第16話 罠
ティアとの愛に破れたアルウは、失意のままテーベを去りアビドスに戻った。アビドスの工房では相変わらず弟子達が忙しそうに動き回り、彼らはアルウの姿を見つけると待ち構えていたように多くの指示を仰ぎにやって来た。アルウは図面を睨みながら、あるいは作品を弟子達と一緒に見ながら、そのつど的確な指示を彼らに出した。こうして再び仕事に忙殺される毎日が繰り返され、アルウは悲しみに浸る間もなく、瞬く間に数週間が過ぎ去った。
そんなある日、アルウが神殿内で黙々とオシリスのレリーフを制作しているとパロイがやってきた。
「……」
アルウはパロイに気づき、
「パロイ、久しぶり!」
と親切に声をかけた。
ところがパロイは挨拶も返さずにアルウを一瞥すると、
「相変わらず下手な絵だな、それじゃただの落書きじゃないか。オシリス神が冥界で泣いてるぞ!」
パロイはさげすむような目でアルウのオシリスを侮辱した。
「……」
アルウはパロイの言葉に腹が立ったが、昔から彼の口の悪さはよく知っていたので、パロイを無視して制作を続けた。
無視されたパロイは急に腹をたて、
「思い上がるなよ!」
捨てぜりふを残してその場から急いで立ち去った。
パロイはアルウの作品をみて、そのみごとな出来映えに自尊心を傷つけられたのだ。
数日後、パロイは親方マーネの推薦でようやく神殿内の制作が出来るようになった。ところが神殿に入ってからのパロイは相変わらずアルウを徹底的に目の敵にするような態度をとり続けた。事あるごとにアルウの作品をけなしまくり、ありとあらゆる汚い言葉でけちをつけ、見下すような目線で彼に接した。しかしパロイがどんなにアルウをけなしてもアルウは彼を相手にせず、次々と素晴らしい作品を生み出していった。
ある日、アルウはエスカレートするパロイの態度に業を煮やして、とうとう真正面から彼と対立した。
アルウは言いがかりをつけにくる彼に言った。
「パロイ、人のことなど気にせず自分の腕を磨いたらどうだ!」
アルウが毅然とした態度でそう言うと、パロイは物凄い形相でアルウを睨み、
「思いあがるな!」
そう言い放ってアルウを一瞥しその場から立ち去ろうとした。
アルウはパロイの背中に向かって、
「おまえの作品には魂がこもってない。作品を愛すること、制作することを楽しむこと、人を喜ばすこと、その心が欠けているから駄目な作品ばかり生まれるんだ」
強い口調で言い放った。
パロイはうすうす自分でも気づいていたことを、アルウから指摘されたので怒りが頂点に達した。
「きさま!」
激しく叫びながらパロイはアルウに飛びかかり、胸ぐらを掴んで殴ろうとした。その時、神官達の声と足音が近づいてきた。
「おぼえとけ!」
声に気づいたパロイは、アルウの胸ぐらを掴んだ両手を放し足早に立ち去った。
それからというものパロイは意地になって制作に打ち込み、どんな依頼も精度良く設計通りに仕上げたが、所詮、職人の域を出ることはなく、人の心や魂に響く作品を生み出すことは出来なかった。
悔しくてしかたがないパロイは、ある日、思いあまってアルウが制作した神殿のオシリスの絵を見に行った。
オイルランプだけの薄暗い神殿の壁面に、ひときは人目を惹きつける色鮮やかな彩色のオシリスの絵があった。
「これが奴のオシリスか」
パロイは作品をよく見ようとオイルランプを近づけ目を凝らした。
「ばかな……」
まるで信じられない物を目の当たりにするかのように、パロイの目はオシリスに釘付けになった。
「いったいどうしてこんなに繊細で色彩豊かな描写ができるんだ。しかも刻まれた線という線は生き物のように脈動し、その線に命を吹き込む見事な色使いがされている。絵の細部という細部にまるで神が宿っているようだ……」
オシリスの絵をなぞるパロイの指先が震えた。
あまりの見事さにパロイはそれ以上言葉が続かなかった。
オシリスがまるで心や魂を、いや、命をもっているかのように生き生きとしてパロイを見つめているのだ。
どうあがいてもパロイの負けだった。
パロイはアルウが描いたオシリスの絵の前に跪き両手をついて頭を項垂れた。
