第16話
「え、あの、アイさん?」
「もういいか? ……お前の酒癖の悪さには付き合いきれない。早く仕事に戻れよ、馬鹿」
続いてエイドも吐き捨てるとどこかへと行ってしまった。オールはビリーブの方に手を置いて、にかっ! と笑うだけ笑って去った。
その場に残ったのはビリーブとキュウ、そしてスリープのみとなった。散々騒ぎ立てたビリーブは落ち着きを取り戻しつつあった。
「え、ええ?」
『まあ、いつものことだから。あんまり気にするな』
「俺の記憶違いだったのかぁ……。ま、いっか。ん? よぉスリープじゃねえか! 相変わらず顔色白いなぁ!」
『それ、遠回しに不健康って言ってるよね?』
「何言ってるか聞こえないけど、何が言いたいかはなんとなくわかったぜ」
「……遠回しに不健康って言いたいんだよね、と言ってます……」
なんてポジティブな人なんだと感じつつ、スリープの言葉をそれっぽいニュアンスを含ませてキュウが呟いた。
瞬間、ビリーブの纏っていた空気が妙に張り詰めた気がした。ビリーブの顔を確認すると、心底驚いた表情でキュウを見つめた。こくり、と息を呑む音が聞こえた気がした。
「……なに。キュウちゃんはスリープの言ってること、わかんの?」
「え、は、はい。わかります……?」
「…………そか!」
ビリーブは少し考えたのち、満面の笑みを浮かべた。
「キュウちゃん、これからもそいつの話し相手になってくれよ。今までエイドしか話し相手いなかったからよ。それじゃ、俺はこれで」
ビリーブは再び歌を歌いながら仕事の持ち場へと向かった。音程は、合っているのかどうかまでは歌を知らないキュウでは判別ができなかったが、それでも陽気な声で歌われたその歌は、どこか温かい気持ちになるには十分だった。
「なんだか……嵐のような朝でしたね」
『ビリーブの酒好きは過ぎるところがあるから。ついでに二日酔いも酷かったり、物忘れも激しいから、あまり関わらない方がいいよ。というかこんなの日常茶飯事だから』
「皆さん、本当に家族みたいで羨ましいです」
『……そっか』
キュウの輝く笑顔に、スリープの表情は分かりにくく歪んだ。
潮風が二人の髪の隙間を通り抜けていく。気持ちいいなと目を瞑っていると、背後から「キュウ」と名前を呼ばれる。キュウは肩をびくりと震わせた。彼女を呼んだのは、戻ってきたエイドだった。
「はい! な、なんでしょうか」
「お前もこの船の一員になったんだ。今日からこいつの下で一緒に働いてもらう……ん? クリーン? おい、クリーン!」
『クリーン』という人物のことをキュウは朧気にしかその面影を憶えていなかったが、その姿は今どこにも見当たらなかった。
「……いらっしゃいません、けど?」
「はあ……またいつもの人見知りか、まったく。ちょっとここで待ってろ。捜してくる」
エイドは少し不機嫌そうに頭を掻きながら船内を捜しに戻った。そんな彼を見て、しょうがないな、とスリープも動き出す。
『僕も行ってくるよ。キュウはここで待ってて』
確かに一人で捜すよりも二人で捜した方が効率がいい。キュウは「分かりました」と頷いて、近くに置いてあった荷物の木箱の上に座って待つことにした。
「スリープさんってすごいなあ。歌が上手で、みんなのお兄さんみたい。聞いてた通りの人だったなあ。……あれ? 誰に聞いたんだっけ……?」
――ルーナ。
不意に目の前に『影』が現れる。その姿ははっきりとはしておらず、言うならばそれは陽炎のようだった。
そこにあるのに触れることができない、ゆらめく陽炎。
「……ねえ、あなたはいったい……?」
いつも私の夢に現れる『声』。キュウはそれがこの『影』だと感じていた。
「……あなたは、この船の人なの?」
――影は、いつも誰かの影であることを望む者。……影は全てを知っている。お前が知らないことも知っている。
影は、キュウに人差し指をさした。姿の無いものが誘惑を仕掛ける。
――教えてほしい?
可能なら、と喉元まで言葉が出かかる。けれど、もし今この影から全てを聞いてしまえば、それは意味がないことなのではないだろうか。この心のもやもやは、ここに乗るまでの記憶については、きっと自分で探し出さなければならないことだとキュウは思っていた。
――探す。無意味。なのに意味を見つけようとするの? 無駄なのに。
影は彼女の心の内の声を読んだのか、不機嫌な口調でキュウに問う。キュウは一瞬影の圧に恐怖を感じたが、同時にあることに気がついた。
例え、その行動が無意味だったとしても、いつか意味があったと思えるようにすればいいのだ。キュウは今までの不安を感じさせない晴れた表情で影に笑顔を見せた。
「気づかせてくれて、ありがとう」
影は黙った。妙な間ができてしまい、キュウは少しずつ不安になっていく。
「あ、あの、どうかしました?」
――似ている。
「え?」
――君は『フリー』に、とてもよく似ている。
影はそう言い残して、消え去ってしまった。去り際の影の表情はよくは見えなかったが、どこか悲し気に感じたのは気の所為だろうか。
「……そんなに、似ているの……?」
知らないはずの人なのに、どうしてこんなにも懐かしく思うのだろう。もどかしさだけがキュウの心を苦しめた。
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