青の秘密 一

「おはようございます、セイラム様」

 はつらつとした執事の声。勢いよく開けられたカーテン。

 窓から差し込む朝の光に、気持ちよく微睡まどろんでいたセイラム・ジャン・アルベルト・ド・リオン伯爵は、端正な顔をしかめ、重い瞼をこじ開けた。

 青みがかった黒色の、長めの前髪の隙間から、紫水晶のような瞳が覗く。


「もう少し寝かせてくれ、夕べは遅かったんだから」


 かすれた声でセイラムが言うと、すぐさま「駄目です」ときっぱり拒否された。


「今日は王宮に参内さんだいし、昨夜の件を国王陛下に直々に報告することになっておりますので、早く起きて支度してください」


 にべもない言葉に、セイラムは渋々起きだした。

 すかさず、熱い紅茶の入ったカップを差し出されたので、受け取り、一口啜る。

 セイラムはこの執事に弱い。生まれた時からの付き合いであり、命の恩人でもあるからだ。

 リオン伯爵家の有能な執事、ウォルク・サジェ。

 曇り空のような色の髪と目、整った顔立ち。背も高く姿勢もよく、性格は真面目で寡黙、謹厳実直。他の使用人たちからの信頼も厚い、リオン伯爵家自慢の執事だ。

 ウォルクは、セイラムがベッドでモーニングティーを飲んでいる間に、手際よく着替えを用意すると、次に水を張った琺瑯ほうろうの洗面器を持ってセイラムのもとにやってきて、差し出した。

 差し出された洗面器の水で顔を洗い、ウォルクに手伝ってもらいながら手早く着替えたセイラムは、寝室を出て食堂に向かった。

 テーブルにはすでに、朝食と、アイロンをかけられた今日の朝刊が用意されている。

 まず、熱いコーヒーを一口。それから新聞を開く。

 一面には、セイラムが関わった昨夜の件――風竜種の卵の違法取引に関する記事が載っていた。

 この世界には魔法と魔術、魔法世界の生き物である精霊が存在する。

 彼らは力の強さによって『高位精霊』『中位精霊』『下位精霊』と等級分けされており、『高位精霊』の中でも特に力が強く、人を助けるなど人間に好意的で、英雄のように讃えられている精霊を『聖霊』と呼び、力が強く人に害をなす悪しき精霊のことを『魔霊』と呼ぶ。

 竜は精霊の一種だが、他の精霊とは違ってこちらの世界に根付いた希少な種であり、地竜種、水竜種、火竜種、風竜種の四種に分類されている。そして、その卵の売買は大陸協定で禁じられている。

 今回、その卵の違法な取引が行われるとの情報が入り、魔術や精霊に関する事件の専任捜査官に任ぜられているセイラムが調査し、さらなる情報を集め、証拠を固め、そしてついに、昨夜遅くに取引をおこなっていた不届き者どもを全員捕らえたのだ。

 新聞の一面には、「風竜種の卵の違法取引を未然に阻止!」という見出しがでかでかと踊り、捕らえられた不届き者どもが縛られ連行されていく様子を写した写真、保護された卵の写真、そして、真面目な顔をして記者のインタビューに答えているセイラムの写真が載っている。

 それらを満足げに眺めて、セイラムは焼きたての丸いパンを千切り、バターを付けて口に運んだ。パリパリに焼けた香ばしい皮、白いふわふわの中身を味わい、次にオムレツに手を伸ばす。バターをたっぷり使ったそれに舌鼓を打ち、新鮮な野菜のサラダを味わい、薄く切ったハム、チーズ、スープ、と次々に口に運ぶ。