パロイは自分とアルウを比較することばかり考えていた。いや、アルウばかりでなく、自分以外の全ての人と比較した。比較することで彼は自分の価値を確かめていたのだ。しかも彼は自分より相手が劣るとみると冷酷にさげすんだ。ところが自分に勝ち目がないとわかると、心の中で狂いそうになるほど嫉妬して苦しんだ。そして必ず最後は自分の負けを認められずに、相手とその作品をけなし、自分の自尊心を守った。
パロイにとって人生は自分が自分のことをどう思うか、どう評価するのではなく、自分が人からどう思われるか、世間の評価が高いか低いかが重要だった。人と競って勝つことが重要だったのだ。そんなパロイの作品は見る人を感心させても、人の心や魂を打つことは出来なかった。そのことに気づけないパロイは、いつまで経っても心や魂を磨くことを怠り、心を嫉妬や怒りや憎しみで満たすばかりの毎日を送った。
アルウは石像やレリーフを制作することがなによりも好きだった。制作に打ち込んでいるときのアルウは、プタハ神が乗り移ったかのように、どんなに繊細な図柄も、どんなに難しい彫刻も、まるで遊んでいるように楽しく刻んだ。
アルウには高い技術もあったが、なによりも彼は制作することが好きで作品を愛していた。彼は全ての作品に対して、優しかった父との思い出や、辛かった子供時代の心の痛み、悲しみ、苦しみ、愛する気持ちを教えてくれたティアへの甘く切ない思い、そんな数々の心に刻まれた思い出のダイアモンドを一粒一粒丁寧にちりばめながら制作に打ち込んだ。そうしたアルウの作品に対する愛情が彼の作品に命と魂を吹き込んでいた。
人と自分を比較することばかりで、自分の心の声に耳を傾け、向き合おうとしないパロイは、いよいいよ制作に行き詰まり、嫉妬と妬みが臨界点に達しようとしていた。そんな彼のところにパネブの息子で幼なじみのコンスが訪れた。コンスはペンタウェレトの動きが遅いことに焦りだしたパネブの差し金でもあった。
コンスはいつまでたっても冷や飯食いのパロイを気の毒そうに見つめ、
「おまえはあきらかに不当な扱いを受けているぞ。アルウの奴は周りを姑息な手段で騙している。天が奴を裁けないのならおまえが裁けばいいじゃないか」
と嘘と挑発で彼の心の闇を刺激した。
ところがパロイは、
「余計なお世話だ。おまえの親父はテーベ職人長を首になったそうじゃないか。俺のことなんかより自分の未来を心配しろよ」
そう言って取り合わなかった。
「それこそ余計なお世話だ。これだけ屈辱を受けても何も出来ないお前は所詮負け犬だ」
コンスはパロイの言葉にムカつき、必要以上にパロイを煽った。
「なに。負け犬だと。もう一度言ってみろ」
さすがに負け犬とまで罵られると、パロイの怒りは頂点に達した。
「負け犬だから、負け犬と言ってるんだ」
コンスもいつのまにか頭に血が上っていた。
「きさまぶっ殺してやる」
激しく叫び声をあげパロイが飛びかかった。
「暴力をふるうな!」
コンスは神殿の床に押し倒された。
「この野郎!」
パロイは床に倒れたコンスの上に跨がって殴りかかった。その時、パロイの右手を誰かが掴んで制止した。振り返るとアルウだった。
「よすんだパロイ。ここは神殿の中だ。こんなことが神官にでも見られたら、即刻、宗教裁判にかけられるぞ」
アルウの言葉にパロイは、ハッとして、掴んでいたコンスの胸ぐら放した。それから立ち上がってアルウを睨むと、
「こいつに足下すくわれないように気をつけろよ」
そう言ってその場から立ち去った。
立ち上がったコンスも無言で立ち去ろうとすると、
「コンス、怪我はないか」
アルウは親切に声をかけた。
ところがコンスはアルウを一瞥し、
「余計なお世話だ」
吐き捨てるように言ってその場から姿を消した。
ティアとの愛に破れ傷心のアルウだったが、その苦しく辛い気持ちを制作に打ち込むことで徐々に昇華していった。そして次々と素晴らしい作品を生み出していくと、アルウのアビドスでの評価はますます高まった。
