第16話 本音

 真名を知るという目的を見失いそうなほど、苦しい。

(こんなの、鬼になれって言っているようなものじゃないか)

 時雨は率直にそう感じてしまう。

 もちろん、あの森の場面を見てしまうと、仕方がないように思う。街中を歩くにも、細心の注意が必要なのも理解できる。

 でも、そこにいるのが一人の少年だということを忘れている。

「そこまで俺を畏れるのか」

 出会ってすぐ、蒼鬼が口にした言葉が、今では違うニュアンスを伴って響く。

 生まれてからずっと続く、力のせいで隔たりのある世界。

 あの言葉は、諦めが言わせたものだ。

「っつ」

 と、そこで世界が大きく揺れた。

 精神に直接働きかける術の最中に、考え事をし過ぎたか。周囲は再び暗く、静寂の中に包み込まれる。

「おい」

「あっ」

 だが、違うことがあった。目の前に、蒼鬼がいる。封印の間にいた時と同じく、白い着物を着て、ぼさぼさの髪形で、にやっと笑って。

「人が忙しい時に覗き見か? いい趣味してんな」

 蒼鬼がくくっと笑って、時雨を真っすぐ見下ろしている。

 過去の記憶でも、幻覚でもない。

 本人が、術を利用して現れたのだ。

「別に、覗きがしたかったわけじゃない」

 あれこれ見てしまった後ろめたさから、時雨はつい、そう返してしまう。それに蒼鬼はますます笑う。

 相変わらずだ。今、現実では切迫した場面が展開されているはずなのに。

「蒼月」

「おいおい。その名前で呼ぶなよ。俺はもう、陰陽師じゃない」

 くくっと笑って、やっぱりからかってくる。

(こいつは目的に気づいて、邪魔しに来たんだ)

 深部に触れる前に。

 何もかも知られてしまう前に。

「真名を、真名を教えてくれ」

「あ?」

 そんなに見られたくないなら、お前の口から言え。時雨は睨むが、蒼鬼は不可解だという顔だ。

(目的に気づいたんじゃないのかよ?)

 思わず、時雨も不可解だという顔をしてしまった。

「――ああ。そうか、そういうことか。殺しに来たんだと思ったのに」

「っつ」

 真っ先にそっちを疑うのか。

 時雨は怒鳴りそうになったが、過去を見てしまっては、疑うなというのは無理だと気づく。

(こいつには、今まで助けてくれる人なんていなかったんだ)

 邪魔になったら排除される。それが当たり前で、それ以外を期待するのが馬鹿馬鹿しい。それが、蒼月の中では常識になってしまっている。

「お前が気まずそうな顔をするなよ。あと、真名は教えない」

「なんでだよ」

 睨むと、蒼鬼は疲れたように溜め息を吐く。

「いいから殺せよ。ここで俺の精神を破壊すれば、姫の目的である完全な鬼とすることは阻止できる。マジで最恐最悪の鬼を生み出したくないだろ? まあ、暴走した姫様をどうするかって問題は残るが、本庁全員でやればなんとかなるだろ。今まで封印していたんだし。それに、せっかくの死ねるチャンスなのに、ふいにするのはもったいないからな」

 ふと漏れた本音に、時雨は大きく目を見開く。蒼鬼は、やばっというように口を押さえた。

 たぶん、ここが精神世界じゃなかったら、最後の言葉は口を突いて出なかっただろう。心の深い部分でのやり取りだから、隠せない本音が出てきてしまったのだ。

「蒼月」

 どれだけ普通に振る舞っていても、蒼鬼は、蒼月は、この人生に疲れてしまっていたのだ。時雨は手を伸ばすが、蒼鬼は振り払う。

「見たんだったら、解ってるだろ。終わらせろよ。お前も、俺に復讐したかったんじゃねえの?」

「なんで、それを」

 知られているとは思っていなかったから、時雨は問い返す。

「初めて俺を見た時、殺気が隠せていなかったからな」

 バレバレだぞと、蒼鬼はどこまでも笑ってからかってくる。

「あそこにいた人たちを殺したのは、なぜだ?」

 だが、逃がさないと時雨は踏み込むと蒼鬼の腕を掴んだ。

 びりっと痛みが走ったのは、そこを現実世界で姫が触れているからだろう。

 対極と言いながら、実は同一の存在だった相手。

 だから、姫は蒼鬼を弾くことなく、その身に掛けられた呪術を利用することだって出来たのだ。

 蒼鬼がすっと視線を外す。

 珍しい。だが、だからこそ、確認されたくないことだと解る。

 これ以上踏み込めば、時雨が恨む気持ちそのものが消えてしまい、蒼鬼を殺すことがなくなると、気づいている。

「清浄の神子みこだったわけか」

 時雨は挑発するように問い掛けた。

 それに蒼鬼ははっとした顔をし、それから、やれやれと首を横に振る。

「清浄じゃないさ。俺は陰の気も寄せるからな」

 そして、そこだけ律義に否定してきた。

 確かに森での様子から、蒼月は妖怪に分類されるモノも呼び寄せていた。つまり、陰陽を自在に操れる状態だったのだ。

 鬼という呪のせいで、今は陰の気を集め、溜めてしまう。しかし、元はどちらの力も使い放題だった。本庁が封じたのは名前だけじゃない。陽の気を使う能力も封じたのだ。

「真名を教えろ! お前は清浄の姫の力すら、使えるはずだろ」

「嫌だ!」

 まるで駄々っ子のように拒否された。

「おいっ!」

 時雨はぐっと蒼鬼を引き寄せる。そこで初めて、蒼鬼の目が戸惑いに揺れ、怯えているのに気付いた。

「蒼月」

 そんな反応されるとは思っていなくて、時雨は困ってしまう。

「あっ」

 それからようやく、気づいた。

 ここは精神世界だ。彼の本来の部分が出てきやすい。

 鬼としての仮面が剥がれ、今、目の前にいるのは二十三歳の普通の青年なのだ。いや、ひょっとしたら、それより幼いのかもしれない。蒼月の心の年齢は、実年齢とは違って子供のままなのだ。

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