第10話

 少女が目を覚ますと、そこは少女にとって見知らぬ場所だった。

 まだ意識がはっきりしないのか、ゆらゆらと視界が揺れている。視線をくるくると回し世界を見る。少女は部屋の窓から夕暮れの光が零れているところを確認する。かなりの時間が経っているようだった。

 ふと、目の端に一人青年が映った。スリープである。彼は椅子に座り、何やら難しそうな本を、機嫌がいいのか鼻歌交じりに読んでいた。鼻歌はとても美しい調べを奏でていた。


「……だれ」

「……」


 スリープは少女の声に反応すると、座っていた椅子からゆっくりと腰を上げ、少女の方へと近づいた。手を頭に翳したので少女は何をされるのかと、ぎゅっと目を力強く瞑った。

 もしかすると先ほどの絞首時のことを憶えているのかもしれないとスリープは思った。少女の目には恐怖が映っていた。少女にはそう、見えていたのかもしれない。スリープは少女の表情を確認すると一瞬だけ静止し、少し考えた末、少女の額に手を伸ばした。ひんやりとした感覚に少女は驚き、瞑っていた目を開けた。


「……っ?」

『……怖がらせて、ごめん。まだ動かない方がいい。少しだけ熱があるみたいだから』


 その声は、少女には


「……あの、っ、けほっ」


 口の中がしょっぱい。何故? と少女は記憶を辿る。

 あの時、知らない人たちに囲まれて怖くなり、焦った少女は足を踏み外して近くにあった生け簀の中へと落ちた。息ができなくなり苦しかったのを思い出す。周りには食用と思われる魚たちが逃げ泳いでいた。

 ああ、死ぬのかなと意識を手放そうとした時、目の前にいる彼ではない他の男性に助けられた。

 生け簀の外に運ばれた際に感じたのは――自分の唇とその男性の唇が触れ合った、人工呼吸キスだった。


「ふわぁあああ⁉」


(私、知らないうちに知らない人にファーストキスを奪われたの⁉)


 少女の顔はみるみる赤くなっていった。ころころと変わる少女の表情を見て、スリープは少し面白がった。


『ふはっ。あれはキスじゃなくて人工呼吸だよ。人命救助措置。なにを恥ずかしがることがあるんだ?』

「それは、そうですけど……!」

『…………。……待って?』


 その会話にスリープは違和感を持った。会話が成立している? まさか。――そうだ。自分の声はこの船内では誰にも届かないはずなのだ。なのに何故、、地陸族の人間である――とされる――この少女には聞こえるのだろうか。


『……ねぇ君、僕の声聞こえてるの?』

「え、」

『聞こえてるの?』

「き、こえて、ます……?」


 聞こえている。聞こえて、いるんだ。もしこれが現実であるなら、スリープにとってそれは良い兆しだった。声が聞こえるということは少女は天竜族かもしれない。天竜族であれば、『彼女』の今を知っているかもしれない。そう考えたからである。

 しかし現実はそう上手くいくはずもなかった。


『君は、天竜族なのか?』

「い、いえ。私は地陸族の生まれ、ですが……?」


(そう、だよな)


 スリープは表情を変えることなく心の中で落胆した。


「どうしてそんなことを聞くんですか……?」


 少女が不思議がっている。それもそうだ。初対面で、しかも殺されそうになった彼女に、お前は天竜族なのかと訳の分からないことを問い質したのだから。


『僕の声が聞こえるのは何故だろう、と思っただけだよ』

「えと……普通に、聞こえていますよ?」

『――――』


 スリープは驚いた。ただの地陸族、なんの力も持たない人間だぞ。なのに何故聞こえるんだと、疑問符だけが彼の脳内にぐるぐると渦巻いた。


「……えと、だいじょうぶ、ですか?」

『…………君が起きたこと、エイドに……君を助けた人に言ってくるよ……』


 彼は酷く動揺しているようだった。少女はその時何を思ったのか、彼の服の裾を掴んだ。少女の雰囲気がその瞬間一変し、記憶の中の『彼女』に重なった。


「『あなたは何も悪くない。見間違いは誰にだってあるものよ』」


 おおよそ、少女の声ではない別の音が、少女から発せられた。その話口調はまるで『彼女』そのものだった。


『君……』


 真実を確かめようとしたその時、少女は再び意識を失った。ベッドから落ちる寸でのところでスリープは咄嗟に少女を支えた。


『いったい、何が起こってるんだ……。これも、君の算段なのか? フリー』


 眠っている少女をゆっくりとベッドの上へと倒し、毛布を上に掛けてやる。そしてスリープは医務室を静かに出た。

 今日は何かが可笑しい。八年前のあの日と似ているからだろうか。

 やけに星空が眩しく見えて、スリープは思わず目を閉ざしたくなった。

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