青の秘密 七

 セント・ルースの街並みは夕闇に沈みかけていた。そこかしこに立つ街路灯と建物の明かりがこの時間でもまだ賑わっている市場を照らし、遠くには夕空を反射した橙色の海――グラディウス海が見える。

 森に帰る烏の群れ。

 潮騒と磯の匂い、湿った空気。

 ディアーヌは懐かしい潮の香りの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「駅の近くにある、沙羅しゃら雨虎あめふらし亭という宿を予約しています」


 ウォルクの言葉にディアーヌは急いで帳面に文字を書きつけた。


『そこなら知っています。案内します』


 案内役を買って出たディアーヌを先頭に、一行は市場のある通りを進んだ。

 今日最後の漁で上がったばかりの新鮮な魚や海老、漁師が素潜りで採って来たという様々な種類の貝、昆布や若布、天草、海苔などの海藻も並んでいる。


 空には七百年前から右上部分が抉れたようにごっそりとなくなっている月が浮かんでいる。今日は満月に近い月齢であるため、抉れた部分がよく見える。

 何でも、今から七百年前、世界を恐怖に陥れ、悪逆と破壊の限りを尽くした悪竜が月を抉ったらしい。そして、この竜は当時最強と謳われた魔術師によって倒されたという。


 日が暮れてもにぎやかな市場を通り抜け、メインストリートから逸れた静かな通りに、沙羅と雨虎亭はあった。

 中庭に沙羅(夏椿)が植えられた、石造りの建物だ。建物の周囲には素朴な野の花が咲きこぼれる美しい庭が広がっている。建物の一画はコンサバトリーになっていて、そこでティータイムを楽しむこともできるようだ。

 ディアーヌの案内で沙羅と雨虎亭に辿り着いた一行は、すぐにチェックインを済ませ、部屋に通された。

 セイラムは一人部屋。すぐ隣にウォルクとピエール。その隣にアエス。さらに隣にディアーヌ。ディアーヌの隣にアンジェリカとミシェル、という並びだ。


 荷物を置いて一階の食堂に降りると、すぐに夕食が用意された。

 白身魚のカルパッチョに焼いたロブスター、ホタテのバターソテーにイカのフライに鱈の蒸し料理。海老と貝が入ったブイヤベースもある。鱈の蒸し料理には茸も入っていて、聞けばすぐ近くに広がる森で茸が豊富に採れるのだそうだ。

 セイラムたちは食事を大いに楽しみ、腹がくちくなると早々に部屋に戻った。明日は朝早くから砂浜で例の風鈴のぜつ探しだ。

 はっきり言って無謀なチャレンジではあるが、セイラムにはほんの少し希望があった。セイラムは魔力の残滓が見える。高位精霊であるアエスの宝物であるなら、彼の魔力が残っていても不思議ではない。失くしたのは一年半も前のことだが、望みはあるとセイラムは考えていた。

 非常に楽観的で危険な考えだとはわかっていたが、無謀すぎてそう思っていないとやってられないのだ。


 ウォルクに手伝ってもらって寝支度を整えたセイラムは、さっさと床に就いた。ふかふかのベッド。清潔な白いシーツからはほのかにラベンダーの香りがする。


 街は夜の闇に沈み、静まり返っている。港に停泊している船の明かりがぽつり、ぽつりと点在し、幻想的な風景を作り出していた。


 深夜、セイラムはふと目を覚ました。半覚醒状態でうとうとと微睡んでいると、何かの気配を感じて意識がはっきりと覚醒する。

 そのまま寝たふりをしていると、何かはセイラムに近寄ってきて、掛け布団の上に出ていたセイラムの左手を取った。人差し指にはまっている指輪を撫でているようだ。


「お前の話には嘘がある」


 ひそめられた低い声はアエスのものだった。

 セイラムが目を開けて彼の方を見ると、鮮やかな青い瞳と視線が合わさった。


「嘘、だと? 何のことだ?」

「この指輪にまつわる話だ。精霊が宿っていると言われている緑柱石の竜の像。この指輪は、その像の欠片で作ったもの、だったか?」

「そうだ」

「お前の先祖が、交流のあったとある魔術師から預かったものらしい、とか」

「……そうだ。それがいったい何なんだ?」


 アエスはセイラムの左手を離した。


「お前はその話を信じているんだな」


 何か残念なものを見る目でそう言われ、セイラムはむっと顔をしかめた。


「いったい何の話なんだ? お前はうちの像について何か知っているのか? 知っているのなら教えてくれないか?」


 アエスはセイラムの言葉には答えず、部屋の暗がりに紛れるように闇に溶け込んで姿を消した。

 セイラムは半身を起こして気配を探ったが、室内にはもう誰もおらず、ウォルクが飛び込んでくる様子もないことから彼も気付いていないようだった。

 枕に頭を戻し、セイラムはアエスの言葉を考えた。


――お前の話には嘘がある。

――精霊が宿っていると言われている緑柱石の竜の像。

――この指輪は、その像の欠片で作ったもの。

――先祖が、交流のあったとある魔術師から預かったものらしい。

――お前はその話を信じているんだな……


 しばし天井の闇を見つめる。


「嘘……?」


 いったい何が?