そんなアルウとは裏腹にパロイは激しい嫉妬と焦りを感じ、自分の理想の姿と現実とのギャップに苦しんだ。
コンスはなんとかしてアルウを貶めようと企んでいたので、パロイの心の闇を利用してアルウに危害を加えさせようとしていた。そこでコンスは、出世を続けるアルウを快く思わない先輩職人や同期の職人を探し始め、古参の職人達の中にアルウのことを快く思わない職人が多数いることに気づいた。彼らは新参者のアルウが自分達を差し置いて重要な制作を任され、しかも親方のように様々な指示を自分たちにしてくることがとても気にくわなかった。
コンスは父親パネブと練り上げた計画を実行するために、アルウを快く思わない職人頭の一人、マーネにそれとなく近づき根も葉もない嘘の噂を囁いた。
「マーネ、あんたにだけ打ち明けるんだが」
「なんだ、コンス」
「ちょっと耳を貸してくれ」
「おう」
「……実はアルウの奴、神殿の中でアテン賛歌を口ずさんでいたんだ。しかもアマルナの手法を石像やレリーフに取り入れていたそうだ」
「な、なんだと!」
「声が大きい」
「しかし、そりゃ大変なことだ」
「だろう」
「王様が忌み嫌い、アメン神官も目の敵にしている邪神アテンを崇拝しているのか」
「そうなんだ」
「しかも神殿の中で」
「おそれいったよ」
「神官にばれたらただじゃすまないな」
「ああ、死刑は免れまい」
「だが証拠がない」
「実はアルウの奴、熱心なアテン教徒の婚約者がいるって噂だ。しかも家族同然のつきあいをしているらしい」
「じゃ、家族ぐるみでアテン信者の可能性があるってことか」
「そうだ」
「このまま奴をほっといたら、俺たちも、とばっちりを受けるかもしれん」
「まったく迷惑な話だ」
「どうするコンス」
「アテン教徒であるという尻尾を掴まないとどうにもならん」
「何かおまえに名案はあるのか?」
「いや、ないが、もし奴がアテン教徒なら必ず作品の中に何らかのアテンの印を刻むに違いない」
「なるほど」
「その現場を押さえれば奴の神への冒涜を食い止めることが出来る」
「だが奴がそう簡単に尻尾をだすか」
「そこが問題だ」
「奴は思い上がっているからな」
「この極秘情報は誰にも話さないでくれよ」
「ああ……」
「じゃ!」
コンスは手短に話すと、その場を立ち去った。後に残されたマーネは日頃からアルウの出世を快く思わなかったので、コンスからの話を聞いて怒りを抑えきれなくなり、すぐに仲間の職人達に噂して回った。するとコンスの予想通り、噂は瞬く間に職人達や神官達の間に広まった。さらに、アルウの制作したオシリス像が近いうちオシレイオンに納められることになっていたので、コンスは父パネブがアメンナクテから職長を奪ったときのように、アルウのオシリスに細工をして彼を罠に落とそうと企んだ。
そこでコンスは、相変わらず冷や飯食いのパロイがアルウの作風を熱心に研究していることに目をつけ、オシリスのあるパーツのレプリカを彼に造らせることにした。もちろんコンスからは指示を出せないので、彼はパロイの上司でもあるマーネと申し合わせ、なんと、パロイにオシリス像の偽の図面を渡し、オシリスの頭部をその図面通り造らせることにした。
その図面にはオシレイオンに納めるオシリス像の頭部のパーツが描かれていた。ただ、オリジナルと一箇所違うデザイン、それはオシリスの頭に被せるアテフ冠の頂点の太陽球体にアテン神をイメージするような小さな絵がデザインされていたことだった。
そんなこととは思いもせず、パロイは初めての大きな仕事を任されたと有頂天になってオシリスの頭部を渡された図面通り制作した。
コンスはさらにぬかりなかった。彼はせっかく刻んだアテン神のレリーフが発見されなければ意味がないと、オシリス像がオシレイオンで公開される日に、アテフ冠を被ったオシリスの頭部がズレ落ちる細工をマーネと企んだ。オシリス神像の奉納式典の最中に頭部が崩れ落ち、落下したオシリス神のアテフ冠に、神官たちがアテン神のレリーフを目撃すればアルウの命運も尽きると踏んだのだった。
「マーネ、どうすれば音もなく、オシリス像の頭を落下させることが出来るだろか?」