 最後に果物を食べ、二杯目のコーヒーをゆっくりと飲み、セイラムは朝食を終えた。

 朝食後は部屋に戻り、王宮に参内するための着替えを行なう。

 ウォルクが用意したのは上等の白いシャツに緋色のクラヴァット、濃いグレイのフロックコートに黒いズボンだった。クラヴァットには黒く光る石がついたピンを留めつける。

 やや長めの前髪は整髪剤を付けて後ろにゆるく撫でつけた。こうした方が歳相応に見られるのではないかと、二十歳なのに十代半ばと間違えられる童顔男の空しい抵抗だ。

 そして、正装には欠かせないトップハット。


「セイラム様」

「ああ、ありがとう。では、行こうか」


 館の玄関でウォルクから受け取ったステッキを片手に、セイラムは颯爽と馬車に乗り込んだ。後にウォルクも続く。

 馬車はゆっくりと走り出し、一路王宮へと向かった。




 黄昏宮クレプスクルム・パレス――王都ソルブリオの中心部に存在する淡い黄色の壁の宮殿。屋根は暗い紺色で、所々に金の装飾が施されている。

 王宮の東西と南側には王都の街並みが広がり、北側にはなだらかな丘陵と森林が広がっていた。

 黄昏宮は東翼、西翼、南翼、北翼と、四棟を結ぶ中央宮の五つの建物から成る巨大な宮殿である。中央宮には玉座の間や国王の執務室があり、重要な国事行為や儀式、政務はここで行なわれる。

北翼は王族の私的な住まいになっており、こちらには入れるのは貴族の中でも限られた者だけとなっている。

南翼は迎賓の間や晩餐会などで使う豪華絢爛な大広間があり、一番華やかな建物だ。

そして、東翼と西翼には各省庁が政務を行なう執務室や侍従、女官らの控室があった。

参内したセイラムは中央宮にある国王の執務室で、国王とこの件にかかわる部署の大臣たちの前で、風竜種の卵の違法取引事件についての説明を行なっていた。

 鮮やかな緑色の壁紙が使われ、白いレースのカーテンが引かれた書斎は、翠(すい)嶺(れい)の間と呼ばれている。

 セイラムの目の前には現在三十歳の若き国王、ハンス・アレン・アレクサンダー・ド・ルビロが重厚なマホガニーの書斎机に着座し、セイラムの説明に耳を傾けていた。


「……と言うわけで、違法取引を行なっていた宗教団体“竜の牙と万劫の果て”の主だったメンバーは全員逮捕し、現在取り調べを行なっております。保護した卵については、組合ギルドを通じて風竜種の群れに返す予定です」


 セイラムの言葉に、国王は頷いた。明るい金髪がさらりと揺れ、思慮深げな碧い瞳がセイラムを見る。


「わかった。ご苦労だったな、リオン伯爵」


 労いの言葉に、セイラムは黙礼して答えた。

 宰相であるサングラント公爵をはじめ、国務大臣、外務大臣、軍務大臣も、国王同様頷いてセイラムの報告に理解を示す。

 だが、集まった中の一人、司法大臣ハンゲイト侯爵が不満げに口を開いた。


「ふん、なぜ我々が精霊なんぞのために骨を折らねばならんのだ。甚だ迷惑な話だと思わんかね、君?」


 顔をしかめながらセイラムにそう問いかける。ハンゲイト侯爵は魔術師否定派だ。精霊や魔術に関わることに労力を使うのが嫌なのだろう。問われたセイラムは少し困った顔を作りながら答えた。


「精霊は重要な隣人です。我々も助けてもらうことが多々あります。彼らに困ったことが起きた時、彼らの力になるのは当然だと考えます」

「だが、最後の最後で魔術師の力を借りるというのが気に喰わん。何故最後まで君がやらないのだ?」

「精霊に関する対応は魔術師の方が長けています。ましてや、今回の件には竜が関わっているのです。卵は専門家である魔術師に託した方が確実ですし……」

「君も魔術師の端くれだろう。魔力を持ち、赤の魔女に弟子入りしているのだから」


 ああ言えばこう返してくるハンゲイト侯爵に、セイラムがさてどうしようか、と思案しようとした時、国務大臣エサリッジ公爵と外務大臣スカーフィア女侯爵が助け船に入ってくれた。


「まあまあ、ハンゲイト卿。リオン伯は赤の魔女に弟子入りしたとはいえ、竜の専門家ではない。国王陛下から魔術師や精霊がらみの事件の専任捜査官に任命されており、彼自身非常に優秀であるとはいえ、できることには限界があるでしょう」

