第44話 廃屋
アルベルト・ロッセリーニは廃屋に入ったきり出てくる様子もない。
ロッセリーニ領でも人気のない放棄された区画だ。人が寄り付くところでもないので、灯りが絶えてしまっている。
「まずいな」とリカルドは呟く。
暗がりが迫って来て、薄暗い路地はさらにうす暗くなりつつある。いかに注意を払っていても見失いそうだと思った。
アルベルトロッセリーニはまだ出て来ない。
リカルドは仕方ないので真向いの廃屋に忍び込み、そのまま向かいを監視する。
下手に動くと相手にも伝わるだろう。しかし、これでは相手にもこちらの応援が来れば伝わってしまう。ジリ貧と言えばジリ貧の状態だと思った。
―――しかし、どうしろって言うんだ。これじゃ何しているかもわからん。
アルベルトは誰かと会う予定なのだと思ったが、そんな様子もない。あるいは、あらかじめ誰かが真向いの建物の中にいたのかもしれない。その場合どうするか。
聞き耳を立てることも考えたが、そこまで接近して顔でも見られれば、もう騎士団の詰め所には戻れまい。一人ではあまりに危険だった。
白い月が登り始めて、強い寒気が忍び寄って来た。
足の指先に寒さが忍び寄ってきた。それでも緊張感で額から染み出るように汗がにじみ出てくる。それをゆっくりと左手の人差し指拭った。
―――どうだね。
耳の中だけで声が聞え、空耳かと思った。
「どうだね」と今度はもう少しはっきり。
「―――ブガーロ親方ッ」
思わず隣を見ると、真っ黒な盗賊衣装に身を包んだ、大柄な男がすぐ傍にじっとりとしゃがみ込んでいた。
―――嘘だろ、気配一つしなかったぞ。
「どうしたね」
何でもないように冴えない中年の男の声が耳の中のみに響く。
―――闇語りだ。
盗賊同士が闇の中で会話をする時に使う話法。不思議と相手以外には聞こえる事がない。名人ともなれば、雑踏の中でも目指す者の耳にのみ言葉を届けることが出来る。
「いえ。親方。いついらっしゃったので」
思わず聞いてしまい顔を顰めた。ブガーロの接近に気が付かなかったと白状しているようなものだ。
「いや、今来たところだよ。ついでに周りを一回りしてきた。アルベルト様は中でおひとりのようだよ」
―――いつの間にだ。この化け物め。
「そうですか」とも言えず、視線をアルベルトが籠る建物に注ぐ。驚くべきことだが、視線を外しただけで、ブガードの気配がうっすらと弱まる。
どれほど時が経ったか分からないが、月が天に差し掛かろうとしたとの時、親方がゆっくりと動いて指をさした。
眼をやると、奇妙なものが見える。
―――なんだ。
真っ黒な何かが見えた。目を凝らすと黒い何かを被った物が動いている。
「うん。あれだ。後を付いてきなさい」とブガーロ親方が言う。
顔を向けると、既にその姿がなかった。
リカルドは苛立たし気に舌打ちをし周りを見渡すと、破れた梁の端から黒い影が動いて消えるのが見えた。
何なんだ。アレ。
リカルドは十分に間を開け、建物の影を利用しながら黒い影を負う。
月明かりのあるところに差し掛かれば、黒い被り物を被った長身の男の姿も微かに見ることが出来る。
すっぽりと布に覆われているので人に見えないが、月光の下で見てしまえば他愛もないものだ。黒い布を羽織ったアルベルトに違いにない。
「なにやってんだ。あれは」と呟いてしまう。
市街をすり抜けるようにアルベルト・ロッセリーニは素早く足を進める。
ブガーロ親方の気配はないが、おそらくどこかでは見ているのだろう。
辻の向こうから、老いた農夫が歩いてきて擦れ違う。
目を剥いて怪しげなものを見るような顔をして通り過ぎて行った。頭をかすかに振っている。
しかし、アルベルトはそれには構わずに先に進む。
―――なんだろう。何かを探しているのか。誰かに会いに行こうとしているのか。
人通りが増えてきたが、アルベルトは気にした様子もない。
市街に差し掛かりふいに裏通りに入る。
四ツ辻に差し掛かったところで、緑色の服を着た裕福そうな身なりの若い男が見えた。黒い帽子を被っているが金色の髪の毛がはみ出していた。
「いかんな」
耳元でブガーロの声が聞える。
思わずアルベルトから視線を外してしまう。驚いたことに真後ろにブガーロ親方の巨体があった。
「追おう」
言い残したブガーロ親方は、家壁を蹴ると張り出した屋根に乗った。軽業師であるリカルドも顔負けの身軽さだった。
アルベルトに視線を戻す。
驚くべきことに、のんびりと歩いていた黒い影は、弾かれたように駆け、若い男を抱え込む。黒い被り物の中に巻き込み辻の奥に向けて、驚くべき速さで走っているのが辛うじて見えた。
―――なんなんだ。
リカルドも駆ける。
黒いつむじ風のようになった影が、昏い路地の奥に男を巻き込んでいく。抱え込まれた男は叫び声も上げること忘れた様だった。
最早陰に潜んでいる事もできない。全身に汗をかきながら後を追う。
角を曲がる黒い影に付いて行くうちに背筋が寒くなって来る。
―――俺は、何を追っているんだ。人間なのか。
人離れした勢いて走っていくが人肌が見えず、抱え込まれた若い男の手足がバラバラと踊る。
もうすこしで追いつけると角を曲がろうとした時、突然太い腕で肩を抱え込まれて、押さえつけられた。大柄な親方の手が、リカルドの腕を力強く掴んでいた。
「何たることだ。アフルレッド様」
ブガーロ親方のうめき声を聞き思わず顔を上げる。冷静さを失ったことがないと定評のある親方が眼を剥いて顔を顰めている。
視線を追うと、人気のない道が月光の白い灯りに照らされている。
―――アルベルトなのか。
アルベルトは、若い男を背中から抱いてこちらを向いている。若い男は手足をがくがくと揺らして、天を仰いでいる。
アルベルトは全裸だった。靴すら履いていない。体中が墨でも塗ったのか真っ黒だった。右手で若い男の金髪を鷲掴みにして仰向かせ、その男の首筋に後ろから齧り付くように噛み付いている。
血が溢れて若い男の緑のチュニックを黒く汚した。
左手に光るナイフを若い男の腹に突き刺して、持ち上げるようにして一緒に抱え込んでいる。なるほど擦れ違いざまに、おそらく腹に突き立てたのだ。
緑の服の男が痙攣した末に、力を失ったように崩れ落ちた。
アルベルトの姿を見ることが出来たが、リカルドは見なければよかったと思った。
―――その顔。
顔から足の先まで黒く染め上げられ、まるで悪霊そのものだった。開いた口に並んだ歯が尖って血が滴り落ちているのが見えた。瞳が大きく開かれ、白目が真っ赤に染まっている。
「―――おぉ。アルフレッド様。あれでは。あれでは御子息はもはや」
ブガーロ親方の声が聞える。
リカルドは今日この時ほど親方が隣にいる事がありがたいと思ったことはない。
アルフレッドの、完全に狂気の宿った目が月を睨みつけ、おもむろに金髪の男の体に覆い被さり、顔を歯で齧り取ろうとしているのが見えた。
―――人狼
軟骨が齧り取られるような音がして、リカルドは怖気が振るい気が遠くなる。
「―――引こう」ブガーロ親方の声が遠くで聞える。
リカルドは必死に頷き、気が付くと来た道を死ぬ気で駆けだしていた。
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