コンスはアルウの制作室から盗み出してコピーしたオシリス像の図面を睨みながら腕を組んだ。
「そうだな」
マーネは唇を硬く結んで暫く沈黙した。
「粒子の細かな砂なら」
コンスはピラミッドや王墓の隠し部屋によく使う方法をイメージした。
「なるほど、砂をバランスに使って少しずつ流れ落ちるようにすれば、音もなくオシリスの頭を落下させることが出来るかも知れないな」
「そうだ、バランスだ! その方法でいこう!」
コンスはすぐにペンをとって図面を引いた。
その図面にマーネが書き加え、二人は試行錯誤して一枚の図面を描き上げた。
「できたな」
コンスが満足げに図面を見つめ両手で広げた。
「これでアルウの奴も首が飛ぶぜ」
マーネがニヤリとした。
「この首の繋ぎ目の部分に微量の砂を仕込んでおけば、式典の真っ最中に頭が落下する」
コンスは興奮した。
「式典に出席した王子と王女の目の前でオシリスが崩壊したらどうなるか」
マーネは笑った。
「その時はアルウの奴め、首が飛ぶどころか死罪は免れまい。あんたはアビドスの次期職人長だ」
コンスはマーネの肩をたたいた。
「そういうあんたの親父もテーベの職人長だな。そしてあんたが世襲する」
マーネが笑いながらコンスの背中を軽くたたいた。
「なにしろ今の王様になって公共事業がどんどん大規模になってきたからな、それだけ我々職人の仕事も増え、職人長の利権も巨大化する」
コンスが鋭い目つきで窓の外の建築中のセティ一世神殿を見ながら話した。
「利権もそうだが、俺はあの新参者のでしゃばり小僧が大嫌いなんだ」
強い口調で言って、マーネが拳を握りしめた。
「王様は式典には来ないのか? なにしろ王様はアルウの奴を特別扱いしている。だから王様の動きが気になる」
急にコンスは真顔になって訊いた。
「心配いらねぇ。王様は紛争を鎮圧するためリビア方面に遠征している」
「ならアルウを擁護する邪魔者はいないわけだ」
安堵したコンスは椅子に腰掛けた。
「アルウを可愛がっている職人長が庇うだろうが、アテンのレリーフが大神官の目にとまれば、アルウはすぐに宗教裁判にかけられ、死罪を言い渡されるだろう」
そう言ってマーネも椅子に腰掛けお茶を飲んだ。
「大神官は潔癖な男だ。アルウを死刑にするだろうか?」
コンスもお茶を一気に飲み干した。
「大神官のブテハメンはプライドが高くて面子に拘りすぎる。だが厳しすぎるぐらいに信仰を守る男だ。オシレイオンの中に納めたオシリスの像に邪教のシンボル、アテン神のレリーフが刻まれていたとあっては、アルウを裁かないわけにはいくまい」
マーネは長年アビドスにいて大神官ブテハメンという人間をよく見ていた。
「なるほど……」
マーネの洞察力にコンスは恐ろしさすら感じた。
「パロイの奴に造らせているオシリス像の頭部のレプリカに、砂のバランスを流し込むスペースを造らせなければ」
コンスがそう言いながら、目をマーネに向けると、
「明日、あいつに指示しとく」
マーネが頷き了承した。
「万が一、もし」
そこまで言ってコンスが躊躇っていると、
「もしなんだ?」
マーネが怪訝な顔をしてコンスを睨んだ。
「もし、落下した頭部が偽物だとばれたらどうする?」
コンスは敢えてマーネに確かめるつもりで訊いた。
「しらじらしい事を訊くなよ。コンス。当然あの偽物を作ったのはパロイの奴だから、パロイが犯人として罪を被ことになるさ」
マーネは当然のごとく言い放った。
「だが指示したのはマーネだとパロイが証言したらどうする?」
コンスはマーネの反応を待った。
「そしたら俺はコンスから依頼を受けた図面をパロイに渡したまでだと証言するさ」
「貴様、おれを売るつもりか!」
「まぁ、よく聞け。おまえはその時、アルウの召し使いのナキから図面を受け取ったと証言すればいい。ナキは少しおつむが鈍いから、罪を被せるにはもってこいだぜ」
「なるほど」
コンスはうなり声をあげた。
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