「エサリッジ公爵の仰る通りですわ。自分の能力以上のことに下手に手を出すと、ひどい火傷を負いかねません。適度なところで手を引き、専門家に任せるのが得策かと」


 二人の正論に、ハンゲイト侯爵は何やら唸り声を発して黙り込む。ハンゲイト侯爵と、魔術師肯定派のエサリッジ公爵はあまり仲が良くない。会議の場で議論から口論になるのはしょっちゅうだ。特に、魔術師や精霊が議題に上がった時は。

 スカーフィア女侯爵は中立派だが、完全にどっちつかずを保っている。その時々で対応を変え、力の大きな方にすり寄っていく蝙蝠のような者たちとは違い、真ん中でどんと構え趨勢を冷静に見極めているのだ。


「ハンゲイト侯爵」


 セイラムは静かな声で語りかけた。


「竜の魔力が如何程のものか、三十年前の王国北部で起こった暴走竜の破壊事件を経験したあなたならよくご存じでしょう。竜が持つ魔力の威力はちょっとした災害級です。街がほんの数分で破壊しつくされるほどの力を彼らは持っている。今回、卵が強奪された件では、風竜種は心優しく繊細な性格だったため、嘆くことに全力を注ぎ、怒りに任せて暴れることは二の次でした。ですが、いつ、その嘆きが怒りに変わるか、それは時間の問題でした。速やかに卵を戻すためには魔術師の助力が必要と考え、僕は組合に協力を要請したのです」


 言いながら、セイラムはハンゲイト侯爵をじっと見つめる。ハンゲイト侯爵は決して考えなしの馬鹿ではない。ただ、魔術師や精霊、魔術そのものに対する根強い恐怖と不信感が心の中を占めているだけだ。話しても分からない理解できない、いや、したくないと駄々をこねるような人ではない。

 案の定、ハンゲイト侯爵はつかの間考えこみ、不満げではあったが小さく頷いた。


「なんにせよ」


 じっと黙って大臣たちの発言を聞いていた国王が声を発したため、全員が姿勢を正す。


「専任捜査官であるリオン伯がこの件は魔術師の組合ギルドに任せると判断したのだ。この件はこれで仕舞いでいいだろう。何か異論でも?」


 国王の言葉に、全員が沈黙で応える。大臣たちの様子を見て、宰相であるサングラント公爵が代表して口を開いた。


「異論はございません」


 それを聞き、国王は満足げに頷く。


「では、この会議はこれにて閉会としよう」


 そう言って立ち上がった国王に続き、全員が席を立ち、お辞儀をする。文官の敬礼の仕方だ。軍務大臣であるシンクレア公爵のみ、武官の敬礼――挙手敬礼をしている。

 セイラムも一応軍務省に所属しているが、文官であるため、挙手敬礼はしない。

 国王が退室した後、会議の参加者たちもそれぞれ自分の執務室に帰るべくそれぞれ退室していった。

 セイラムも、自分に与えられている執務室と言う名の小部屋に戻ろうとしたが、そこに話しかけてくる者がいた。


「リオン伯爵」


 振り返ると、そこにはエサリッジ公爵とスカーフィア女侯爵がいた。

 やあ、と片手を挙げて微笑む好々爺といった見た目のエサリッジ公爵。

 夫である前侯爵が不慮の事故で死去した後、婿養子だった夫の後を継いで爵位を継承したスカーフィア女侯爵。

 セイラムは二人に近づき会釈した。


「お二人とも、何か御用ですか?」

「用と言うほどのものでもないのよ。ただ、さっきは大変だったわね、と思って」

「ハンゲイト侯爵の相手をするのは大変だろう? 彼は魔術に関わるものが嫌いだからな」

「大変、と言うほどでは……」


 セイラムは、曖昧に微笑んでお茶を濁そうとした。実際、ハンゲイト侯爵のような人物を相手にするのは大変でも何でもないのだ。

 この世界では、誰もが魔術の恩恵を受けている。魔術は便利なもので、魔術師のほとんどは善人だと皆知っている。だが、ごく一部の悪に染まった者が魔術を使い悪事を働くから、被害に遭う者がおり、セイラムの仕事が無くならないのだ。

