第11話

 時は過ぎ、翌朝となった。

 楽し気な歌が少女の耳に届く。この歌声は昨日のあの人の声だ。

 ゆっくりと重い瞼を開けると太陽の眩しさが少女の目を刺激した。まだ本調子ではないが体を起こして歌の聞こえる部屋の外へと少女は足を運んだ。


「……眩しい……」


 そこは船の上。見たことのない絶景が少女の心を打つ。知らないはずなのに、知っているような感覚。その景色は彼女が涙するには十分な世界だった。


「あっ、起きました?」

「えっ」


 年の頃は少女と同じくらいだろうか。掃除用具を持った少女――クリーンが彼女を覗き見る。少女はビクッとしてまた転びそうになったが間一髪のところで後ろに立っていたエイドに支えられて転ばずに済んだ。


「あ、ありがとうございます……」

「大丈夫ですか? まだ本調子じゃなさそうですね?」

「だ、大丈夫です……少し、ふらつくだけですから」

「船酔いかしら? でも顔色は良さそうね。ねぇエイド」

「……ああ」


(この人が、あの人の言っていた……エイドさん)


 少女は昨夜スリープに言われたことを思い出す。彼の言っていたという人はこの人のことだろう。表情が読みづらいからか怖いイメージを持つ。少女は支えられた体を離そうと「大丈夫です」と体勢を立て直した。


「あ、あの……ここ、は」

「ここは船海族の船の上だ。……お前は誰だ。どこから来た」

「ひっ」

「そんな威圧してやんなよエイドー」

「ビリーブ」


 ビリーブと呼ばれた男は医務室の屋根に座っていた。酒瓶を片手に持ち、顔が少し赤らめながら、それをと飲んでいた。


「だが問いたださなければ、」

「だーかーら、そんな怖い顔しながらはダメだって。よっと」


 ビリーブは屋根から飛び降り、少女の前に立つ。彼にエイドより怖い印象は持たなかった。ビリーブは笑顔で少女に問う。


「――で、君は誰で、どこから来たのかな?」

「……わ、私は、地陸族で……陸国の出身です。名前は……名前……?」


 名前が、思い出せない。なんで?

 自分の出身地は思い出せるのに名前のみ思い出すことができない。


「え、えとっ……」

「ちょっと、ビリーブさん!」

「ち、違う! 誤解だクリーンちゃん、俺は何もしてない!」

「な、名前……分かりません……。ごめんなさい」

「記憶喪失……? 困ったわね。これからまた陸に降りるのは数か月後だし……。それまでは一緒にこの船で生活しなくてはいけないのだけど。ねぇ、エイド?」

「……なんでいちいち俺に聞くんだ」

「だって今この場にオールさんがいないんだから、次にこの船で決定権を有するのはあなたでしょう?」


 アイは意地の悪い顔をしてエイドを見た。エイドは何も言えない表情でアイを睨むしかなかった。


「しっかし、妙なこともあるもんだよなー」

「ええ、この船に船海族以外の人間が乗り込むなんてね」

「俺らの船には陸の客人が乗ることはまずない。……外交の場合以外はな」

「私、地陸族の方と直接会ったのは初めてです!」


 クリーンは満面の笑みを浮かべて少女の手を優しく包み込んだ。じんわりと冷えていた手に血が巡っていく。少しだけ焦りも落ち着き、少女は冷静さを取り戻していった。


「……次の停泊まではこの船で生活しなきゃいけないんですね……」

「そうだ」

「名前が無いと、不便ですよね……」


 思い出そうとしても思い出せない。さらにはここに来た経緯もノイズが混じったように耳鳴りが邪魔をする。無意識に少女は左耳を押さえた。クリーンが心配そうに少女のことを見ていたが、彼女は集中していたためそれに気がつかなかった。

 すると彼らは自分の意見を口々に言い始めた。


「ウォッカとかどうだ?」

「酒から離れなさいな」

「フールとかはどうですか? 少し前に船内で流行りましたよね!」

「悪気が無いのは分かっているわ。でもそれ地陸族の言葉で鹿っていう意味らしいわよ」

「えっ! そうだったんですか⁉」

「じゃあ、ジンとか……」

「だから酒から離れろって」


「――


「え?」


 アイがふと綺麗な声で言葉を発した。その場にいる全員が彼女の声に聞き入った。


「では、キュウというのはどうかしら? 陸国では、謎、という意味を表すのでしょう? 存在も記憶も謎だし、いいと思うのだけれど」

「おお……! アイがまともなこと言ってる」

「今すぐその酒瓶で頭蓋骨を粉砕してもいいのよビリーブ」

「うっ、すまん」

「じゃあ決まりね。……改めまして、私はアイ。この子はクリーン。そこの酔っぱらいがビリーブで、怖い顔のお兄さんがエイド」

「誰が怖い顔のお兄さんだ」

「その顔が怖いって言ってるのよ」


 少女――ことキュウは一つだけ疑問に思っていた。近くで聞こえていたはずの歌がすでに聞こえなくなっていたことに。そしてその人物が彼らの前に現れないことに。


「……あの」

「何かしら?」

「もう一人、色白で喉の辺りに痣がある人がいませんでしたか?」


 キュウの発言に、その場にいた者はさぞ驚いたことだろう。この少女は知らないはずだった。同じ船の中にいても、船海族の自分たちですら会うことが少ないというのに。どうして彼女はの容姿を知っているのか。


「あの、」

「……ついてこい」

「わっ」


 キュウはエイドに右手首を引っ張られ、その場から離れた。


「ど、どうして彼女、のこと知っていたんでしょうか……?」

「さてね。……もしかするとこの船の時間が動くかもしれない。面白くなってきたわね、ビリーブ」

「あー、酒が足りねえ」


 ビリーブはアイの言っていたことを認めたくないのか、はぐらかすようにして厨房へと戻って行った。クリーンは何が何だか分からず、ただアイの表情を窺うことしかできなかった。アイは目を細めて昔を思い出しているようだった。


「大丈夫、きっと、時間は動き出すわ。あとは覚悟を決めるだけ」

「……アイさん?」

「なんでもないわ。さて。私たちも仕事に戻りましょうか」

「は、はい!」


 時間が進むことを望む者。

 時間が動き出すことを恐れる者。

 それぞれの時間が進み始めた。

 それは良いことなのか悪いことなのか。


 それは誰にも分からない。

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