第26話

 少女は世界に絶望していた。少女の名は『リュカ』という。

 ごく普通の家庭に育ち、幸せな日々を送っていた。それでも彼女の幸せな日々はすぐに消え去ってしまう。

 父は幼少期に他界した。当時、地陸族と船海族で争いがあった。父は先の戦争で命を落としたのだと母から聞いたことがある。そんな母も病に倒れ、先日亡くなってしまった。彼女に兄弟はいない。

 働くこともままならないほど、彼女は憔悴していた。


 少女リュカは世界に絶望していた。

 何もできないのなら、今の自分に生きている価値はない。

 働けないのなら、食べ物も買えない。ただ飢えて死ぬのを待つのみだ。

 苦しみ続けて死ぬくらいなら、楽に死にたい。

 そうして彼女は、高い鉄橋の上に風を受けながら夜の町に立ち尽くしていた。


(もう終わりにするんだ)


 世界に未練などない。生きる気力も、意味もない。


(さようなら世界。今行くよ、お父さん、お母さん)


 彼女は重力に従うまま、体を世界へと落とした。


 ――『待って』


 ゴウ、と強くも優しい、温かい風が少女を包み込んだ。寸でのところで少女の体は落下を免れた。


「――え?」

『少しだけ、待ってほしい。お願いよ』

「……竜……さま……?」


 温かい風の正体は天竜族ルーナであった。

 本体は地界に下ろすことができないため、幽体と意識を風に変え、少女に会いに来たのだ。

 今少女は透明のルーナに抱きかかえられたような状態で空中に浮かんでいた。ふわふわとした浮遊感に少女は

 雲を駆ける竜の姿が、優しく水面に映っていた。

 ルーナは少女の様子を確認すると、ゆっくりと地上へと彼女を下ろした。


「……月、みたい……」


 透明な竜、その背後には月が見えていた。その月明かりがルーナを照らし、その姿を現実世界へと映し出す。

 美しい、それでいて厳かな竜であった。

 少女はルーナから目を放せずにいた。月を眺める竜は、それほど酷く美しかったのだ。


『……ごめんなさい。どうしてもあなたに、お願いしたいことがあって……』

「……いえ……」


 ルーナは見ていた。

 少女が先ほど何をしようとしていたのかを。

 ルーナは分かっていた。

 それが少女の願いだったということも。理解をしていた。

 けれど、ルーナには今、この少女が必要だった。どうしても、必要だった。

 自分の欲望を叶えるために、必要だったのだ。


『……私の名はルーナ。天竜族の皇女であり、この世界の均衡者。……あなたに、私の願いを叶えてほしくて、会いに来ました』


 ルーナは、少女に向かって優しく息吹く。ふわりと優しい風が少女の髪を吹き抜けると、淡い青い光が、少女の掌に現れた。それは人肌のように温かい、安心する光だった。


『それはある人の声です。その声の持ち主に、その声を返したいの』

「返す……?」

『ええ……声を返さなければ、はあと少しで、私の所為で死んでしまう。私はあの子を助けたい。でも助けるためには、地上での体が必要なのです』

「……体?」

『私の、この姿は仮の姿。幽体です。本体は現在、天竜国にあります。八年前に掟を破ってしまった所為で、私は地上に降り立つことができません。この姿も、いつまで保つか……』


 ルーナは哀し気な目をして少女を見つめた。少女は「何を言っているんだろう」という表情でルーナを見ていたが、次第にルーナの話を理解していったのか、ルーナの竜の手を優しく握った。


「……天竜様は、私に生きる意味をお与えくださる、ということですか?」


 それは呪いにも似た言葉だった。

 それは縋りたいという少女の欲望であった。

 その気持ちを汲んだルーナはゆっくりと少女に寄り添うようにして首を近づけた。


『そう思ってもらっても構いません。でも、私はあなたの思うような綺麗な存在ではありません。私は、あなたを利用しようとしているのだから』

「……それでも、天竜様は私を助けてくださいました」


 ルーナは、自分で蒔いた種だと分かってはいても、どこか心が痛みを訴えていた。

 けれど、これはもう決めたことだった。


(……覚悟の上だ、痛みなど)


 ルーナは、少女に向かって『うた』の羅列を歌い始める。『詩』は先ほどの淡い青い光の周りを渦巻き、球状の光を作りだした。

 少女はぼんやりとその光を見つめながらルーナに問う。


「……天竜様……あの、『あの子』とはいったい……?」

『――の、スリープという青年です』

「……!」


 船海族という言葉に少女は息を呑んだ。その理由はルーナが一番理解していた。


『……無理を承知でお願いしています。あなたにしか、お願いできないのです』


 少女は少し考えて、そしてルーナを再び見つめた。


「……分かりました……。私、上手にできるか分からないけど、天竜様のお役に立てるようにがんばります」

『……本当に、ありがとう』


 ルーナは微笑むと少女の心の中に溶け込むようにして、彼女の目の前から消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る