第12話 女鹿

「ひどい事を言うなぁ」

 素一は言いながらルイスを見る。白皙の青年は申し訳なさそうにしながらも、口元にいつも通りの微笑みが浮かんでいる。


「私の生活も、唯々一冊の本を求めて、図書館を周遊するような物。つい、こんなことがあると楽しんでしまいますね。まぁそれはさておき」

 ルイスさんは、腕を組んで小首を傾げる。

「長兄アルベルト氏はどうも粗暴な性質のようですね。ジーノ・ロッセリーニの去年の有様はあと少しで命を落としかねないようでしたし」

「本当ですよ。記憶が一緒になっているせいか、恐怖感も伝わってくるんですけどね。ジーノ自身も、ここで終わりだと思ったんです。命があったのは偶々だと」

 素一は、眉間を右手で押さえながら言う。その時の気持ちが沸き上がってきて、気分が悪くなる。


「なぜ、アルベルト氏はジーノ・ロッセリーニを殺したいんでしょうね。だって、どんなに心配だって自分がアルフレッド伯の長子であることは変わりませんのにね」

「そうなんですよね。ジーノ自身もそれについては全く分かっていないんですよ。だって、ジーノ自身は、アフルレッド伯の子供ではないですからね」

 ジーノは母フランカとその前夫の子供であって、アルフレッド伯自身の子供ですらない。つまり言ってみればジーノがアルベルトに敵視される理由が見当たらない。

 

「まぁ…、今の所早くしないといけないのは、ここから無事に脱出しなくてならないという事ですかね」

 ルイスさんは本棚に目をやりながら言う。

「逃げてしまう訳には行かないならば、この場をごまかさないといけない」


 素一も釣られて本棚に目をやる。

 一瞬、理解のできない背表紙ばかりが並んでいるが、意識を向けると何が書いてあるか途端に理解が出来た。面白いもので、技術書が並んでいると思えば、小説も並んでいる。指で背表紙を触ると布張りの本の手触りが返ってくる。

 ふと、思いついて手が触った図鑑を抜きだしてみる。

「なるほど。面白い案ですが……。上手く行きますかね」

 ルイスさんが手元を覗き込みながら言った。


 「クソがぁ!」

 常緑の木々の深い緑の合間にぽっかりと開いた空き地は、手ごろな狩場だった。馬を繋いで潜んでいたら、二頭程連れ立って草を食み始めた女鹿を射かけたものの、綺麗に外して逃げられた。


 アルベルトが大声を出すのを、ピッポは冷めた気持ちで聞いた。実兄ながら頭の血の巡りが悪いこの兄のことを、ピッポは心から軽蔑している。実際、アルフレッド伯の領地を継ぐにふさわしいは、自分のみだとすら思っていた。


 しかし今のところは。と思う。

 この愚兄をうまく操っていかなくてはならない。常識的には跡継ぎは常に長兄であり、今は全てをこの長兄が引き継ぐのだ。

 

 ピッポの立場とジーノの立場は実はそう大きく変わらない。それがピッポにとっては腹立たしくて溜まらない。間違いなくアフルレッドの血筋でありながら、境遇は継子のジーノと変わらないとはどうしたことだ。


「兄上、まぁ今のは運がなかった。次は上手く行きますよ」

「おう。クソ女鹿のくせに逃げ出すとはな」

 アルベルトの言い分を聞いて苦笑いを浮かべる。誰だって命を狙われれば逃げだすに決まっている。あのジーノですらそうするだろう。


「兄上。まぁ今日はいいではないですか。必要なことは、周りの者に済ませさせましたし、気分が乗らなければジーノを叩きのめして遊ぶという事もできますよ。そうだ、ジーノを逃がさないようにして射かけるのはどうですか。あるいは裸足にひん剥いて、森に逃がすとか。鹿の様には逃げ出せないのでは?」

「そうか! さすがピッポおもしろい事を考える。だが殺してしまっては父上がなんというかなぁ」


 アルベルトが小首を傾げて考えるふりをした。中途半端に顔が良いので、余計に馬鹿に見えた。

「殺すまでもなく手足を射抜くとか。ジーノには、黙っていろといっておけばいいのではないでしょうか。森で転んだとか言わせておけば」

「言う事を聞くだろうか?」

「兄上、聞かせるのですよ。必要であれば、母であるフランカに危害を加えるというのはどうでしょう」

「フランカか。それは…いいかもしれんな」

 ジーノの母であり、今や義母ですらあるフランカへの危害を提案されて、アルベルトは口元をゆがめて笑う。


 ピッポはフランカの豊かな金髪と色白い美貌を思い浮かべる。

 三十路を超えるフランカは、年増になり肢体に肉が付きつつあり、逆にそれが強い魅力になってきていた。

 ここ数年、アルベルトは義母フランカへの歪んだ妄想を隠しきれていない。

二人で酒を飲んでいるときには、露骨な事を言い出すことも頻繁になっていて、ピッポはその度に兄を窘めてきた。

 

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