 ルビロ王国北部、ハンゲイト侯爵の領地最大の街オパルスサイド。三十年前この街を襲った災禍も、悪意を持つ魔術師が引き起こしたことだった。オパルスサイド近郊の山に住む地竜種をわざと怒らせ、街を襲わせたのだ。

 オパルスサイドは壊滅し、数百人が死に数千人が住む家を失った。

 犯人である魔術師は組合の五賢者の一人、青の魔術師クレメンスによって捕らえられ、暴れていた地竜種も取り押さえられた。

 動機は貴族への完全な逆恨みだった。

 当時まだ二十代の若者だったハンゲイト侯爵は、この一件で魔術師や精霊への恐怖と不信感を抱き、否定派になったのだ。

 だが、過去に何かあって否定派になった者は、言葉を尽くしてよく説明し、魔術のことを知ってもらえばある程度の誤解は解ける。

 魔術は道具と同じ、使い方によって危険な武器にもなるのだ。

 世の中の魔術師のほとんどは正しい使い方をしている者たちだ。そのことをもっとよく知ってもらえれば、肯定派、否定派などというつまらない派閥は無くなるだろう。

 だから、セイラムは否定派の者を相手にするのは苦ではない。相互理解を深め、垣根をなくすチャンスだと思っている。

 少々面倒くさいとは思うが。


「むしろ、否定派の方たちの考えが知れて、今後の参考になります。この対立を平和的に収めるためには相互理解が必要だと考えますので」


 セイラムの発言に、エサリッジ公爵は一瞬あっけにとられ、次の瞬間爆笑した。


「はっはっはっは! なかなか面白いことを言うな、君は!」


 隣でスカーフィア女侯爵は、興味深そうにセイラムを見つめている。


「それより、エサリッジ公爵」


 セイラムの呼びかけに、爆笑していたエサリッジ公爵はようやく笑うのを止めた。


「何かね?」

「公爵のご家族のことなのですが……挨拶が遅くなって申し訳ありません、お悔やみを申し上げます」


 エサリッジ公爵の息子夫婦はつい二ヶ月ほど前に馬車の横転事故で命を落としていた。葬儀からしばらく領地に籠っていたのだが、喪が明けて王都に戻って来たばかりだった。


「どうもありがとう。気を使わせてすまないね。まさか我が子が自分より先に逝くとは思わなかったよ。昨年妻を亡くしたばかりだというのに……」


 エサリッジ公爵は悲しげな目をしていた。彼の言うとおり、昨年の夏にエサリッジ公爵夫人が、長患いの末亡くなったばかりなのだ。


「だが、心配はいらないよ。孫娘のレイラが私の支えになってくれるからね。あの子は本当に優しい子なんだ」


 そう言ってエサリッジ公爵は少々寂しげに微笑んだ。


「まあ、ハンゲイト侯爵には気を付けたまえ。否定派の者たちは何やら魔術師を排除するような法案を考えているとの情報もある。不確かなものだがね。だが、もし本当なら君も無傷ではいられないだろう。ではこれで失礼するよ」


 そう言ってエサリッジ公爵はさっさと去って行った。

 後に残ったセイラムとスカーフィア女侯爵は、どちらからともなく歩き出した。


「伯爵はこれからご自分の部屋に?」

「ええ、まだやらなければならないことがありますので」

「そう……」


 スカーフィア女侯爵はそのまま黙り込む。しばし無言のまま歩き続け、セイラムの執務室と外務省の部屋との分岐点に差し掛かった時、スカーフィア女侯爵はカツンとヒールの音を立てて立ち止まった。


「リオン伯爵、あなたに頼みがあるの」


 女侯爵の視線がセイラムを貫く。その真剣な眼差しに、セイラムは厄介ごとの気配を感じた。

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