第17話

「す、すみませーん! キュウさーん! お待たせしましたー!」


 影が消えて少しすると、エイドと共に『クリーン』がやってきた。

 クリーンを送り届けるとエイドは自分の持ち場に戻っていった。その場に、クリーンとキュウのみが残った。


「えと、よろしくお願いします、クリーンさん」


 キュウが笑顔でクリーンに握手を求めたが、クリーンは少し複雑そうな表情をして握手をやんわりと拒んだ。行き場を失ったキュウの右手はゆっくりと引っ込められた。


「わ、私としてはこの仕事はお断りしたかったのですが、エイドさんがどうしてもとおっしゃるので……」

「えっ、すみません……」

「あ! 違くて! 私は、この仕事に誇りを持っているんです! だから……私にだけさせてくれれば、」


 いいのに……と、尻すぼみに彼女の声が小さくなっていく。ああなるほど、とキュウの中で合点がいった。クリーンは自分の仕事が取られてしまうのではないかと恐れているのだ。キュウは優しくクリーンの手を包み込み、そして微笑んだ。


「……エイドさんはクリーンさんのことを信頼しているから、私のことをお願いしたんだと思います。だから、そんなに思い詰めないでください」

「……はい。ありがとうございます」


 クリーンは少しだけ微笑んだ。クリーンが落ち着いた頃を見計らってキュウは質問した。


「……それで、私は何をすればいいんですか?」

「私の仕事はこの船内を綺麗に清掃することです。はい」


 クリーンに渡されたそれは清掃道具だった。辺りを見渡すと、いつの間にかそこにはありとあらゆる清掃道具が並べられていた。


「ブラシ……ですか?」

「……文句ありますか?」


 その言い方には棘があったので、キュウは少しだけ怖気おじけづいた。


「いえ、無いですけど。雑巾とかでやるのかと思っていたので」

「……生憎と、雑巾は今ビリーブさんが先日吐かれたときに全て使ってしまったので一枚も無いんです。今日やっと全部の洗濯が終わりました」

「そんなことまでするんですね」

「それが仕事ですから」

「……そうですか」


 自分よりも下の年齢かもしれない子が、こんなにも自分の仕事に誇りを持ち頑張っている姿を見ていると、自分が情けなくなってしまう。早く記憶を取り戻したいな、と願うばかりのキュウであった。


「それでは私はあちらの方を掃除してきますのでキュウさんはあの倉庫をお願いします」

「分かりました」


 ――とは言え、キュウの担当する倉庫は明かりが少しも差し込まない、暗い場所であったため、キュウは半ば泣き出しそうになっていた。


「暗いなぁ……ちょっと不気味だなあ、怖いなあ……」


 う、う、と唸りながらもも倉庫掃除を進めていく。作業を続けていれば、この恐怖心もどこかへ去っていくのではないか、という一縷の望みを掛けていたがそれは叶わなかった。去っていくどころか増すばかりであった。


 私は暗い場所が苦手なのか。

 でもどうして苦手なのかは分からないままで。

 キュウの耳には、水の滴る音が幻聴として届いた。これはきっと記憶の一部だと思った。


思い出せ。こういうときはどうすれば落ち着くのか。

思い出せ。水が落ちる場所がいったいどこだったのか。


 ――こういう時は、うたを歌いましょう?


 透き通る声が突然キュウの脳内に響いた。その声に影の存在を重ねたけれど、どうしてそう感じたのかはキュウには分からなかった。

 ただ、詩を歌うという声にキュウは妙に納得した。キュウはすぅ、と深く息を整えた。そして、頭に浮かんでくる言葉を音の上に並べ始める。


あまの雫は言の葉となり、海に大地に希望を与えよう】

【世界を創るは竜の涙。恵みの雨は何処いずこから】

【ああ、天の竜よ、詩を歌え。雨音に乗せて歌えや歌え】


 一節歌い終えると、先ほどまで感じていた恐怖心はどこかへと消えていった。カタン、と背後で物音がした。キュウが振り向くと、クリーンが呆然と立ち尽くしていた。その表情は硬かった。


「それは……」

「す、みません……! な、なんか静かに掃除するのって、気まずくって……!」


 キュウは咄嗟に歌っていたことに対しての言い訳をした。決して掃除をサボっていたわけではないのだと必死に彼女に弁明する。しかし、クリーンの意識は掃除を中断したことに対してではなく、先ほどまで歌われていた詩に向けられていた。


「何でっ、何で知ってるんですか⁉ その詩は、!」


 『フリーさんの詩』と、クリーンはそうはっきりと言った。

 誰も彼もがフリーと口を揃える。キュウはそれを聞く度に無性に泣きたくなる衝動に駆られ、必死に抑える。


「……あの。フリーさんって、いったいどんな方なんですか?」


 スリープから聞いただけでは、まだ分からないことが多過ぎる。だから、何でもいいから聞きたかった。知らないことがあるだけで、こんなにも足元がぐらつく感覚に襲われる。キュウは無意識のうちに自分の胸元をぐっと強く握り締めていた。覚悟を決めたはずのその口から発せられた彼女の声は、心とは裏腹に震えていた。

 クリーンは動揺していたが、キュウの震えた姿を見て何かを決めたような表情をした。深呼吸をひとつき、そしてその重たい口を開いた。


「……あなたが、この船に来てから……エイドさんもスリープさんも、みんなも複雑な空気です。でもそれはいいことの現れなんだと私は信じています。だから……話します。私が知っていること。あなたになら伝えてもいいと思うから」


 キュウは心を決めて、クリーンの話を聞く姿勢を取る。クリーンはブラシの持ち手を強く握って、震える体を抑えた。


「――私の教育係は現在はアイさんなのですが、その前はフリーさんという女性の方でした」

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