坂の上にある見晴らしのいい一軒家だった。白い壁、灰色の屋根、庭には緑の葉を生い茂らせた大きな木が一本。

 エリザベートがシンシアを連れてきたことにオリヴィエは驚き警戒したが、彼女を家に招き入れた。


「迷っているのよ、あなたを連れ戻すか否か。だって、ねえリーザ、あなた、うちにいた時よりもずっと幸せそうなんだもの」


 粗末な木の椅子に座り、温かい紅茶を一口飲んだシンシアはそう切り出した。


「幸せなのは当然よ、お姉さま。オリヴィエと……愛しい人と一緒なのだもの。だから、私は帰らないわ」

「でも、あなたに庶民の暮らしができるの? 私たちは貴族よ。貴族としての暮らししか知らないわ」

「あら、お姉さま。今日市場で働いていた私を見たでしょう? 私、ちゃんと毎日働いているし、食事の支度だってやってるわ。オリヴィエと生きていくと決めてから、こっそり料理や洗濯の練習をしていたのよ」


 その言葉に、シンシアはそう言えば、と思い出す。妹が、いなくなる前の数か月間使用人たちの後をついて回って色々話しかけたり、厨房に顔を出して料理人たちにあれこれ尋ね、時には簡単な料理を作ったりしていたことを。

 シンシアは片手で顔を覆って深い溜息をついた後、妹を見た。エリザベートは真剣な顔で姉を見ていた。

 小さかった妹はいつの間にか大人の女性になっていた。


「わかったわ」


 シンシアはそう呟いた。


「お父様とお母様にはうまく言っておくわ。あなたはここでオリヴィエと共に暮らしなさい。ただし、定期的に私に手紙を寄越しなさい。近況を書いて報告なさい。いいこと、約束よ」


 シンシアはエリザベートに、この街に住んでいる自分の手の者の存在を教え、その人物に手紙を仲介してもらうように言い、あとで自分からもこのことを頼むのを忘れないよう頭の中にメモした。


「お姉さま……ありがとう。そして、ごめんなさい」


 エリザベートは目に涙を浮かべて礼を言った。オリヴィエも目を潤ませている。


「ありがとうございます、お嬢様」


 シンシアは背の高いオリヴィエの顔を見上げ、しっかり目を合わせて言った。


「オリヴィエ・ロイシー。妹を頼んだわ。何があってもリーザを守りなさい。将来子供が生まれたら、その子のことも守るのよ。言っておきますけれど、リーザを悲しませたり不幸な目に遭わせたりしたら許しませんからね」


 そう言って、シンシアは精いっぱい尊大に顎を上げ、オリヴィエを睨んだ。オリヴィエもシンシアの視線を、目を逸らすことなく受け止め、頷いた。


 ロイシー家を辞したシンシアは、予めとっておいた宿に一泊し、翌日西部の領地に戻った。

 スカーフィア侯爵領の主要都市ラフレントにある侯爵邸に帰還したシンシアは、南部にエリザベートがいたという情報は誤りであり、依然エリザベートの行方は分からないということと、おそらくエリザベートはもうすでに純潔を失っており、連れ戻したところで結婚は難しいだろうということを両親に進言した。


 母親は娘を攫った(ということになっている)オリヴィエのことを罵り、父親は深々と溜息をついて、エリザベートの結婚相手に何と言って詫びるかを考えた。

 後にわかったことだが、父親はシンシアより若干早くエリザベートの行方を突き止めていたらしい。飛び出していったシンシアがエリザベートを連れて帰ってくるのを待っていたのだが、結局シンシアは一人で帰ってきた。シンシアの様子から、彼女がエリザベートを庇っているのは明らかで、そしてエリザベートはおそらく元気でいるのだろうということが察せられた。


 我が子には幸せになってもらいたい。そんな親心から父親は沈黙することを選んだのだ。

母親は始めのうちオリヴィエを悪しざまに罵りエリザベートを思って嘆いてばかりいたが、落ち着いた様子の夫と長女を見て何かを察したらしい。次第にエリザベートについて何かを言うことはなくなっていった。


 翌年、エリザベートから娘が生まれたという知らせが来た。シンシアは祝いの品を持ってすぐに汽車に飛び乗り、妹に会いに行った。

 ディアーヌと名付けられた赤ん坊は、エリザベートによく似ていた。産毛のような金色の髪、サファイア・ブルーの瞳。鼻の形のみオリヴィエ似だった。


 さらにその翌年、シンシア自身が結婚した。相手は遠縁にあたる貴族の次男で、名前はマクシム。大柄で、よく笑う明るい性格の男だった。この時シンシアはすでに二十歳になっていてやや行き遅れの部類だったが、マクシムはそんなことは全く気にせず美人でしっかり者の妻を心から愛した。