      ***


 夜の闇に沈んだ倉庫街を数人の男たちが駆けていた。うち一人の服はぼろぼろであちこち焦げている。身体にも火傷を負っていたが幸い程度は軽い。攻撃して来た魔術師――セイラムが手加減したためだが、その男――最後に列車から落とされた男だ――はそれに気付いてはいなかった。

 やがて男たちは一つの倉庫に駆け込んだ。

茶色い煉瓦造りの倉庫。窓からは月明かりが差し込み、中は灯りがなくても歩ける程度に明るかった。


「オーブリー様!」


 先頭の男が倉庫の奥の椅子に座っている自分たちの上役に声をかけた。

 途端、男たちの顔のすぐ横を風が吹き抜けた。と同時に鋭い痛みを感じる。

 全員の頬が真一文字に裂けていた。血がぼたぼたと地面に落ち、男たちはそれぞれ小さな悲鳴を漏らす。


「よくもおめおめと戻って来られたな」


 不機嫌なその声に、男たちは今度こそがたがたと震えだした。オーブリーが被っているフードのせいで彼の表情は見えないが、相当怒っているのが分かる。

 先頭の男が意を決して口を開いた。


「おっ、お許しを! 伯爵があんなに強いだなんて思わなかったんです! どうせ貴族の道楽だろうと……」

「俺は言ったよなぁ? 貴族だからと言って油断するなと。リオン伯爵はあの赤の魔女の直弟子だ、と。五賢者が中途半端な弟子を取るかよ。お前たちはいったい何を聞いてたんだ? その耳は飾りか?」


 ひゅ、と音がして再び風が先頭の男を掠めた。

 ぽたり。

 何かが落ちる音がした。

 またどこか切られたのか? どこから血が出たんだろう?

 そう思いながら男が地面を見ると、落ちていたのは自分の耳だった。気付くと同時に切られた耳の付け根から血が噴き出す。


「ひっ、ひいぃぃぃ! お許しを! どうか!」


 男は跪いて命乞いをした。他の男たちも続いて跪く。だが、オーブリーは不機嫌そうに杖を振った。

 今度は一番右の男の腕が落ちた。利き腕だ。これでは今までのように自在に魔術を使うことはできない。


「ぎゃああぁぁぁぁ!!?」


 腕を落とされた男が地面に転がって藻掻き苦しむ。血がどんどん溢れ出し、地面を赤く染めた。

 すぐ隣にいた火傷を負った男は何とか自分だけでも助かろうとある情報を伝えようとした。


「お許しを! どうか! オーブリー様!! そ、そうだ、伯爵、伯爵が!」

「うるさいな」


 ひゅ、と音。今度は彼の耳が落ちた。


「伯爵が何だ、言ってみろ」

「は、は、伯爵は“魔法”を使います!!」


 オーブリーの雰囲気ががらりと変わった。


「何だと? “魔法”を使う? 伯爵が?」

「そ、そうです! 私を列車から落とす直前、私を燃やした炎は魔術ではなく“魔法”でした! 間違いありません!! じゅ、術式は使っていませんでした!」


 全部言い切ってから、男はオーブリーの様子を窺った。先ほどまで明らかに不機嫌だったのが、今は少し雰囲気が和らいでいる。


――これなら許してもらえるかも。


「なるほど、“魔法”……、“魔法”か。うん、あの方に進言しよう。きっと喜んでもらえるだろう。あの方は“魔法”を使える者を手に入れたがっていたからな」


 オーブリーの浮かれた声。

 もう一押し、命乞いを。可能なら治癒の術式を使ってもらえないだろうか。いい情報をもたらした褒美に……


「オー、ぶ、リー、さ、ま…………?」


 声がうまく出ない……。舌がもつれる……? 息を吸えない……??


 男が最期に見たのは汚れた天井と自分の身体――首の根元から上がる血飛沫だった。






 ごとりと落ちた男たちの首――全員の首を冷たく見やって、オーブリーは鼻で笑った。


「フん、有益な情報を持ってきた程度で失態が挽回できるとでも思ったのか? 馬鹿だなぁ。お前らはもう要らないよ」


 そして、軽い足取りで倉庫を後にした。

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