 結婚の翌年、シンシアとマクシムは双子の男児を授かった。

 子育てに社交に、シンシアは忙しかった。特に、双子が三歳になった頃、父親が突然隠居すると言い出しあっさりとマクシムに爵位を譲って領地に引っ込んでしまった時は、引継ぎやら何やらマクシムの補佐のためにあちこち駆けまわり、目が回るような忙しさだった。


 その忙しさも落ち着き、幸せで、どこか平凡な毎日を送っていたある日。エリザベートから娘のディアーヌが五歳になったという手紙が届いたひと月後、続けてもう一通手紙が届いた。

 シンシアは訝しんだ。こんな短期間に手紙が届くことは今までなかったからだ。


 二通目の手紙の内容は、オリヴィエの死を告げるものだった。


 慌ててセント・ルースのロイシー家に駆け付けたシンシアを、憔悴しきった様子のエリザベートが出迎えてくれた。エリザベートのスカートには、人形のように可愛らしい幼いディアーヌがくっついている。


「お姉さま……」

「リーザ、大丈夫なの? 顔色が悪いわ。寝てないのではなくて?」

「大丈夫よ」


 そう言ってエリザベートは浮かんだ涙を袖口で拭い、ディアーヌの肩を押して自分の前に出した。


「さ、伯母さまにご挨拶なさい」


 母親に促されたディアーヌは、つたないカーテシーを披露した。


「はじめまして、ディアーヌ・マリアンナ・ロイシーです」



 可愛らしい挨拶に、シンシアは思わず目元を綻ばせた。

「私はシンシア・マルグリット・ド・スカーフィア。あなたのお母様の姉よ。実は私たち、会うのは初めてではないの」


 ディアーヌはきょとん、とした。大きな青い目が今にも零れ落ちそうだ。


「あなたが生まれたばかりの赤ん坊の時に一度会っているのよ。あなたはもちろん覚えていないでしょうけれど」


 言いながらにっこりと微笑みかけると、ディアーヌもにっこりと微笑み返した。


「お姉さま、どうぞ、かけて」


 エリザベートは姉に椅子を勧め、自分はお茶を入れる支度をしにキッチンに向かった。

 ディアーヌと共に椅子にかけて待っていると、エリザベートがポットとティーカップを木の盆にのせて戻ってきた。

 三つのティーカップに温かい紅茶を、ディアーヌのものにのみ蜂蜜を少量垂らして混ぜ、各々の前に置いた。


「リーザ、オリヴィエのこと、残念だったわね」


 シンシアの言葉に、エリザベートは頷き涙を零した。


「馬車に轢かれたの……貴族の馬車に」


 そう呟き、エリザベートは本格的に泣きじゃくり始めた。


「う、腕が半分千切れていたわ……でも、顔は綺麗だった。眠ってるみたいで、揺すったら目を覚ましそうで……っ」


 シンシアは妹を抱きしめた。ディアーヌはその光景を大きな目でじっと見ている。


「リーザ、あなたこれからどうするの?」


 シンシアの問いに、エリザベートは眉を寄せて俯いた。


「あなた一人でディアーヌを育てられるの? 今まで以上に働かなければいけないでしょうし、働いている間ディアーヌはどうするの?」


 エリザベートは問いには答えず沈黙したままだ。


「リーザ、あなた、うちに戻りなさい。お父様もお母様も分かってくださるわ。可愛い孫を見たらきっと許してくれるわよ。私からもうまくいってあげるから……」

「いいえ」


 きっぱりとエリザベートは言った。


「帰らないわ」

「どうして!? あなた一人でどうやって生きていくというの!?」


 エリザベートは微笑んだ。その顔には先ほどまでとは違ってどこか力が漲っているようだった。


「当てならあるわ。大丈夫、ちゃんとうまくやるから」


 シンシアがどんなに言葉を尽くしても、エリザベートは首を縦には振らなかった。大丈夫、ディアーヌと二人でやっていく……そればかりを繰り返し、瞳には強い光が宿っていた。

 六年前、オリヴィエとの仲を反対され駆け落ちを強行した妹だ、これ以上何かを言うとまた無茶をやらかしそうだと危惧したシンシアは、潔く引くことにした。


「わかったわ。でも、困ったことがあったらいつでも言うのよ。必ず力になるから」

「ええ、お姉さま。ありがとう」


 その後すぐにシンシアはロイシー家を辞して駅に向かった。

 この別れが妹との永遠の別れになるとは露ほども思っていなかった。




――この数日後、エリザベートはディアーヌと共に姿を消した。

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